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経済の話

農業が熱くなる話

 とある地方自治体の農政課。そこの課長は後数年で退職を控える、坪山毅という男が勤めていた。この男、公務員にしては珍しく、直情径行で頭に血が上り易かった。しかし、その反面、親分肌で面倒見が良い、という気質の持ち主でもあり人望がある。その気質の所為か、若い頃は様々な事件を起こしたものだったが、歳を取ってからはあまり目立った話を聞かない。それで人によっては、「坪さんも丸くなった」、などと彼を評価するが、実を言えば本人としては面白くなかった。

 “おれが変わったんじゃねぇ。世の中が、つまらなくなっただけだ”

 そう呟いてみたりもする。

 坪山が最も暴れたのは、その昔、この近くに工場が建てられそうになった時の事だった。周囲の環境が汚染されれば、当然、農業に悪影響だ。そんなものの建設は認められないと、彼は住民の先頭に立って猛抗議したのだ。その結果、工場の建設は中止になり、住民達はそんな坪山に大いに感謝をした。その頃の記憶は、未だに多くの年長者達の中に残っている。出世には向かない気質なので地位こそ高くはないが、その実績のお陰で、彼はこの地域に大きな影響力を持っていた。彼の上司よりも更に上の立場に当たる人間でも、彼の顔色を窺うほどだ。

 が、坪山はここ十年ほどは、その行動力を発揮してはいない。先にも述べた通り、歳を取ってからは目立った話は聞かなかった。

 “太鼓の音が鳴らねぇのよ”

 坪山はそんな事を思う。太鼓の音とは、彼が興奮し行動を起こし始める前に、耳にする幻聴だ。どうしてそんなものが聞こえるのかは本人にも分からない。それが予兆なのか、それともそれを切っ掛けとして坪山が奮い立つのか。もしかしたら、両方なのかもしれないが、とにかく彼は、行動を起こし始める前に、いつも太鼓の音を聞く。

 ドン ドン ドン

 太鼓の音。未だにその音は耳に残っている。坪山は工場の会社まで行って、大声を張り上げていた頃の自分を思い出していた。あの頃は良かったとそう思う。護るべきものがあり、倒すべき敵がいた。しかし、今はどうだ? 皆はすっかり腑抜けてしまった。

 今のこの地域には、工場が建っていた。環境基準を見事にクリアして、悪影響を与えないと判断された安全な工場だ。実際に、建設されてから随分と経つが、何か健康被害が出たという話も聞かないし、自然に悪影響を与えたという話も聞かない。もちろん、それでも工場の建設によって生態系が失われているのは事実なのだろうが、少なくとも農業には支障がなかった。その証拠に農家達からの苦情は一切ない。苦情どころか、感謝すらしている者がいるほどだ。工場があるお陰で人が集まり、なんとか過疎化が防げているからだ。しかも、彼らの跡取りの多くは農業を行わず、中には工場で働く者もいる。

 ――だからだ。

 と、坪山は思う。

 「TPPだか、FTAだか知らないが、誰も本気で抗議しようとしねぇ!」

 彼は自分もその一人だという自覚のないままそう呟いた。自由貿易。関税なしで貿易を行えば、日本からの輸出が有利になる一方、安い輸入製品が大量に入ってくる。日本とは比較にならない程の広大な農場で生産される農作物は、スケールメリットを活かしてとても安価だ。多くの人々が指摘しているが、今のままでは勝負にならないだろう。国際的に農作物の価格が上がって来ていると言っても、まだまだ日本の農作物の方が価格は高い。

 だが、この地域の人々の心境は複雑だった。自由貿易が実現すれば、工業製品の輸出は有利になる。そうなれば、農業にはダメージでも工場にとってはプラスだ。そして、今やこの地域は工場がなければ、立ち行かなくなってしまっている。一方、農業は衰退の一途を辿っているのだ。長い目で考えれば、自由貿易に踏み切った方が良いのかもしれない。しかし、そうなれば本当にこの地域の農業は滅びてしまう可能性もある。

 「どうすりゃいいんだ!?」

 坪山はそうまた独り言を言った。何かが間違っているのは分かっている。しかし、彼には何が間違っているのかが分からなかった。そこに年輩の内の一人が話しかけた。

 「坪さん。何をそんなに荒れてるんだよ。若いもんが怖がるから止めてくれ」

 そこは役所の一室で、今は昼間の勤務時間中なのだ。彼はする事なく暇だったが、他の職員は淡々と作業を続けていた。その職員達は確かに坪山の様子に怯えているようだった。中でも、明らかに態度がおかしいのが一人。坪山はその一人を視界に入れると、「チッ」と舌打ちした。その一人は、今年入ってきた新人で、名を杉平といった。背は高いが、全体的にヒョロっとしていて、いつもおどおどしている。坪山はそんな彼を「へなちょこ」とそう呼んでいた。

 “最近の若い連中は、こんなのばかりか?”

 そんな事を思う。

 それから坪山は、先日、杉平が昼休み中に見ていたインターネットの記事を思い出した。彼は偶然に、それを見てしまったのだ。それは公務員の高額所得に関するもので、特に高齢者に支払われる給与が批判の対象となっていた。

 財政赤字が酷く、国家破産すら懸念される状況下で、公務員の給与を引き下げないのは異常だとか、そんな内容だ。民間では崩壊に向かっている年功序列的な給与の支払い方法が全く見直されていないのが特に問題だと、そこには書かれてあった。人口比が変わり、若者が少なくなったのだから、高齢者へ支払われる金は減らさなくてはならないのは当たり前の理屈。当然の事ながら、単純な給与だけでなく、手当てや退職金、共済年金もそこには含まれる。

 元々、坪山はインターネットが嫌いだった。無責任な連中が偉そうに勝手な事を言い合っているという印象を持っている。しかし、その記事を読んだ時、彼はそれとはあまり関係なく腹を立てた。彼には、過去自分が大いに働いてきているという自負があったからだ。地域社会に貢献し、労働成果を収めてきた自負が。何の根拠も示さず、高額の給与を求めるのとは違う。しかし、彼は今とても暇な自分を省みて思った。確かに自分には仕事がない、と。それなのに、高い給与を貰っている。貰う価値のある仕事をしていたのは、もう遠い過去の話だ。それに見るからに情けない、今の若い連中…… こんな奴らが、重い負担に耐え切れるとはとても思えない。

 しかし、坪山はそう思ったからといって何か行動を起こそうとは考えなかった。ただ、その記事の内容をもっともだと認めただけだ。問題は問題なのだろうが、そこに何かしらの感情は芽生えなかった。危機感は麻痺したまま。彼は良くも悪くも感情型の人間で、理屈で納得するだけでは行動には結び付かないのだ。

 “ま、なるようになるわな”

 坪山はそう思うと、それから大きな欠伸をした。後少しで自分も退職だ。退職金や、年金が少しくらい減らされても構わないが、自ら積極的にそれを推し進めようとまでは思わない。そんな活力は沸いてこなかったのだ。


 ――さて。

 突然ではあるけども、この物語の中に“あなた”が存在しているとしよう。あなたはこの物語の舞台となるある地方に住んでいる。そしてあなたは、今の公務員の恵まれた待遇に対して不満を持っている。だから、あなたはインターネット上でそれを訴えているのだ。

 『公務員に支払われる税金、特にほとんど減らされていない高齢者の公務員に支払われる高額の税金を減らさなければ、それは国民の重い負担になってしまう。国民の負担になれば、国民の間には確実に自殺者が出る。公務員の場合は、平等に減らすといった事が可能だが、自由競争が行われている民間の場合は、累進課税は酷過ぎれば経済発展を阻害するため高額所得者のみをターゲットにはできず、弱者がその犠牲になってしまうからだ。それには人の命がかかっている。今こそ、国民の奉仕者である公務員がその責務を果たすべく、負担を担うべき時だ。国民の命を犠牲にしてまで、金が欲しいと思っている公務員は少ないだろう。国家破産すらも懸念される今の状況を、どうか理解して欲しい。

 自分達の給与を割き、地域の産業復興の為に使っている地方自治体も中にはあるのだ』

 そんな内容の記事を、掲示板に投稿している。

 そして、あなたは同時に経済の問題も訴えている。このまま発展途上国が発展をし続ければ、様々な資源が枯渇していくのは目に見えている。それは、エネルギー資源や鉱物資源ばかりではない。水や、水産資源、そしてもちろん、農作物……。

 このまま国際競争力を落とし続けていけば、日本は、近い将来、これらの資源を得難くなるだろう。何らかの対策が必要な事は明らかだ。

 あなたは、資源問題解決の為の手段もネット上に投稿している。太陽光発電などを駆使すれば、日本でもエネルギーを得られる。その為の設備を整えれば、それで経済効果を得られもする。実は資源がないと言われている日本には、資源がある……。廃棄物、都市鉱山と呼ばれる資源が。それを活かせれば、資源問題は緩和するはずだ。そして、その都市鉱山の中には、肥料の三大要素の一つとも言われるリンも含まれてあった。


 杉平康平は、とある地方の農政課に勤める新人の公務員だった。彼はとても気が弱く、だから気性の荒い、彼の上司である坪山を心底恐れていた。しかし、にも拘らず、今彼はその坪山の前にいた。

 杉平は真面目な男だ。本気で日本の農業…… どころか、世界の農業を心配している。そして、彼はインターネットで、その類の記事を読んで、様々な人の主張を受け入れようと努力もしていた。

 そして彼はそれら主張を纏め上げた上で、今、彼の上司の坪山の前に立っているのだった。高い背を震わせながら、怯えた小動物のような姿勢で、両手で自らプリントした資料を持っている。彼が表計算ソフトで自作したものだ。

 「何の用だ?」

 坪山は、無言で自分の前に立つ気弱な部下を睨み付けると、そう投げやりに言い放った。杉平はその言葉に竦む。杉平は自分は、この上司から嫌われていると思っていた。この上司は情けない人間が嫌いなのだ。きっと、自分を叩き直したいと思っているに違いない。怯えた態度は、自分が相手に対して安心をしていないのを示しているようなものだ。それも、嫌われている原因の一つだろう事は分かっていたが、それでも彼は自分でもそれをどうにもできなかった。

 “言わなくては”

 そう決心すると、杉平はやっとの事で声を出した。緩急が妙な感じに響く。

 「の、農政に関する案を、ち、つ、作りました!」

 声には出さなかったが、それを聞いて坪山は不快を露にした。「ああん?」と、そんな声が聞こえてきそうな顔を作る。それから少し面白そうな顔になった。しかし、杉平を認めているような表情ではない。やや馬鹿にした感じで、彼を見ている。

 「はっ 説明してみろよ」

 それから坪山はそう言った。きっと、“お前みたいなヘナチョコに何ができるよ”と、そう思っているに違いない。杉平はそう思うと少しだけプライドが刺激された。が、それが良かったのかもしれない。怒りには恐怖感を麻痺させる効果があるからだ。

 「今、農業では、これは日本の農業に限りませんが、リン資源の不足が問題になっています。日本は中国に、その多くを頼っていますが、中国は輸出を制限し始めています。必須の成分なだけに、事態は深刻です」

 杉平のその声は、多少、震えていたし、上ずってもいたが、それでもそれはちゃんと言葉になっていた。それで、坪山の馬鹿にした顔が少し真面目になる。

 「それは、肥料価格の高騰にも結び付いていて、もちろん、農業経営を圧迫してもいます。日本に本当にリンがないのなら、解決策はない事になりますが、少なくともある程度のリンは、実は存在しています。日本の、下水道に。

 つまり、その下水道のリンを回収し、再利用できれば、このリン資源の不足問題は改善する事になります」

 坪山はそれを聞くと、真面目な顔を難しい顔に変えた。

 「そんな事は、知ってるよ!

 だが、それはそんなに簡単な話じゃねぇ! コスト問題もあるし、今の社会の下水道設備じゃ、存在しているはずの、そのリンの回収だって難しいんだ。存在していても、回収できなけりゃ意味がねぇ!」

 いかにも煩わしそうに坪山はそう言う。すると、杉平はこう返した。彼は坪山の機嫌を損ねたかと思い、怯えていたが、それでも必死に口を開いた。

 「そ、それについて、も、調べました。た、確かに、今の下水道システムでは、資源と、し、しての排泄物の回収は難しいですが、改良す、すれば可能です。また、尿だけを取り出せば、理想的な肥料になると、も」

 「馬鹿か、お前は! そんな費用が、どこにあるんだよ! それに、ただそれだけじゃ、日本の農業は救えねぇだろうが」

 坪山の言う事はもっともだった。確かに近年の肥料価格の高騰は大問題だが、それをクリアしたところで、農業が復興するとは限らない。が、杉平は下がらない。

 「も、もちろん、こ、これだけで、は駄目だと思いま、す。だけど、地産地消の発想、及び、にた、契約型宅配サービスとの連動、それに伴う流通のか、簡略化を実現、すれば、じゅ、充分に策として、ゆ、有効だ、と」

 それを聞いて、坪山は眉を歪める。

 「何言ってるんだ? お前ぇは?」

 それから杉平は非常に下手な説明の仕方で、必死に坪山にその方法を説明していった。農作物は単価が安い。その為に、相対的に輸送コストが大きくなる。地産地消、つまり地域で生産したものを地域で消費する、という事を行えば、その輸送コストを大幅に安く抑えられる。また、近年増えてきた、契約型宅配サービスという形態にすれば、注文があった分だけ輸送する事が可能で、これにより余分な在庫や余分な輸送コストを抑えられるようになる。また、インターネットを中心とする、情報技術を活用すれば、中間流通業者を省く事が可能で、それによるコスト増も防げる。

 一通り説明し終えると、杉平は言った。

 「こ、これだけやれば、か、海外の輸入作物とも充分に張り合える低価格の実現も夢ではありません。き、近年、の、農作物のか、こ、国際価格は高騰していま、す、し」

 坪山はそれを聞いて、少し黙る。一応は、現実的な案に聞こえたのだ。しかし、それでも彼の疑問は残る。

 「話は分かったよ。でもよ、それを実現する為の費用がねぇだろうが、費用が。そのリンの再利用にしろ、流通改革にしろ。費用がなけりゃ、どうにもならねぇよ」

 すると、杉平は妙な表情を浮かべた。何だか勇気を振り絞っているような様子だ。今までのやり取りでも、彼にしては充分に勇気を振り絞っていたのだが、更に緊張をし、更に気合を入れているように思える。坪山はその様子を不思議に感じた。一体、何を言うつもりでいるのだろう?

 杉平は言った。

 「ざ、財源なら、あります」

 坪山はその言葉に意表を突かれた。

 “財源が、あるだぁ?”

 「どこにあるっつぅんだよ?!」

 少し怒り気味の口調で、坪山はそう訊く。すると杉平は、自分の胸に手の平を軽く当てながら、こう答えた。

 「僕たちの、給与です」

 その返答に、坪山は驚きの声を上げる。

 「つまり、てめぇは、おれらの給料を減らして財源を作ろうって言ってるのか?」

 杉平は真っ直ぐに答える。

 「はい」

 坪山は大きな息を、勢いよく「はぁ」と吐き出してから、こう言った。

 「馬鹿馬鹿しい。なんで、おれらがそこまでやらなくちゃならないんだよ?」

 しかし、坪山はそう言ってから、自分自身のその言葉に違和感を感じた。“なんでって、そりゃおれ達が公務員だからに決まってるじゃねぇか”。それから、そう自身の言葉を否定する。公務員は国民の奉仕者。そう憲法に定められている。その職に自ら就いておきながら、国民の為に働くのを嫌がるなどというのは、子供の言い分だ。いつの間にかに、自分も温い人間になっていたのかと思ってしまう。そしてそのタイミングで、杉平は坪山の言葉にこう応えた。

 「問題が大き過ぎるからです」

 「大きいだ?」

 “確かに大きい事は大きいが”

 戸惑いながら、坪山は杉平の次の言葉を待つ。

 「事はこの地区の問題だけに留まりません。これは、日本全体の、いえ、世界全体の問題でもあります」

 が、坪山はその言葉に呆れた。

 「でか過ぎだ、馬鹿」

 そう言う。杉平は怯まない。

 「実行する上で、大きさはあまり問題にはなりません。システムというのは、質的なものであって、量的なものではないからです。もしも、この試みを成功させたなら、日本のモデルになり全国に広げられます。そして、それは世界の農業にも影響を与える。

 僕は、日本だけに限らず、世界各地の農業は滅ぼすべきではないと考えています。これからは、どんな気候変動が世界を襲うのか分からない時代です。もし、農業を一部地域に固めてしまい、そこを自然災害が襲ったなら、世界中が飢える事になる。食料生産の一部集中は、あまりに危険すぎます。だから、各地域の農業は滅ぼすべきではない。できるだけ、分散させる事が好ましいはずです」

 杉平は一気にそれだけを語った。坪山はそれを聞いて、“ちゃんと喋れるじゃねぇか”と、そう思った。実を言うなら、杉平自身もその事には驚いていたのだが。

 しばらくの間の後で、坪山は笑った。

 「なんだか、でっけぇ事を言ったが、おい、へなちょこ、身の程知らずだ。お前なんかにそんな事ができるかよ」

 背を向ける。

 杉平は拳を握り締めながら、その背に向けてこう言った。

 「だから、僕は、あなたに相談しました」

 坪山はその言葉に一瞬止まった。が、振り返りはしない。やはり笑っている。ただし、その笑いは杉平を馬鹿にしようとしているようで、馬鹿にし切れてはいない。杉平も坪山もしばらくそのまま黙っていた。少しの緊張感が漂っている。やがて杉平が「失礼します」と言い、自分の席に向かうと、その緊張感は解けた。坪山はホッと安心した自分に気が付く。だがそれに少しの屈辱を彼は感じた。そして、彼は杉平のその主張を忘れられなかったのだった。


 家に帰ってからも坪山は、杉平の主張した内容を忘れられなかった。馬鹿な事だと思いながらも、気が付けば、杉平が主張した内容を現実化する策を考えている。

 流通改革に関しては、農家と宅配業者を結び付けてやりさえすれば、それで問題は解決するかもしれない。インターネット注文も宅配業者に任せて大丈夫だろう。いや、それどころか既にそんなシステムがあるかもしれない。予算はかからない。むしろ、農協が反発しそうな事の方が問題だ。

 しかし、そんな自分にふと気が付いて我に返る。自分は何を考えているのだ?と。だが、油断するとまた考え始めている。

 下水道の改築は、現実的な案とは思えない。工事費がかかり過ぎる。とてもじゃないが、肥料コストを地元の公務員が負担するだけでは採算性はないだろう。しかし、公共事業を欲しがっている政治家や官僚どもを上手く利用できたなら、工事費を出させる事ができるかもしれない。そうすれば、或いは…

 そこでまた我に返る。“阿呆か”と、自分を抑えようとする。そして、考えては我に返る、という事を何度か繰り返した後で、坪山は自分を笑った。どうやら自分が杉平の案に乗っかりたいと思っているだろう事を察したからだ。もし、自分達の人件費を削るなんて主張をしたら、どれだけ自治体内外の反感を招く事になるか。もしかしたら、他の自治体の公務員からも苦情が来るかもしれない。人件費削減の波紋が自分達にも飛び火するかもしれない、と恐れて。間違いなく損な選択だ。しかも、試みが失敗に終わる可能性も充分にあるはずだ。

 “ま、若い奴ってのは、無茶をやりたがるもんだけどな”

 そう思ってから、今自分が思った言葉を坪山は何処かで聞いた覚えがある事に気が付いた。

 ――無茶ばかりしやがって!

 そして、しばらくして、それが他ならないかつて自分自身が言われていた言葉である事に思い至った。若い頃、その行動力で常に周囲に波紋を撒き散らしていた坪山は、よく年配の人間達からそんな事を言われていたのだ。そして、その時だった。

 ドン

 彼は太鼓の音を聞いたのだ。

 ドン ドン ドン

 ――何?

 それは随分と久しぶりに坪山の中に響いてきた音だった。彼が奮い立つ時に、いつも聞いていた幻聴。しかし、彼はその音を決して忘れてはいなかった。その音は、彼に生きている実感を与えてくれる。

 その途端に、自分の中に力が漲っていくのを坪山は感じた。そして、正体不明の快感が湧き出てくる。

 “音が、聞こえやがった!”

 何よりも、それが自分がへなちょこだと思っていた若者の杉平から出た提案であった事が、嬉しかったのかもしれない。

 “フフフ ハハハハ あいつ、ただのへなちょこ野郎だと思っていたが… 大馬鹿のへなちょこ野郎だったか!”

 ドン ドン ドン

 彼はその晩、興奮して中々眠れなかった。


 次の日、坪山は杉平が出勤するなり彼を呼び出してこう言った。

 「おい、へなちょこ。昨日の話だが、どうして、おれに話した? おれみたいな性格の奴によ」

 杉平は呼び出された瞬間から、怯えた表情を見せていたが、そう坪山に言われると、更に萎縮した顔になった。しかし、それから何かを振り払うように、表情を変えると、

 「あなたが、過去に行なってきた事を知っているからです」

 と言う。

 それは、とても確りとした口調だった。それを聞くなり、坪山は笑う。

 ドン

 そして、

 “太鼓だ。

 さて。祭りが始まるぞ”

 と、坪山はそう思ったのだった。

 「へなちょこ。はっきり言って、お前が言った事を実行に移しても、お前には何も得にならねぇぞ。給料を下げられる上に、さんざん苦労する事になる。恨み言を言う連中だっているだろう。

 それでもお前はやるのか?」

 杉平は即答した。

 「はい」

 坪山はまた笑う。

 「上等だ。

 ――なら、おれもその無茶苦茶に付き合ってやるよ。ちょうど、退屈していたところだ。退職前に、大暴れしてやる」

 それを聞いた時、杉平はしばらくは何も言わなかった。しかし、目には涙を浮かべている。どうやら感動しているようだ。表現が下手だから分かり難かったが。

 「ありがとうございます!」

 遅すぎるタイミングで、杉平はそうお礼を言った。


 杉平の手が空いたのを確認すると、坪山は彼を呼び出し話し合いを始めた。

 「おい、へなちょこ。早速、動き出すぞ。いいか? お前は、まずは農家の連中を説得して、農作物の宅配サービス業者と結び付けろ。これには、ほとんど費用はかからねぇはずだ。民間企業に任せておけばいい。それと、何かしら足らねぇ作業があったら、農協にもかましてやれ。後で抗議されるよりはマシだからな。

 それくらいは、お前自身でやってもらわなくちゃ、話にならねぇ。必要なら、おれの名前を出せ。責任はおれが取る」

 「はい」

 と、杉平は答える。坪山は交渉という能力に関しては、杉平をあまり信用していなかったが、成長してもらう、という意味も込めて彼に任せる事にした。肩書きと、自分の名前があれば何とかなるだろうと思ったのだ。

 「おれはその間で、上の連中に掛け合って、おれらの給与を削減して費用を捻出させる。まぁ、いきなり上手くはいかんだろうが」

 杉平はそれにも「はい」と答えた。声は震えていない。精悍な顔をしている。それを見て、坪山は“いい顔になったじゃねぇか”とそう思った。

 それから杉平は宅配サービス業に連絡を取り、農家と直接契約する気はないか?と話を持ちかけ、資料を揃えた。農家には直接足を運んで、上司が坪山だと伝えた上で、宅配サービスの業者と連携する事のメリットを説明して回った。

 ――坪山がまた何かをやり始めた。

 その杉平の足回りの説得により、そんな噂が徐々に広がり、農家組合の中でも話題に上るようになる。

 しかし、一方で坪山の交渉はあまり上手くいってなかった。

 「坪さん。いくらあんたの頼みでも、そんな事を聞き入れる訳にはいかんよ」

 彼の上の上の上司に掛け合ったのだが、そう突き返されてしまう。ただし、それは予想通りの事でもあった。

 “まずはジャブだ”

 坪山はそう思う。その過去の実績から、少し行動すれば彼は周囲からの注目を集める。彼が上司に何か言いに行ったという噂は、役所の中でも噂になっていた。中には、明らかにそれを面白がっている者もいる。

 「坪さんが、何かやり始めたらしいぞ。久しぶりだな、おい」

 もちろん、まだ詳しい内容までは知らされてはいない。が、その事が却って話題を呼んだ。そして、それこそが彼の作戦でもあった。その後も何度か彼は、上司に交渉しては追い返される、という事を繰り返したのだった。その度に、話題は膨らんでいく。直接、何をやっているんだ?と彼本人が尋ねられるケースもあった。

 そして、ある日だ。役所の人間全員が、集められる機会があったのだが、その場に、坪山は乱入した。

 「ちょっと、困りますよ。坪山さん!」

 そう誰かに止められている声。しかし、それで止まるような坪山ではなかった。彼が何かをやっている事は、皆の間で話題になっていたから、皆の期待の目も注がれる。やがて彼が会場に現れると、もう彼の演説を止められるような雰囲気ではなくなっていた。

 「――皆も知っているとは思うが」

 坪山はまずはそう言った。ほとんどの者は、彼が何かをやろうとしている事だと思っていたが、続く言葉は違った。

 「今の日本の農業は存亡の危機に立たされている。従事者は高齢化し、自由貿易が認められれば、海外からの安い農作物が大量に入ってくるだろう。そうなれば、多くの日本の農家は窮地に立たされる。この地域だって、それは例外じゃない。

 しかし、もちろん、日本の農業は滅ぼす訳にはいかない。食糧の供給という、重要な機能は失ってはいけない貴重なものだ。これから世界の食糧事情がますます危機的なものになっていく状況下で、これは自明だろう。

 だが、それに加えて、もう一つ大きな問題がある。それは資源だ。今の農業は、かつての糞尿のリサイクルによる土壌の肥沃化ではなく、リン鉱石やカリ鉱石といった鉱物資源に頼っている。近年、いずれの国際価格も上昇しているが、その背景には資源不足がある。これは日本独自の問題ではなく、世界全体の問題と認識しなくてはならない。

 そして、実はこの二つ問題を同時に解決する手段が存在する」

 そこまでを坪山が語ると、会場の期待は更に大きくなった。坪山は続ける。

 「知っての通り、日本の下水道には膨大なリン・カリウム・窒素が存在し、活用されないまま廃棄処分されている。これを回収して活用できれば、資源問題は大きく改善する。また、そうして肥料価格が下がれば、日本の農業の競争力も上がる。更に、農作物の流通改革を起こせば安価が実現でき、充分に日本の農業は世界でも戦っていけるレベルに成長する」

 そこで坪山は口を止めた。間を意図的に作ったというよりも、流石の彼でも緊張していたといった方が良い。必ず、反感を買う主張をこれから彼はしようとしているのだ。

 「しかし、その為には資金がねぇ!」

 叫んだ。

 「下水道のリサイクルを効率的に行なうには、今のままじゃ無理だ。初めから、リサイクルに適した形を考え、下水道を造り直す以外に手はない。だが、それでは採算性がない。初期コストがかかり過ぎるからだ。採算性が合うようにするには、肥料価格を上げるしかないが、それでは農家の負担になる。それを回避するには、その負担を農家以外が引き受けてやるしかない。その役割を担うのは、誰がいる?

 申し訳ないが、おれにはおれ達公務員以外に、その役割を担う立場は思い付けない。

 つまり、おれの主張はこうだ。この地域の農業を救う為に、おれ達に支払われる税金をカットしよう! 浮いた分を、その財源に回すんだ!」

 その言葉に会場は騒然となった。中には怒りの声に近いものもあったが、そのタイミングで坪山は叫んだ。

 「もちろん、そう主張するからには、おれも責任は取る! おれの分の退職金は必要ない。全額、その財源に回してくれ!」

 それで会場は静かになった。どれだけ減らされるのかはまだ分からないが、自己犠牲してまで農家を救おうとしている者の目の前で、自らのエゴをさらす訳にはいかない。まだ会場はざわついていたが、怒りの声は聞こえなくなっていた。それから、坪山は「具体的な計算は、後に説明する。すまんが、みんな、協力してくれ!」と深々と頭を下げた。


 その集会が解散した後、役所の中で坪山の演説は大きな話題になっていた。賛否両論うずまいていたが、なかなか統一された見解には至らない。

 “チッ! まぁ、反発が思っていたよりも少なかっただけでもマシだが、これじゃ、給与の削減は実現できねぇな”

 冷静に皆の反応を吟味しながら、坪山はそう思っていた。もっとも、坪山の元に声が届かないだけで、反発は少なからずあった。誰も彼には直接文句を言えないだけだ。給与削減に対する公務員の反応は、ヒステリックとも言えるものが多い。自己犠牲を示すだけでは、完全には回避できない。それは坪山も自覚していたが彼はそんな事を気にする性質ではなかった。しかし、それでも、杉平は必要以上に責任を感じていた。

 「何故、自分の名を出さなかったのですか?」

 杉平は申し訳なさそうな目で坪山に訴えた。もちろん、手柄を横取りされた、などと考えていた訳ではなく、ただ純粋に坪山一人が責められている状況下に罪悪感を刺激されたのだ。

 「はっ へなちょこ。お前が文句を言われたら、耐え切れないだろう? 上司ってのは責任取る為にいるようなもんだ。こういうのはおれに任せて、お前はお前のできる事をやり続けろ」

 坪山はその時、そう言い放ったが、杉平の性格上、それでは治まらなかった。なんとか坪山を救わなければ。そう思う。そして、彼が取った手段は、インターネットへの投稿というものだった。


 “自分達の給与を下げて、農家に貢献しようという流れが、自治体の公務員にあります。まだ一部の動きに過ぎませんが、もしもこれが実現すれば……”


 杉平は、インターネットにそんな記事を投稿した。もちろん、詳しく今回の内容を書いたのだ。ただし、批判が浴びせられている点については、あまり触れなかった。自治体内部の反感を買い、事態をより深刻なものに変えてしまう事を恐れたからだ。しかし、その事が幸いした。この記事はインターネット上で話題になり、美談として世間から注目をされるようになったからだ。そして、坪山はもちろん、杉平すらも知らない所で、状況は一気に好転していったのだった。


 ――さて。

 この世界に再びあなたに登場してもらうとしよう。あなたは、いつものようにインターネットをしている。そして、少し気にかかる話題を拾った。

 自治体の公務員が、自ら給与カットを提案。

 “提案”。

 あなたはそれを見つけると、“提案”であって決定ではない、と思いながらもクリックし、リンク先に飛んでみた。

 見ると、地域の農業を救う為に公務員が給与を減らして、屎尿リサイクルによる肥料生産を手助けしようとしている、とそこには書かれてあった。肥料代のほとんどを公務員が負担する計画でいる、と。

 あなたは自らのブログにその記事のリンクを貼り付けると、感想を書き込む。

 あなたはその試みに一定の評価をしつつも、まだ提案段階である点を指摘した上で、公務員の本来の役割を考えるのなら当然、とそうコメントを書いた。

 その記事を読んだ何割かはそれに同意し、何割かは多少の反感を抱き、何割かは何も思わなかった。しかし、いずれにしろ、それはその話題を世間に拡げるのに貢献した。


 ある日、出勤して坪山は驚いた。突然、上司に呼び出されて、自治体職員の給与カットの話を進める、と言われたからだ。坪山は次の策を練っている最中で、その事実に喜ぶというよりも、むしろ拍子抜けしてしまった。

 “なんだって言うんだ?”

 何が起こったのか彼には分からない。しかし、続いて雑誌記者の取材があると告げられ、インターネット上で話題になっていると知るとピンと来た。

 「――おい、へなちょこ!」

 そう言われて杉平は驚く。まだ杉平は、事態が好転している事を知らない。坪山の言葉は乱暴だったが、それに反して表情はにこやかだった。

 「お前、インターネットで何かやりやがったな?」

 そう言われて、杉平はようやく何が起こったのかを予想できた。彼も自分の記事が、ネット上で話題になっている事は知っている。無言で頷くと、次に彼は不安を感じた。悪い方向へ悪い方向へと考えてしまうのが彼の癖なのだ。

 杉平の表情から、自分の予想が当たった事を確信すると坪山は言った。

 「おれに黙ってやったのは怒りたいところだが、上出来だ!

 お前の計画が認められたぞ。公共事業の利権絡みだが、駅の公衆便所で屎尿リサイクル型の下水施設を整えてみる案が通った! 実験的な試みだがな」

 もちろん、杉平はそれを聞いて、大喜びをした。だが一方で、問題がそんなに簡単に解決するのだろうか、と不安にもなっていた。そして、その不安は的中をしてしまったのだった。

 しばらくが過ぎ、予算の計画が提出されると、難しい顔をして坪山が杉平にこう言った。

 「予算が足らねぇ」

 自治体の公務員が許容できる範囲での、給与削減。それに、肥料価格の設定が届かなかったらしいのだ。

 「駅の便所を改築して、リサイクルに適した下水道にしても、今のままじゃ作れる肥料が足らないと分かったんだよ。更に他の場所でも工事をしなくちゃならないが、すると、採算性が合わなくなっちまう。

 飽くまで、実験。と割り切って、決行すりゃなんとかなるが、農家を助けるってな当初の本当の目的は達成できないな」

 場所を駅の公衆トイレにしたのは、その方が利用者が多く、スケールメリットを活かす点からも有利になるからだった。そこでの実施が成功すれば、後はそのノウハウを活かして、利用を拡大していけばいい。最終的には一般住宅にまで設備を整えるのが理想だ。

 実験という意味だけでも充分に価値がある。杉平はそう思っていた。しかし、彼はそれだけでは納得ができなかった。そして、インターネットに記事を投稿して、彼は再び世間を頼ってみようと思ったのだ。

 「また、インターネットで何かやるのか? 前回はたまたま上手くいったが、毎回、上手くいくとは限らないのじゃないか?」

 様子の変化を見抜かれた坪山からはそう言われたが、杉平はそれでも実行した。


 ――あなたは、例の自治体公務員の給与カットによるリサイクル型肥料生産計画の情報が、更新されているのを見つけた。詳しく読んでみると、予算が足らず、充分な肥料を作れない問題を抱えていると書かれてあった。

 やはり、そんなに上手くいくはずはないか、と思いながらもあなたはふと思いつく。

 ……メタンの利用と合わせれば、屎尿の肥料化の採算性の向上に役に立つのではないか?

 それで、そんな提案をしてみた。既にある程度は、バイオマスのエネルギー利用は行なわれている。有機物を分解すると、そこからメタンガスが発生するのだが、それにより電気を作り出す試みが実施されているのだ。肥料を作り出す過程にも、当然メタンは発生する。

 下水処理において、既に実施されているが、改築により肥料を生産し易くした施設なら、より効率良くメタンを得られるのではないかと思ったのだ。

 生ゴミ処理でも、メタンを得る目的で造られた施設で同時に肥料も作られている。あなたはそれを知っていた。だから、こういった施設に、相談をしてみてはどうかとあなたは書いたのだった。


 杉平は緊張した顔で坪山の前に立っていた。と言っても、彼はいつも坪山の前に立つ時は緊張した顔になるのだが。

 「例の肥料計画ですが、方向の一部転換を主張したいと思います」

 坪山はそれを聞いて面白そうな顔をする。

 「ほぅ なんだよ?」

 もう坪山は、彼を馬鹿にようとは思わなくなっていた。この男は間違いなくへなちょこだが、それを補う為にインターネットを使っている。そう、彼を認めるようになっていたからだ。

 もっとも、坪山はまだインターネットを嫌っていたのだが。やはり、自分勝手な連中が無責任に発言する場であるという認識は変わらない。ただ、使い方によっては使えると思い直しただけだ。

 「肥料の生産ですが、下水道からだけではなく、生ゴミ処理からも生産する、という計画に変更しようと思うのです」

 「生ゴミ処理だ?」

 「はい」

 坪山は少し考えると、こう答える。

 「なるほど。ま、一応は、その話は知っているよ。生ゴミから肥料を作る。そういう案があるってのはな。確か、実験も行なわれていて、成分も問題ないと出ていたか。

 しかし、予算の都合は付くのか? 断っておくが、そんなに余裕はないぞ?」

 杉平はそれを聞くと、こう言った。

 「既に業者に問い合わせてあります。初めは、肥料生産時に発生するメタンのエネルギー利用の協力を頼めませんか、と連絡を入れたのですが、それだけでなく、既にある生ゴミ処理施設を拡張しないかと逆に提案をもらいました。こちらの、肥料買取の予算があれば、それが可能だというのです。

 生ゴミ処理業者にとっては、僕らが肥料を買い取ってくれれば採算性が合い、メタン利用を拡大できるらしいです。もちろん、僕らは予算の範囲内で肥料を得られるようになります」

 杉平が今直面している問題をインターネットに書き込むと、何名かから助言があった。その内の一つに、肥料生産だけでなく、メタンガス利用も併用しては、という案があり、彼はそれに従い生ゴミからメタンを得ている業者に連絡を入れてみたのだ。それにより、進展した話である。坪山はそれを聞き終えると、笑った。

 「はっ また、インターネットか?」

 杉平は無表情で答える。

 「はい」

 少しの間の後で、坪山はこう言った。

 「まぁ、いい。やってみろ。これからは、お前ら若い連中の時代だ。おれらはお前らのサポートに回るよ。できる限りな。その話は上に通しておく。お前から説明があると言っておくから、上手くプレゼンしてみろ」

 それからしばらくが過ぎて、その話通りに杉平は上司にプレゼンする機会を持った。彼の苦手分野で、上手くできたとはとても思えなかったが、それでも話は進んだ。その影には坪山の影響力があったのだが。


 それから、このリサイクル型の肥料生産計画は順調に進んでいった。これで地域農業が息を吹き返せば、画期的な試みとなる。もっとも、その間で幾つかの問題は発生してしまったのだが。

 まずは、既存の肥料会社からのクレームが、農協を通して来た事。このまま計画が進めば、肥料会社の肥料が農家に売れなくなってしまう、という懸念の声が上がったらしい。これには、坪山が間に入って解決した。本格的に肥料を作り出せば、肥料作りのノウハウが必要になる。そこで、肥料会社にも肥料作りに参加してもらい、ある程度の利益を確保させる事で納得をしてもらったのだ。

 次には悪臭問題。肥料にする過程で発生する悪臭に対する苦情が、近隣の住民から入るようになってしまったのだ。これはしばらくは説得するしかなかったが、工事が進んでメタンの回収率が良くなると、自然、悪臭も少なくなり、それほどの苦情は出なくなった。

 実施段階に入ると、目立った問題は見られなくなったが、その反対に顕著な効果も現れなかった。確かに農家の経営は楽になったが、だからと言って復興とまではいかない。そもそも意欲を持って農業に取り組む若手の従事者が少ないのだから、それも当然だったのかもしれない。この地で農業がやり易くなったのは事実だったが、それだけでは若手の農業従事者は呼び込めなかったのだ。土地には既に人がいる、という点も見逃せない。つまりリサイクル型肥料生産計画は失敗ではないが、完全な成功とも呼べなかったのだ。

 だが、嬉しい誤算もあるにはあった。

 肥料を生産する施設が出来た事で、この地域に作業員として人が移り住んできたのだ。人口が増えれば、当然、消費者が増え、生産活動も活発になる。ほんの微増ではあったが、それでもそれは、年々人口が減り続けるこの地域にとってはありがたい話だった。

 だが、しばらくが過ぎると、また状況に変化があった。


 「――農家を紹介して欲しいのです」

 そう言って、ある若い男が坪山の許を訪ねてきた。詳しく話を聞いてみると、男は農業法人を興すつもりでいるらしい。それで、高齢になりもう農業経営が厳しくなってきた農業従事者に協力を要請したいのだと言う。

 多少、規制が緩和されたとはいえ、農業法人を興すのは並大抵の苦労ではない。まだまだ規制は厳しい。実は農業をやりたがっている法人は多いが、それほど参入が増えないのは、その原因が大きい。その苦労を乗り越えて、農業法人を起こし、彼らがこの土地にやって来たのはもちろん、リサイクル型肥料生産における自治体公務員の奮闘や、農作物の流通改革の噂を聞いたからだった。

 もちろん、坪山はその話に喜んだ。自分達の苦労が報われた気がしたのだ。若い農業の担い手。しかも意欲もある。彼らを受け入れる事ができたなら、本当の農業復興も視野に入ってくる。だがしかし、同時に彼は苦悩も感じていた。

 この地域にもかなりの耕作放棄地がある。だから、地主を紹介して話し合わせ土地を借りられれば、農業法人も興せるだろう。しかし、そうなると更に肥料生産の費用が高くなってしまう。これ以上の負担を、公務員達に求める事は流石にできそうにない。

 しかも、短期間ではない。長期間に渡り公務員の収入は削られてしまう。

 結局、坪山は苦悩しながら、なんとかこれだけの事を相手に伝えた。

 「農家に紹介する役割は引き受けよう。だが、しかし、肥料支援はそれほど期待しないでくれ。こちらも、できる限りの努力をするが、予算が確保できる可能性は少ない」

 相手はそれでも坪山に礼を言ったが、多少、気落ちしている点は見て取れた。坪山は悔しさを感じる。

 「これ以上は、無理だよ、坪さん! あんただって、それくらい分かっているのだろう?」

 それから坪山は上司に掛け合いにいった。彼にしては珍しく頭を深々と下げ、真摯な態度で臨んだが、彼も予想していた通り、やはり断られてしまった。

 “くそう……”

 それから、坪山は泥臭い手段に出た。自治体公務員達の部屋を一つずつ回り、頭を下げて協力してくれ、とお願いしていったのだ。もちろん、それには杉平も加わった。だが、それでも効果は上がらなかった。

 「坪さん。気持ちは分かるが、公務員にだって生活はあるんだよ。いくら、公務員の役割が国民の奉仕者だからって、限界ってもんがあるよ」

 親しい一人から、坪山は諦めるように説得をされた。それに坪山はこう返す。

 「まだ、もう少しはいけるはずだ。それに、足りない分は他の自治体の公務員に頼ればいい。

 まだ、道はあるはずだ!」

 しかし、案の定、その提案は酷い反発を招いてしまった。苦情の電話が坪山にかかって来る事もあったし、それで迷惑を被る農政課全体も坪山と杉平に冷たい視線を向けた。

 今度という今度は流石に無駄だろうと判断した杉平は、インターネットへの投稿をそれまでは躊躇っていた。もしも、ここでこんな内容を投稿すれば、美談として広まったこの計画が、醜聞にまみれる事態にもなりかねない。

 インターネットは確かにツボに嵌れば強力だが、その反面、危険もある。それも、杉平はよく分かっていたのだ。坪山にも実は釘を刺されていた。

 「道具には使い方ってもんがある。お前も分かっているのだろう?」

 インターネットには、情報が乱反射する。それが良く働く場合もあるが、常にそうなるとは限らない。もしも、今回の話を伝えて悪く作用してしまったなら、今上手くいっているリサイクル型肥料すら頓挫する可能性がある。そんな危険は冒せない。しかし、世の中はそんなに甘くはなかった。情報はいとも簡単に漏れる。それも、インターネット社会に存在する問題点の一つだ。自治体内でのこの騒動は、杉平が投稿しなくても、いつの間にかネット上で話題になっていたのだった。

 そして、

 自治体公務員に対する批判が続々とネット上に書き込まれ始める。現場の事情もよく確かめないままになされる、身勝手で無責任な批判内容。当然、それに対して自治体内に反発が生まれる。その所為で、坪山と杉平は、更に自治体内で追い込まれていった。杉平はそれを訂正する内容をネットに投稿したが、効果は薄かった。

 情報の乱反射という名の暴力。その凄まじさを彼は今、体験していた。


 ――気に食わない。

 あなたはネット上に書き込まれる批判内容を読みながらそう思っていた。公務員が負担を受け入れない所為で、農業復興が軌道に乗らない。あなたは目にしていたのは、そんな内容の記事だ。が、元の発案者である自治体職員の記事では、それを訂正している。既に充分に自治体公務員は負担を引き受けている。これ以上は流石に酷なのだ、と。

 あなたは常日頃から、公務員の人件費削減を訴えていた。しかし、それでも、その批判は気に入らなかった。多くは匿名で為されている。もし、自分達が正しい行いをしているのだと思っているのなら、何故匿名にする必要があるのだろう?

 更にあなたは知っていた。この自治体公務員達の活動のお陰で、地域経済が多少なりとも活性化している事を。一部には、その恩恵に与っている人間もいるはずだ。なのに、何故感謝もせず、一方的に批判するのか。

 あなたは歯軋りをした。そして、あなたはこう書き込む。


 “公務員ばかりに負担を押し付けていいのか?”


 反感を与えるような批判は、擁護論を刺激する。そのあなたの主張は、ネット上で反響を起こす要因になった。

 そして、話はこんな方向に広がっていったのだった。

 一般市民も、少しならその肥料代を負担するべきじゃないのか?

 農業が復興すれば、それにより地元経済も恩恵を受ける事は、既に分かっている。ならば地元の一般市民も、それに協力するのが筋ではないか、という主張がされるようになったのだ。


 ある日、坪山は目を丸くした。有志の一般市民により、肥料代が集められ、役所に届けられていたからだ。坪山は杉平がまた何かやったのかと思い尋ねたが、彼は自分は何もやっていないとそう答える。そして、一般市民が、自らの意志で協力して来たのだと、それからそう言った。彼はネットを通して、何が起こっているのかを既に知っていたのだ。

 坪山はその話を聞くなり、泣いた。

 それでも彼のインターネットへの評価は変わらない。変わらないが、しかし、インターネットではなく、人間は、少しだけ信じてみても良い気になった。……大衆は、愚かなばかりでもないのかもしれない。

 この流れを受けて、議会ではこのリサイクル型肥料生産計画へ、一般市民から料金を徴収する案を可決させた。そのお陰で、更にこの地に農業法人がやって来る事になり、農業の本格的な復興が始まったのだった。もちろん、それにより地元経済は活性化していった。

 そして、その成果を受けて、中央でも動きがあった。坪山の許に中央から人が派遣されてくる。坪山は中央が嫌いだった。プライドだけが高くて、労働成果は出さない癖に収入だけは求めてくる。だが、中には真面目に日本を本気で考えている人間がいる事までは否定していなかった。そして、今回の動きが、そういったものである可能性は高い、と少なくとも坪山はそう判断した。だから、坪山は、積極的に、杉平にも手伝わせた上で、何をやったのかを事細かに包み隠さず説明していったのだ。

 どんな要因で、この計画が成功したのか、それを中央は知ることになる。

 そして、このリサイクル型肥料生産の成功を軸にした農業復興運動は、中央と地方の連携という形で日本全体に拡がっていったのだった。この計画が上手くいったのは、リサイクル肥料に関する事業に、健全な通貨の循環が生まれたからだ。そう判断した中央の人間は、その応用として、太陽電池で動くトラクターや温室の支援なども行っていく。そして、そのような経緯で日本全体の農業に関わるコストは低減していき、充分に国際社会で戦っていけるレベルに成長していったのだった。


 ――あなたは相変わらずに、インターネットに記事を投稿している。ネットにより、個人の力が強くなった現実。それが何を意味するのか、そして、繋がる事の重要性。もしも何かしら社会が間違った方向に進もうとしていたなら、あなたはそれを適切に判断し、訴えていかなくてはならない。そう思っている。もちろん、その為には正しい知識と判断力が必要になるのだが。

 諸刃の剣であるこの力を上手く使う為にには。


 ※ この話の中で登場した案の中には、やや荒唐無稽なものも含まれています。特に細かい計算などは省きましたから、自治体の公務員の給与削減くらいで、本当に採算性が合うものになるのか、といった点は全く不明です。

 しかし、それでも全く現実性がない訳ではありません。

 国民から料金を徴収して、リサイクル肥料事業に通貨の循環を発生させたなら、今のリンやカリウムといった資源不足を賄えるようになるだろう点は本当です。因みに、それが成功すれば、それでGDPは上がって物語の中の通りに経済は活性化します。

 労働力が余っていなければ、執れない手段ですが、今(2011年4月現在)は労働力が余っているので問題はありません。

 (因みに、ほんの少しだけ触れた、尿だけを回収すると、理想的な肥料が作れるって話も本当です)

 地方から日本を変える、なんてのもテーマの一つにしたかったので、自治体公務員の給与削減って事にしたのですがね。


 今の下水処理では、肥料を効率良く作り出すのは不可能です(補助程度が現実的)が、話に出てきた通りに、下水の仕組みを根本から変えれば可能だと考えられます。

 もちろん、それには膨大な予算がかかります。既に莫大な財政赤字を抱えている状態の国には、借金による実施は無理があるでしょう。国が無駄な公共事業をやらず、こういった事に投資してくれていれば、と悔しくてなりませんが、まだ時が遅すぎると決まった訳ではありません。

 リン不足の深刻さは、作中で書いた通りです。更に、バイオマスのエネルギー利用も叫ばれています(全体の割合は、多くはありませんが、バイオマスは自然エネルギーの中では発電コントロールができる数少ないエネルギーの一つです)。これ以上、借金に頼る事ができないのであれば、直接国民が料金を支払う(税って形でも良いのですが)方法しかありません。この点さえ国民が許容してくれるのならば、この試みは成功する可能性が充分にあります。

 他で何度も書いていますが、それで通貨の循環が生まれたなら、その支払った料金は、国民に収入として返ってきます。

 また、それで経済が活性化すれば、税収も増え、財政問題も緩和します。

 もちろん、今までに世の中で実施されていない試みですから、勇気はいるでしょうが、実験してみる価値はあると、少なくとも僕は考えます(原理的には、税を徴収して警察や消防や福祉といった機能を実現しているのとほぼ同じなので、実は実績もあるのですが)。


 どうか、この暗く沈んでいく世の中の現状を変える為に、大胆な方策を執る勇気を。

もしも、こんな事が起こったら良いのにな♪

と、思いながら書きました。ご都合主義な展開は、だからです。

明るいニュースが聞きてぇよ。


二人称、こんな風に使ってみました。

因みに、もうちょっとエンタな方向での利用方法もないかな?と考えいたりもします。

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