判断力
境界都市に戻った翌日、ブリッジの部屋の扉が叩かれた。
まだ朝。
猫族は丸くなって寝ている。
リオが起き上がり、扉を開ける。
立っていたのは行政区の職員ではない。
昨日の使者より、装いが軽い。
でも目が疲れている。
「……ブリッジさん。少しだけ時間をください」
葵は寝癖のまま椅子に座り、頷いた。
「どうぞ」
男は部屋に入らず、廊下で話した。
「混成対応第一部隊の副官からです」
リオが視線を上げる。
「何かあった?」
男は短く言う。
「部隊内の意思疎通が、遅れてます」
葵は瞬きをする。
「強いんじゃないの」
「強いです。成果も出ています」
男は言い淀む。
「でも……現場で“迷わない”人が多すぎる」
葵は言葉を返せない。
男は続ける。
「誰も間違えない。誰も譲らない。だから止まるんです」
リオは廊下の壁にもたれ、腕を組んだ。
「相談内容は?」
男は少し息を吐く。
「“混成の組み方”ではなく、“混成の過ごし方”を教えてほしい、と」
葵はリオを見る。
リオは一拍おいて言った。
「行こう」
⸻
行政区の小部屋。
地図と報告書。
混成対応第一部隊の副官が待っていた。
エルフの女性。
髪はきっちりまとめられている。
机の上に薄い木板が置かれていた。
図。
街道沿いの崩落地点。
副官は開口一番、頭を下げた。
「助けてほしい」
葵は椅子に座る。
「具体的には」
副官は板図を指でなぞる。
「ここで、住民の移動が止まりました。敵はもういない。崩落も止まっている」
「じゃあ直せば」
「直す前に、“どこを直すか”で揉める」
葵は黙る。
副官は言う。
「オーガは『通れるだけの道を押し通す』と言う。猫族は『危険を全部潰してから』と言う。天使は『後方の避難を先に』と言う。私は『資材が足りない』と言う」
葵はゆっくり頷く。
リオが静かに聞く。
「決裁は?」
「上に投げると半日遅れる。半日遅れると、村が一つ干上がる」
副官は目を伏せた。
「正しい人たちが、正しいことを主張して止まる」
葵は口を開いた。
「……じゃあ、どうしたいんですか」
副官は少し困った顔で言った。
「あなたたちは、止まらない。止まらないのに崩れない。どうやってるのか分からない」
葵は言葉を探して、見つからない。
代わりにジーナが小さく言う。
「質問の形式を変えてください」
葵は瞬きをする。
「え?」
「『何が正しいか』ではなく、『何を捨てるか』を先に共有してください」
副官が眉をひそめる。
「捨てる?」
ジーナは淡々と続ける。
「全条件を満たす行動は、資材不足下では存在しません。ならば、最初に“捨てないもの”を一つだけ決め、それ以外は一時的に捨てる必要があります」
葵はゆっくり言葉を足す。
「……例えば、死者を出さない、とか」
副官の目が少しだけ動く。
葵は続ける。
「死者を出さないを最優先にして、あとは順番を決める。誰かの正しさを否定しないで、順番の話にする」
副官は黙って板図を見た。
リオが短く言う。
「優先度を固定する。現場裁量の範囲も決める」
副官は小さく息を吐いた。
「……それなら、動ける」
葵は頷いた。
「たぶん」
⸻
同じ頃。
前線指令所。
通信水晶が二つ同時に光っていた。
一つは北東戦線。
もう一つは南の港湾。
どちらも魔族の動き。
どちらも“今”が勝負。
指令官がアルテリオを見る。
「勇者。どちらへ向かう?」
アルテリオは地図を見る。
北東は補給線。
南は避難船。
どちらも落とせない。
カイルが言う。
「分散は危険だ」
グロウが言う。
「南が落ちると、逃げ道が消える」
ミアが言う。
「北東が落ちたら、前線が餓える」
沈黙。
アルテリオは一度だけ目を閉じた。
そして言った。
「南へ行く」
指令官が息を呑む。
「北東は?」
アルテリオは即答した。
「遅らせる」
それだけ。
⸻
南の港湾。
海風が強い。
船が並ぶ。
避難民が押し合っている。
子どもが泣いている。
荷物の山。
そこに魔族の斥候が混ざっていた。
騒乱を起こし、乗船を崩すための小細工。
アルテリオは剣を抜かない。
剣で解決すると、群衆が割れる。
割れた群衆は、倒れる。
倒れた群衆は、踏まれる。
アルテリオは歩く。
人の流れの“逆”に入っていく。
カイルが囁く。
「二時方向、荷車の陰」
アルテリオは視線だけ動かし、荷車の横を通る。
次の瞬間、腕を掴む。
魔族の斥候。
抵抗する間もない。
しかしアルテリオは斬らない。
そのまま地面に押さえ、動けない形にする。
ミアが小さく息を飲む。
「……殺さないの?」
アルテリオは目を離さないまま答える。
「ここで血が出ると、崩れる」
斥候は歯を剥く。
呪符を噛もうとする。
アルテリオは指で顎を固定する。
動きが止まる。
グロウが周囲を遮る。
カイルが次の斥候を指差す。
同じ。
繰り返しじゃない。
剣じゃない。
“勝つ”じゃない。
“崩さない”が目的。
群衆は、何も知らないまま船に乗る。
波が揺れる。
船が離れる。
そのときようやく、アルテリオは剣を納めた。
⸻
夜。
港湾の裏手。
捕えた斥候が縛られている。
指令所から通信。
「北東、補給線が一部切れた。前線が飢える」
ミアの顔色が変わる。
「アル……」
アルテリオは頷く。
「想定内だ」
ミアは言葉を失う。
想定内。
その言葉の重さは、救いにも、刃にもなる。
⸻
境界都市。
副官が立ち上がり、深く頭を下げた。
「……ありがとう。今夜の会議で、試します」
葵は小さく頷いた。
「うまくいくといいですね」
副官は少し笑った。
「うまくいかなくても、動けるだけでいい」
⸻
帰り道。
リオが葵に言う。
「今のは、正解じゃない」
葵は歩きながら答える。
「うん」
リオは続ける。
「でも、止まらなくなる」
葵は頷いた。
「それでいい」




