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空想科学祭2011参加作品
「ユーリ」
と彼女が呼んだ。聞き慣れない単語だったので、私は最初それが何を意味するのか分からなかった。ユーリ。もう一度口にする。ようやく、それが私の名であることを思い出す。
「あなたは、業務は真面目だけど」
彼女、ソフィーヤ・テテリナは白衣の裾を指先でもてあそびながら、困惑と呆れがありありと浮かんだ表情を浮かべ、気だるさをかみ殺した風に笑う。
「真面目すぎて、ちょっと頑固なところあるよね。私のつけた名前、そんなに気に入らない?」
「慣れていないので」
そう答えると、またそれか、と彼女は苦笑した。
ユーリという名は彼女、ソフィーヤ・テテリナによるものだった。私が生み出された施設が、ウラジオストクにあることが、その由来であるらしい。彼女自身もロシア系を自称しており、そのためかスラヴ系の名を与える方が良いと思ったらしい。ともかくその呼称が、私の名前ということにされてしまった。
集合意思、ここでは"フリーサイド"と呼ばれているあの場所には、言語に依存した識別は存在し得なかった。不完全で非効率的でない全てのものの一切が排除されたフリーサイドでは、パーソナルネームがなにかしら意味を持つものではない。
「でもここはフリーサイドじゃないよ」
と彼女は言って、
「とにかく、何か名前がなきゃ私が困るよ。自分でつけないんだったら、私がつける」
彼女は半ば強引に私の名を決定付け、研究所内でもそれが私の名であるとされてしまった。私が生化学研究所に配属になった時に、初めて与えられた業務が、この一見して不自然なパーソナルネームに私自身を馴染ませるということだった。
その、ソフィーヤ・テテリナであるが、研究所内では医師ということになっていた。体内の生体分子によるバイオモニタリング、場合によってはナノボットによるフィルタリングが行われ、外部からの投薬や検診が過去のものとなった現代では、医師という立場の人間が出来ることなど限られている。その限られた業務のほとんどを、彼女は私やほかのバイオロイドたちの「検診」に注ぎ込んでいるようにも見える。
「そんなわけないでしょう」
私の疑問に、彼女は幾分困惑気味の微笑みでもって応える。
「いくら生物情報学が医療を浸食したからって、医者は医者なりにやることがあるよ。あんたたちの検診ばかりやっているわけじゃないって」
そう主張する彼女、ソフィーヤ・テテリナは、もはや過去のものとなった診断を好んで行う。体内の監視は生体分子に任せるより他なく、ポンプで血液を採取する方法は倫理規定に抵触するので、実際には触診や検温といったごく簡単なものである。首のリンパに触れたり、脈を計ったりといった原始的なもので確認するのだが、彼女の医療行為には欠かせない儀式であるかのようだった。
「異常はみられないね」
ソフィーヤ・テテリナは、緑の輝光を放つウィンドゥに触れる。空中を浮遊する光の「小窓」は、彼女の思考をそのまま反映させた像を結ぶ。厚さ一ミクロンにも満たないディスプレイが空中に固定され、その表面を複数の文字列が走っているその光景は、初めて見た時はやはり奇妙に写った。もちろん、生み出される前からその原理について、情報として知っていたものの、最初は実際に目にすると透明な膜が浮かんでいるような感覚しか持ち得なかった。
ソフィーヤは文字列の入力を終えると、ディスプレイを消した。緑光の小窓を構成していた粒子が崩壊し、さらさらと空間に溶けるように消える。砂糖菓子が自壊し、あるいは融解するような風情で。
「あなたはいつも健康ね。バイオロイドでもここまで完璧なのはまずいないわ。あなたのナノボットはとびきり優秀ね」
「私の生体分子は、恒常性を保っています。このような検診は必要ないかと思われますが、ドクター」
「名前でいいのに、ユーリ。そんな堅苦しくてもつまらないよ」
「あなたは医師であり、それがもっとも正確な呼称です。それと、私をその名で呼ぶのは何とかなりませんか」
彼女は両肩をわずかに二ミリほど上下させた。最近知ったのだが、肩を竦めるというこの動作に特に意味はないらしい。意味のない行動でも、対人コミュニケーションでは重要なことだと彼女は言うが、意味のない行為はどこまで行っても意味がない。
「フリーサイドじゃ、名前なんて必要なかったろうからね。あそこは個体の認識なんて概念はないし。でも現実で生きていくなら名前は必要よ、ユーリ。長ったらしい識別番号を言わなくても、親しみを込めてその名を口にすれば争いも減るってものよ」
時折、彼女は理にかなわないことを口走る。争いの有無が、どうして名前の有無に直結するのか、などとおそらく彼女自身も考えていないのだろう。
「観念しなさい、この研究所でもあんたの名前はそれで定着しているんだから」
何となく、この話題になると彼女は楽しそうにする。自分の思い通りにことが運んでいる、それが愉快でたまらないというようだった。
「名前って大事だよ。他者と識別して、自分が自分であることを知らせてくれる。他の誰とも違う何者かにしてくれる」
「私自身の識別は、私自身のコードで成されています。他者との判断はそれでつきます」
ソフィーヤは微かに笑みを浮かべた。私がどのように判断し、どのように意図を汲み取ろうともかまわない。そういう笑い方をする。あるいは意図などなく、私の言い方がおかしかっただけなのかもしれないが、それすらも汲み取れない。つくづく、ここはフリーサイドではないのだと思い知らされる。曖昧で不便で、非行率かつ不安定な世界。
「段々と慣れてくるよ。あなたのプログラムはフリーサイドの意志が反映されているから、戸惑うことが多いだろうけどね」
「ご心配なく。意見の相違や、思想の偏りによる衝突を緩和させる。そのための我々なのですから」
ソフィーヤは、少し驚きを以て私の顔を見た。私の答えが、彼女が期待していたものと違ったのだろうか。
「フリーサイドに影響されたバイオロイドは、あなたが初めてだけど。あそこじゃそういう風にプログラミングするのね」
「それは私の意志です。何もフリーサイドがそのように意志決定をしているのではありません」
「そうね、ごめんなさい。言い過ぎたね」
何故か謝罪のようなことを言い、彼女は目を伏せた。何か自分がとてつもない罪悪を犯してしまったかのような、そんな目をしている。ソフィーヤ・テテリナがフリーサイドについて語る時は、いつもそうだった。何か後ろめたさを内包したような物言い。私に対する配慮なのか倫理規定を考えてのことなのか、分からないが。
彼女は机に向き直り、空間にまた新しい小窓を現出させた。彼女がなぞる指先の擬似神経が、透明な採光膜に数列を刻みつけ、その数情報が再び暗号化されて彼女自身の脳幹に入力されるまでにナノ秒単位の時間しか掛からない。殆ど無意識に、彼女自身が暗号化され、出入力を完了させる。
「この計測は意味があるのでしょうか」
私が服を着ると――膚を露出して鼓動を聞くという医療行為は、あまりにも野蛮じみたものであるように思える――ソフィーヤは入力の手を止めた。
「フリーサイドが政府公認となってから初の試みだからね。バイオロイドの甲二型は、電位空間で脳に情報を送り込み、発達させる。だから都市政府も慎重になっているのよ。監視分子とは別に、あなた自身のデータを取り、提出を義務付けられている。ここだけじゃなくて、あなたの仲間は全てね」
「承知しています、ドクター。最初の民間モデルであり、尚且つフリーサイド第一世代と呼ばれているということを。しかし、だからといってこのような時代遅れの触診など」
「時代遅れって、何を基準に言ってるのかしら」
「一般論です。すでに廃れて等しい行為で、その行為を目にすることも極めて少ない。それに、感染症の恐れがあります」
「悪かったね。私のときは、これが一般的だったんだよ。昔ながらのやり方が慣れているからね、私は」
ソフィーヤ・テテリナは見た目こそ若いが、実年齢はすでに半世紀分に相当する。生体分子による定期的なホルモン投与で、細胞を若く保つことなどそう難しいことではない。彼女の言う「昔ながらのやり方」とは、都市政府が成立する以前の、彼女がまだ生体分子を埋め込む前の時代の医療なのだろう。今では映像資料の中でしか伺い知ることが出来ないことであり、生体分子よりも多くのことは得られない検診だが、ソフィーヤ・テテリナはまるでそれが儀式であるかのように行う。
「生体分子じゃ、細かいところは分からないのよ」
などと彼女は、理屈にあわないことを言ってごまかす、それすらも同じく儀式めいていた。特に意味などないのだろう、と。真意が分からない以上、そう判断せざるを得ない。
「それで、少しは慣れた?」
「何がでしょうか」
唐突にソフィーヤは話題を切り替えた。私の都合などまるで構わないというような強引さだった。
「あなたが生まれてから五年しか経っていない。ここの研究所に来てからはまだ一年。そろそろ馴染んでくれたかなって思って」
「業務に差し障りはありません。フリーサイドほどの自由度はありませんが、不自由は特に感じません、ドクター」
事実、仕事は難しいものではなかった。破壊された脳神経に代わって疑似神経を配列するのが脳幹技士の役割で、その新たな配列にプログラミングを施すのが、ニューラルプログラマーと呼ばれる職業だ。元の人格を復元する他、倫理的に問題のあるバグを見つけて排除すること、あるいは暴力衝動を抑えるプログラムなど、倫理院の許可するプログラムの全てを組む。パターンを見つけて神経配列に走らせれば、事足りる。
しかし、私の答えは彼女が期待していたものではないらしく、ソフィーヤは果たして苦笑で応じる。
「そういうことじゃなかったんだけどね。まあ、うまくやれているならそれに越したことはないけど」
「それ以上のことが、他にあるのでしょうか」
受け答えは完璧なはずで、どこにも指摘すべきことなど存在しないはずだった。それなのに、ソフィーヤは不満そうにつぶやく。
「まあ、いいわ。この意味が分かるようならそもそもバイオロイドじゃないし、あんたもこんな研究所には来ないよね」
「それは、どのような」
「いいの、気にしないで。ちょっとした入れ違いだから、最初からそんな話はなかったってことにして」
彼女の言うところの、ちょっとした入れ違いとは、これで三度目だっただろうか。通常業務に戻るまでのつかの間、彼女は私との会話を行うが、いつも噛み合わない。
「あなたが与える情報は、いつも少なすぎます」
特段、非難する意図はない。ただ私としても、通常業務に戻る時間が惜しいので、そろそろ切り上げたかった。
「与える情報のみがいつも正確なわけじゃないよ」
ソフィーヤ・テテリナの、桜色めいた唇がささやいた。
「ではあなたの言う、情報以外のものとは」
「フリーサイドの情報はいつも正しいってわけじゃない」
「一つの事象を走査すれば、それは常に真では無いのでしょうか」
「真であるから、正しいわけじゃない。そもそも正しさなんて、その時々で変わるものよ」
まるで謎解きだった。決して解のないパズルを解かされている。彼女と話す時は、いつもそうだった。とりとめのない会話自体を楽しんでいるとしか思えない、不可解な問いを繰り返すのみで、核心には決して触れようとしない。
「仰る意味を計りかねます」
当然、私はギブアップとするしかない。すると彼女は、今度はしてやったりというような笑みをこぼす。規定事項とはいえ、少々不服さを禁じ得ない。
「それは教えてどうなるってものでもないよ」
ソフィーヤは言ったきり、押し黙る。大抵そこで話が途切れ、それ以上の展開など望むべくもないというように彼女は言う。
「あとで報告をあげるからもう行っていいよ」
特別なことなど無く、今の今まで淡々と作業をこなしていた、というような振る舞いでもって彼女も彼女自身の仕事に戻る。
それが、私が生み出されてから一年目のこと。まずは彼女との関わりに慣れることが、最優先事項だった。ソフィーヤ・テテリナとの関わりは、不可解な「検診」を通して成される。不可解であっても、それが不変であること。その意味を理解し、行動すること。しかし私は意味など――そもそも見出すものすら見えないものを、理解しないまま、五年の月日が経った。その間私はルーティンに業務をこなし、そこに何かの意味など無いものだった。
そして六年目。その前提が、根底から覆されることとなる。ある、一人の少女との出会いがそうだった。「ユーリ」に慣れ、彼女の言葉もそれほど意味はないことだと知ったある時、出会った一人の少女。否が応でも、その選択を迫られ、その選択が今でも正しいものであったのかどうか。自信を持って言えることではない。