天使セラ
夜明け前。
草原は薄い霧に包まれていた。
葵は浅い眠りから目を覚ます。
身体が重い。
筋肉痛というほどじゃない。
でも、芯に疲れが残っている。
起き上がろうとして、少しだけためらう。
「……ジーナ」
小さな光が揺れる。
「はい」
「今日、動けそう?」
ジーナは即座に診断を返す。
「現在の局所干渉強度は2.3付近で安定しています。
ただし、精神摩耗が進行しています」
葵は地面に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
「摩耗って、減るの?」
「自然回復はします。
ただし、完全には戻りません」
葵は苦笑する。
「セーブデータ上書き型か」
「近いです」
冗談のつもりだったが、笑えなかった。
⸻
同じ頃。
王都近郊の平原。
アルテリオは魔族幹部と対峙していた。
背丈三メートルを超える異形。
四本の腕。
黒い結晶で覆われた装甲。
普通なら軍隊案件。
アルテリオは一人で前に出る。
仲間は後方。
「行くよ」
それだけ。
魔族幹部が咆哮する。
黒炎が地面を焼く。
アルテリオは正面から踏み込む。
避けない。
受ける。
致死回避補正が発動。
皮膚が裂けても、内臓には届かない。
彼は距離を詰め、剣を振る。
一閃。
装甲が砕ける。
二閃。
関節が落ちる。
三閃。
核が露出する。
最後は、静かな突き。
巨体が崩れ落ちる。
戦闘時間、四十七秒。
アルテリオは息を整え、剣の血を払う。
ミアが駆け寄る。
「アル!怪我は――」
「大丈夫」
彼はいつも通り微笑んだ。
心拍も安定。
精神波形も乱れなし。
世界補正は完璧に働いている。
彼には“重さ”が残らない。
⸻
その報告は、すぐに各国へ共有された。
境界都市の記録板に、新しい行が刻まれる。
“魔族幹部級:撃破”
“勇者戦闘出力:前回比1.2倍”
天使は観測精度を上げ、
エルフは次の補給計画を再計算し、
オーガは勝利の酒宴を準備する。
世界は勇者中心に回り始めていた。
⸻
その頃、葵は森の縁を歩いていた。
猫人の村を出てから、半日。
人影はない。
代わりに、空気が少し張りつめている。
ジーナが警告する。
「周囲に観測異常。
高位演算波を検出」
葵は足を止める。
「……誰かいる?」
「はい」
次の瞬間。
空気が折れるような感覚。
白い粒子が集まり、形を作る。
翼。
淡い光。
天使族。
一体。
葵は思わず身構える。
「……また勇者?」
天使は首を横に振る。
「違います」
声は静か。
温度がない。
「私はセラ。
あなたの観測担当です」
葵は眉をひそめた。
「観測?」
セラは淡々と続ける。
「あなたは現在、複数国家の確率層に影響を与えています」
ジーナが横から補足する。
「葵。
この個体は、以前から遠隔観測していた天使です」
葵は息を吐く。
「つまり……見張り?」
「近いです」
セラは否定しない。
「あなたは勇者ではありません。
しかし、あなたはノイズです」
葵は苦笑する。
「今日も言われた、それ」
セラは葵をまっすぐ見る。
「あなたの現在推定出力は2.5前後」
ジーナが同意する。
「誤差±0.4です」
葵は目を丸くした。
「上がってる?」
「はい。経験が蓄積されています」
葵は肩を落とす。
「嬉しいような、怖いような」
セラは首を傾げる。
「なぜ怖い?」
葵は少し考える。
「責任が増える感じがする」
セラは一瞬、処理遅延を起こした。
「その感覚は、天使には存在しません」
葵は小さく笑った。
「だろうね」
セラは続ける。
「私はあなたを排除しません。
ただし、同行します」
葵は空を見上げる。
「拒否権は?」
「ありません」
葵は乾いた笑いを漏らした。
「勇者は自由で、俺は監視付きか」
セラは否定も肯定もしない。
事実だから。
葵は歩き出す。
ジーナとセラが、左右に浮かぶ。
三人で、次の国境へ向かう。
葵の歩幅は少しずつ重くなっている。
でも、止まらない。
遠くでは、また勇者の光。
近くでは、静かな風。
この世界は、二つの速度で進んでいた。




