北浅間村日記 人物掌編 2 牧野巌
牧野兄弟(弟は次の投稿でご紹介予定)は肥後丈一郎の友人で、北浅間村の彼らの周りで起こる様々なトラブルや事件を解決していく中で中心となって活躍する兄弟である。スーパーマンのような能力は持っていない普通の人たちであるが、幼少期や青年時代からの人生の積み重ねで、普通の人より優れた対処能力が育成された。本編の中ではストーリー展開上、彼らの詳細な紹介を十分に出来ないので、この人物掌編にてご紹介します。
牧野巌は前期高齢者になったが、結婚したことがない。男として欠陥があるわけではない。生活力や収入面では何の欠点もない。むしろ、立派な経済力と能力を持った男だ。見た目は今時の肌の綺麗なハンサムでは無いが、優しげな目つきと男らしい眉と鼻筋が通った顔は、時代劇に出しても一門の武将が似合うような風貌である。人相同様に気骨はあるが、性格は温和で涙もろく、理想的な夫であり、良い父親になれたと思う。そんな彼には若い頃に付き合った女性が一人いた。艶やかな黒髪の日本的な美人で、涼しげな一重の目が特徴的な人だった。生まれは群馬の山間の静かな農村で、三人姉弟の長女だった。名前は星野祐子。兼業農家の両親にとっては自慢の娘で、暮らしは裕福では無かったが、何とか高校を卒業させることが出来て良かったと思っていた。彼女は高校を卒業後、群馬でも大きな都市である高崎市で中心地区にあるレストランの接客と給仕の仕事に就いた。勤勉で愛想の良い彼女は常連客にとってマドンナ的な存在となった。そのレストランにはその地域の有名公立高校に通う学生達も毎日多く訪れていた。その中に牧野巌もいた。
最初に存在を意識したのは祐子の方だった。他の学生には無い古風な風貌と所作に祐子は惹かれた。祐子の方が四歳年上で、彼女は意識はしていないつもりだったが、牧野が来店するとつい嬉しくなり、声に張りと艶が出たようだった。牧野自身は気づいていなかったが、同級生の太子が感づいていた。
「牧野、お前何か気づかないか?あの綺麗なお姉さんが、お前が来ると元気になるのを」
「ええ、気のせいだろう。俺みたいな不細工で愛想のない男にあんな綺麗な人が?」
「いや、多分間違いないよ。俺の感は当たるんだ」
「ふーん、そうなんだ」と牧野は関心なさそうな振りをしていたが、彼にも関心があったのだ。ただ、仕送りをもらう高校生の分際で恋愛などはあり得ないことだと思っていた。
お互いに関心があったにもかかわらず奥手な二人は何の行動も出来ずにいた。二年半の時が過ぎ、牧野は東京の有名私立大学に合格し、下宿生活を送り高校のあった高崎を離れることになった。牧野は初めて本心を友人の太子に打ち明けた。太子は二つ返事でキューピット役を引き受けた。太子もこの二人の恋の行方にヤキモキしていたのだった。太子は牧野が東京に引っ越す前日に祐子に牧野の気持ちを伝えた。祐子の反応は少し意外だった。
「自分の気持ちを友達に託すなんて、だらしない人ね。そんな人は私は嫌いです」と痛烈なものだった。太子は悩んだが正直に祐子の言葉を牧野に伝えた。すると牧野はいつも以上に濃い眉毛をしかめ、
「分かった。自分で伝えに行く」と言って、彼女の勤めるレストランに向かったのだった。入り口のドアを外側に引くと、そこに祐子がいた。いつもとは違う悲愴な感じのする瞳で彼女は牧野を凝視した。店の奥で店長の『いらっしゃい。』という店長の元気な声も二人には聞こえないようだった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」との静かなやり取りの後、一、二分ほどの沈黙があった。
「今日はあなたに言いたいことがあってきました」と牧野は振り絞るように話を始めた。
「前から、あの、前からあなたのことが好きでした」と話すと、祐子の全ての反応を見逃すまいとする牧野の真剣な表情に祐子は、思わず笑顔になって、
「私もですよ」と応えるので、牧野は信じられないと言う表情をしながらも、泣き声に近いような裏返ったような声で、
「本当ですか?嬉しいな!ほんと嬉しいな!」と叫び、泣き顔のような笑顔を爆発させた。高校のクラスメートも親友の太子でさえも見たことの無い、心からの笑顔だった。そして、数分間お互いに見つめ合いながら、少しずつ近づき合い、ぎこちなく抱き合うのだった。牧野は心の中で、
「俺は、最愛の人を見つけた!」と叫んでいた。祐子の方も、
「ああ、こんな素敵な人に出会えるなんて!」
その後、牧野は東京に引っ越し、大学生活を始めた。二人は東京と高崎という距離を越えるように、毎日のように電話で連絡し合い、祐子が休みの時は二ヶ月に一度は東京で会い、二ヶ月に一度は牧野は高崎の祐子に会いに行った。つまり、一ヶ月に一度は会える計算になる。デートの場所はありきたりの場所だったが、二人はお互いの事を聞き合い、話し合い、しばし離れる事を本気で寂しがった。その関係は三年間続いた。お互いに会う度に相手を好きになり、将来を約束するまでになっていた。丈一郎達友人達もその関係を知っており、本気で羨ましく思っていた。牧野は友人達と過ごす時間以外は、三年間寝る間も惜しんで司法試験に向けた勉強を続けていた。アルバイトはせず父からの仕送りだけで、服装などには全く気を使わず質素に生活したのだ。正に愛する祐子がいるからこそ続けられたのだった。牧野は就職活動をする年になったが、企業への就職はするつもりはなく、祐子の居る高崎の弁護士事務所に勤めるつもりだった。その後は自ら事務所を立ち上げるのが夢だった。そんな時、二人に不幸が突然訪れた。
ある春のうららかな日の朝に祐子に父から電話があり、母親が昨日、突然心臓病で入院したことを聞かされ、なるべく早く面会に行くように伝えられていた。すぐにレストランの店長に休みをもらい、翌日午後には母親が入院する病院に向かうことにしていた。さらにその夜に父から連絡をもらい病状が悪化したとのことだった。祐子は朝起きて、母が入院する病院にむかうべく、電車を乗り継ぎ一刻も早く病院に急ぐために、自転車で駅に向かっていた。また、昨日牧野に連絡が取れずに焦っていたこともあり、注意が散漫となっていた。あろうことか交差点で自分の進行方向が赤信号なのに渡ってしまったのだった。若い男が運転するスポーツカーが猛スピードで交差点に入ってきて、祐子を刎ねた。即死だった。救急車がきて救急隊員が祐子に声を掛けたが全く反応はなく、心臓マッサージ等を行うが、息を吹き返すことはなく、病院に搬送された。そして、そこで死亡が確認された。
警察もすぐに到着し、若いスポーツカーの運転手に事情を聞くが、祐子が信号無視をして交差点に入ったのは間違いなさそうだとの見解であった。赤信号で横断歩道で待っていた歩行者が証言をしたためだ。事件後、警察からは免許証の住所と世帯主の情報から、祐子の実家に連絡をしたが、家人は皆外出中のようで連絡が取れなかった。そこで、彼女の持ち物の中にあった仕事先のレストランの店主に連絡をした。祐子がそのレストランで勤めている事を確認し、その日の朝、交通事故で亡くなった事を店長に伝えた。お昼の営業が一段落ついた頃だったので、店主はすぐに電話に出て、驚き、そして悲しみ、嘆いた。警察からも祐子の実家に連絡しているが、連絡が取れていないとのことだった。
店主は祐子の実家の電話番号に痛む心を抑えて連絡してみた。すると電話がつながり、電話に出たのは祐子の父親だった。店長は父親に彼女が交通事故で亡くなったことを伝えた。
「私は祐子さんが務めているレストランの店長です。あのう、お父さん、娘さんの祐子さんが今日の朝、交通事故でお亡くなりになりました。本当にご愁傷様です」父親はその悲報を聞き、電話口で全ての感覚を失うほどに静止した。電話の相手の店主も思わず嗚咽を漏らし、その声が父親のうめき声につながり、暫く電話を挟んで双方の男達の泣き声が響いていた。祐子の実家側ではこの異常な事態に気づき、祐子の弟達が受話器を震えながら持っている父親に事情を聞いた。
「お父さん、どうかしたの?」
「ああ、ああ、祐子が交通事故に遭って亡くなった」
「ええ、嘘でしょう。お母さんが死んだ日に?」そして、祐子が交通事故で亡くなったことを確信した。上の弟は成人となっていて、気丈なのか、現実を理解できていないのか、店主に丁寧に尋ねた。
「いつもお世話になっています。祐子の弟の健一と申します。姉が交通事故で亡くなった事を今聞きました。こちらも姉の母が病院で亡くなり葬儀の相談をしている最中なんです。今日、朝に来るはずだった姉が、昼になっても病院に着かないので心配していたところなんです。この後どうしたら良いか相談しますが、まず、姉に会いたいのですが、どこの病院に行けば良いですか?」それを聞いて、店主は警察から聞いた手元のメモを見ながら病院名と警察の電話番号を伝えた。
祐子の実家では親戚が集まっていて、祐子の弟の報告により、母と娘の相次ぐ死に皆が呆然としたが、父親は心を失ったようになっていたので、彼の弟である祐子にとっての叔父と弟二人が高崎の病院に車で向かった。叔父の運転で実家のある村からは高崎まで一時間ちょっとで着いたが、車中では祐子の話はしづらいようで、お葬式の話となったが、同時にするしかないだろうとの結論となった。上の弟は祐子に東京に付き合っている彼氏がいることを知っており、連絡をしないといけないが連絡先を知らないという。叔父は祐子のアパートに連絡先が残されているだろうと、実務的な事や行動に関する話を中心に相談した。姉の死に関する事は極力避けた。そして、彼らは病院の安置室で祐子の亡骸に面会した。顎に少し傷が残っていたが、顔は綺麗なままで、まるで眠っているようだった。叔父がこらえきれず泣き出すと二人の弟も辺り構わず号泣した。
「姉さん!どうしてこんなことに、あんなに人のことを心配してくれたのに」二人の弟は姉の手や顔に触れながら、泣き続けた。
病院関係者からの説明を受けた後、警察からの説明と祐子に関する聞き取りのような事が終わった頃には、夜となっていた。遺体は暫く安置してもらえるとのことなので、三人は祐子のアパートに向かった。アパートに向かう途中に祐子の働くレストランがあったので、三人は店主に会った。店主に挨拶をすると、祐子の住むアパートは近くなので、一緒に行ってもらった。病院で所持品として保管してもらっていた鍵で玄関のドアを開けると、小さいながらきちんと整理された台所と和室がそこにはあった。上の弟は二度ほど訪れたことがあり、勝手は分かっていたが、姉の居ないその部屋は静かで春なのに寒々と感じた。電話帳はすぐに見つかり、彼氏である牧野の電話番号もすぐにわかった。姉の部屋の電話器から上の弟が東京の牧野に電話をした。牧野は自室に電話を据えていたので、数回の発信音の後に牧野が電話に出た。
「はい、もしもし祐子さん?」と話し始めたが、弟は自分は祐子の弟であることを告げると、牧野は驚いたが、すぐに祐子に何かあったことを察したようで、
「祐子さんに何かあったんですか?」と聞いてきた。弟は躊躇いがちに、
「実は、姉は今日の昼頃に交通事故に遭いまして、そのう、姉は亡くなりました」と告げた。電話口で牧野は絶句して、すぐに
「うわー」と呻き声を上げ、「なんで、なんで」と暫く電話口で泣き崩れている様子だった。弟は病院で泣き疲れていたので、その気持ちが分かり、数分間待っていたが、牧野は自分から気を取り直して
「すいません、取り乱してしまいまして、祐子さんは病院ですか?祐子さんにはどこに行けば会えますか?」と尋ねるので、弟は病院と連絡先を牧野に告げた。
「明日、会いに行きます。わざわざ、ご連絡頂いて有り難うございます。本当にそちらもご愁傷様です」といって電話を終えた。弟は祐子の母親の死を伝えるには及ばないと思ったのだった。
そして、その週末に二人の葬式がまさに沈痛な雰囲気の中で執り行われた。牧野は参列者側にいたが、気持ちは完全に喪主側と同じだった。四十九日にも呼ばれ、法事を終える頃には父親と弟二人からも家族と同様の接し方をされるようになっていた。上の弟からお清めの席で、静かに尋ねられた。
「牧野さん、姉とは結婚をするつもりだったんですか?」と、牧野は即答した。
「はい、そのつもりでした」
「牧野さんは弁護士を目指しているそうですね」
「ええ、その通りです。高崎辺りで事務所に勤めて、その後事務所を立ち上げたいと思ってました」
「そうなんですか。姉との生活のためですか?」
「はい、そうです」と牧野が寂しく答えると、弟は黙り込んだ。そして、暫くしてつぶやいた。
「姉は良い人に巡り会っていたんですね。生きているときはきっと幸せだったんだと思います」
祐子はどうだったのだろう。
祐子は高校を卒業後に弟たちの学費もかかるし、親に負担を掛けたくなかったので仕事をすることに決めていた。地元の村には若い女性が働けるようなところは無かったので、親戚の紹介もあり仕事が多くありそうな地方都市の高崎で仕事を探した。いくつかの仕事で面接を受け、中堅の工場での製造ラインの仕事やスーパーでのレジの仕事で内定をもらったが、彼女は接客の仕事を選んだ。それがレストランの仕事で、将来自分でお店を持ちたいとも思っていたので迷わずに決めた。店長の他に中年男性のシェフと洗い場と接客担当の中年の女性が居るだけのこじんまりした職場だった。祐子は明るい性格で美人だったので、店長と他のメンバーにもすぐに気に入られ、皆の娘のように大事にされた。彼女は仕事にはすぐに慣れ、常連客からはすぐに人気となり、店長も喜んだ。彼女がそのレストランで働き始めて二年目に、高校生二年生となっていた牧野がレストランを訪れた。
町の中心部に近くにある名門高校に入学した彼は、下宿生活をしていたので決まって夕方になるとレストランに来て食事をした。週に二、三回も訪れるので、祐子も彼の顔を覚えた。いつも学生服で訪れる彼の見かけには結構特徴があり、顔は鼻筋が通りくっきりとした濃い眉に優しげな目をして、どこか飄々とした感じだった。三種類ある定食を順番でオーダーするので、祐子はその順番をすぐに覚えた。ある日いつものように彼が訪れた。祐子は「今日は生姜焼き定食の日ですね」と牧野が注文する前にオーダーを言い当てた。牧野は思わず彼女の顔をみて、「そうです。それを注文しようと思ってました」と嬉しそうに笑顔で答えた。祐子は二人の間に風が吹いたような気がした。その日、仕事が終わりアパートに帰ってすぐに銭湯に向かう彼女は、彼の笑顔を思い出していた。高校一年生なので、自分の弟と同じ年だと思い親近感を感じているのだと思ったが、少し違う感情だと気づいていた。「私はあの子を好きなんだ」でも、自分の方が年上だし、私のような高卒とは釣り合わないのだとも思った。群馬県で一番の進学校なので、きっと東京の有名大学に行って華やかな学生生活を送って、可愛い女の子と付き合って青春を謳歌するだろうと。しかし、彼は次の日も学生服で飄々と現れた。そして、定食を美味しそうに食べて、優しい目で笑いながら店を後にした。祐子はそんな彼を見ていると、幸せな気持ちになるとともに、もっと彼を知りたくなった。
そして、月日が流れ、祐子は彼の名前が牧野だということを知り、時々彼と会話が出来るようになっていた。一人で下宿暮らしをしていることや、球技大会の結果とかマラソンの結果とか、文化祭での出し物について彼から報告を受けながら、弟に接するような振りをしながらも彼女は会話を大いに楽しんでいた。もちろん、祐子は他の生徒とも会話をしたが、牧野と会話をすると心が浮き立つ自分に気がついていた。しかし、早いもので彼も三年生になっていた。後一年弱で彼とは会えなくなると思うと悲しい気分になった。時々彼と一緒に来る友達が、祐子の表情を盗み見ていることに気がついた。彼はその友達を『たいし』と呼んでいた。アダナなのだろうと思った。他の友達と来ることもあったが、『たいし』と来ることが圧倒的に多かった。そして、牧野が高崎を離れ東京に向かう数日前に、牧野の友人の太子が店を訪れた。彼はすぐにこう切り出した。
「あのう、実は牧野の代わりに来ました。あいつはあなたのことが好きで、来週には東京に行ってしまうので、今日か明日にでもあなたとどこかで会いたいと言ってます」祐子は嬉しさと悔しさと寂しさの入り交じった感情になり、つい心にあることと逆の事を言ってしまった。
「自分の気持ちを友達に託すなんて、だらしないひとね。そんな人は私は嫌いです」と、彼女はそう言って彼の事を忘れたいと思っていたのだ。すると、牧野はその日のうちに店を訪れた。そして、互いの気持ちを確認し合い、牧野との別れの可能性があった日から事実上の交際が始まった。その後の彼女は牧野の東京での学生生活を応援しつつも、毎日のように電話や手紙を通じて、様々な事を伝え合い、愛を深めていった。彼女が東京に出かけていくときは、出来る限りのオシャレをして行った。東京で見たい物や行ってみたい所を事前にリストアップして行ったが、結局どこに行っても同じで、彼と一緒に居ることが全てだった。牧野は東京での学生生活を通じて少しずつ大人びてきて、自分以外の女性の友達が出来て、自分とは疎遠になっていくのではという不安もあった。時折そんな事を探るような意地悪な質問をすると彼は、
「祐子さんのように正直で優しくて賢い人は、僕の周りには居ないよ。それに、大学の法学部には女学生はほんのわずかしか居ないし、みんな不細工なんだ」と平然と言い放つので、彼女はかえって
「そんなことを言っては駄目よ。心根の綺麗な人はいるはずよ」
「ははは、見かけも綺麗じゃ無いと嫌だね」と言う具合であまり浮気の心配はなさそうな気配だった。
そして、いつしか二人は将来について話すようになっていった。祐子は東京へ出てくることは実家の親のことも心配な様子だった。牧野は大学での成績も上位で、弁護士を目指す気持ちを強く持っており、どこで仕事をしても良いと思っていた。二人が出した結論はやはり出会った町『高崎』で暮らす事だった。いきなり法律事務所を開業するのは不可能なので、最初はどこかの事務所で修行し、顧客と実績と自信がついたら独立するような夢を抱いた。祐子の夢は大きくふくらみ、牧野を支えながらも自らも何か役に立てるような事を目指したいと考えるようになっていった。さて、祐子には二人の弟が居た。上の弟は牧野と同じ大学生になっており、高崎の私立大学に通っていた。下の弟は高校生で陸上部の長距離の選手をしていた。上の弟は祐子の住むアパートに時々訪れることがあり、姉の変化に気づいていた。
「姉さん、最近少しお化粧が上手くなったみたいだけど、何かあった?」と聞いてくるので、祐子はちょっと焦ったが、
「ええ、ちょっと事情があってね」とごまかそうとしたら、
「まさか、夜のお店かなんかで働いていないよね?」と思いがけない質問をするので、思わず吹き出した。
「馬鹿ね。違うわよ」
「じゃあ、どうしたの?」としつこく聞いてくるので、
「分かるでしょう。私だっていい年なんだから」
「へえ、そうなんだ。やったじゃない」と生意気にからかって来たので、頭を軽くたたいた。
「いてえ、何をするんだよ。この乱暴者」と嬉しそうだった。その後も、祐子のアパートや喫茶店で弟と会う度に、彼の学生生活の事を聞くと共に、祐子の彼の話をするようになった。弟からすると自分と同じ年の男が姉の彼氏だというのは、少し変な感じではあったが、弁護士を目指して頑張っていることを聞くと、
「そいつは偉いよね。俺なんか将来何になるかも全く分からないよ」と関心するのだった。祐子はそれを聞き、自分もそう思うと正直感じていた。そして、牧野が大学四年生となり、司法試験を受けるか、就職活動もするのかを迷っているときに運命の日が近づいて来たのだった。
ある朝の七時過ぎに祐子の部屋の電話機がけたたましく鳴った。祐子は既に起きていたが、牧野からの電話は大抵は夜だったので、胸騒ぎを覚えた。案の定、電話の掛け手は父だった。
「あっ、もしもし祐子か?お父さんだけど。朝早くに悪いね」
「ああ、お父さんおはよう。どうかした?」
「ああ、実はお母さんの具合が悪くて、昨日入院したんだ」
「ええ、そうなの。どこが悪いの?」
「心臓なんだ。数日前から胸が苦しいと言っていたんだが、いよいよ悪くなったので病院に連れて行ったんだ。そうしたら、色んな検査をしたのだけど、即入院さ」
「病気?」
「ああ、狭心症だと先生は言っていた」「出来ればなるべく早く母さんに会って欲しいのだ」
「分かった。病院はどこ?」と祐子は答え、父から病院の名前や住所を聞いた。高崎の隣の渋川市にある総合病院だった。
その日、店長にすぐに相談し、二日ほどお休みをもらうことにした。その日は午前中で仕事を切り上げさせて頂き、見舞いに必要な物を用意し、明日の午後には直接病院に行くことにした。その晩、牧野に電話を数回するが彼は電話に出なかった。なんとその時彼は、友人宅に泊まり込みで司法試験対策の勉強をして留守だったのだ。その日の夜遅くに電話が鳴った。祐子は牧野からの電話かと思ったら、父からだった。母の病状が悪化したことを伝える内容だった。明日、なるべく早く病院に向かうことを伝えた。祐子は母の病状が改善することを祈りつつ、牧野に連絡を取れずにいる事を焦りながら、眠れぬ夜をすごした。そして、朝早く起きて、自転車で駅に向かっている途中の交差点で赤信号を見逃して、交差点を横断し猛スピードで交差点を通過しようとした車に刎ねられた。直前の彼女の頭には、母親に早く会いたいという事と、どうすれば目的の病院に早く着けるかと言う事と、牧野に連絡がつかない事で一杯になっていた。いつも通い慣れた道なので、無心でも行き着ける道程だったのだ。不幸にもその事で注意散漫となっていたのだった。若い女性の命が絶たれた。一生懸命に生きて、親からも兄弟からも、そして恋人からも愛された尊い命が絶たれたのだった。
一方、祐子の交通事故死の連絡が最初に入ったのは、祐子が働くレストランの店長にだった。警察は先に祐子の実家に連絡をしたのだが、そのときには祐子の母が病院で危篤状態となっており、誰も在宅していない状況だった。祐子の所持品の中に仕事場であるレストランの連絡先があったので、警察はそこに連絡をしたのだった。店長はこの悲報を受け、祐子の実家に連絡を取ったのは、すでに事故から数時間が過ぎた午後になっていた。店長は信じがたい事実に気が動転していた。なぜなら、昨日、祐子に父親から連絡が入り、彼女の母親が入院したとのことだったので、彼はすぐに彼女に実家に帰るように言った。そして、祐子が母親の見舞いのために実家へ帰る日に、こともあろうことか祐子が交通事故で亡くなったのだ。警察から連絡を受け、俄には信じられなかった。元気で明るくて思いやりのある祐子に突然訪れた死を、彼は受入れられなかった。悲しくやるせない気持ちを抑えて、彼女の死を実家の父親に伝えたときに、彼の心は沈みきった。湖の深い深い深淵に。
この世の中には不幸な出来事は多い。人の数ほど有ると言ってもおかしくは無いかもしれない。しかし、祐子とその家族と恋人である牧野を襲った不幸は、究極の不幸だったと言える。
しかし、牧野はこの不幸を牧野らしく意外な形で乗り越えた。春に申し込んでいた『司法試験』を受験することで、祐子を失った悲しみを乗り越えようとしたのだ。自暴自棄になるのは容易いことだが、彼は祐子が本当は生きていると信じて、自分が司法試験に合格することで、天国から彼女が帰ってくると思い込んだ。彼女の死後、約三ヶ月間、正に寝る間を惜しんで勉強をした。大学には事情を話し最低限の授業に出席したが、ほとんど下宿と図書館に閉じこもり猛勉強した。まさに一心不乱に勉強し受験を終えた。七月半ばからの司法試験に臨む暑い暑い夏になっていた。試験の終了後に、牧野は数人の友人達には祐子を失った事を告白した。それを聞いた友人達は自分のことのように悲しんだ。それ以上に友人達は牧野の事を心配し、最初は毎日のように牧野の下宿を訪れた。牧野は彼らの気持ちを素直に受け止め、なるべく彼らと一緒に居ることを望んだ。そして、十一月になり司法試験の合格発表の日、一緒に発表会場を訪れた。何と牧野は合格していたのだ。牧野は声に出して喜び、そして、祐子を思い泣き出した。
「祐子!俺、司法試験に受かったよ」
「牧野!良かったなあ。きっと、祐子さんも喜んでいるよ」と、皆泣きながら大声を出している彼ら数人は、試験結果発表会場でも異質なグループと見做されたが、彼らはかまわなかった。翌日、牧野は祐子の墓を訪れ、司法試験に合格したことを報告した。
誰もが牧野は弁護士になり、祐子と約束した高崎で仕事に就くと思っていたが、彼は試験に合格した後に遅い就職活動を始めた。ほとんどの企業は採用を終了していたが、ある海外にも工場と支店を持つメーカーが牧野に興味を持った。司法試験に合格していた彼を欲しがった。数回の例外的な日程で面接を終えた後に、合格内定通知を牧野は受け取った。彼は祐子との思い出が詰まった高崎には近づきたくなかったのだ。そして、彼はその会社の法務部に就職し、人一倍仕事に没頭した。全国を飛び回り、海外にも自ら志願して出向した。その後特に女性と付き合うことも無く、そのことを同僚や部下は訝しんだが、牧野の誠実な仕事ぶりと、男気のある振る舞いを見るにつけ、皆が不思議に思った。しかし、それほどの人物が浮いた話の一つもないのには、よほどの事情が有るのだろうと想像し、聞くのを躊躇ってしまうのだった。やがて牧野は仕事人間を続け五十歳になり、年老いた親の面倒を見るために生まれ故郷の企業に再就職した。その父母も高齢になり入居した養護施設で相次いで亡くなり、実家も古くなったので建て替えようとしたのだが、実家の土地は広くなく、いっそ別の土地に家を建てることになった。その際、彼は独身なので地元に住む弟家族と二世帯住宅のような作りの家を群馬元町の隣町の北浅間村に建てたのだった。牧野の弟は地元警察で刑事をしており名前は牧野剛。兄の牧野巌とは十五歳ほど歳が離れており、巌が高校生の時に生まれた弟だった。
巌には何人かの親友がいてその一人が肥後丈一郎で、同じ大学に通い学部は違ったが飲み会でたまたま知り合い親しくなったのだ。学生時代には毎週のように待ち合わせて飲みに行ったり、長い休みには一緒に旅行に出かけたりする仲となり、大学を卒業後も付き合いが続く気心の知れた親友であった。巌と剛が住む山間の村に親友の肥後丈一郎が別荘を購入し、移住してきた。幾つかのトラブルや事件を弟剛と丈一郎の助けもあり解決した後に、縁があり養子を迎えた。その子の名は旧姓麻山聡。とても賢く、運動神経にも優れた子供だ。




