タイトル未定2025/10/18 10:03
夏、夜の森は川の清廉な静けさとは異なり、静寂の中にも時々虫や鳥の規則的な声が混じっていた。
昼頃から夕刻にかけての降雨のせいで、落葉の敷き詰められた森の道は水死体を踏んでいるかのようなグチョグチョとした歪な感触を靴裏に伝える。一歩、歩を進めるだけで足が土の下に深く沈んでいく感覚がある。例えば、この地面のどこかに誰かが掘った深い陥穽があったなら、万が一踏み当ててしまった時、俺はどこまで落ちていくのだろう。おむすびころりんの童話のように地下には鼠たちの楽園があって、迷い込んだ俺を手厚く歓迎してくれるかもしれない。してくれないかもしれない。どちらとも完全には言い切れない議題についての思考は、続けていると終わりが見えなくなるので早い段階で打ち止めにした。
短く空気を吸うと、濡れた森の土臭い匂いが鼻腔を満たした。聳える落葉樹林の無限に重なり合う掌のような枝葉の隙間から、仄かに差し込む蒼い月明かりだけでは、夜目に心もとなくなったので人工的な光の力を借りることにした。二月前に購入した登山用のリュックサックを開けて、片手に収まる小さな懐中電灯を取り出した。持ち手の部分を昼時に見れば唐辛子のように鮮やかな赤色を認めることが出来るが、今は闇に染まって夜の水面のように濃紺である。スイッチをONにすると、死んでいた電灯部分に命が宿った。命は眼前を眩く照らし、黒のシルエットと化していた景色にも生来備えている色彩を蘇らせた。そして、その時に初めて分かったことなのだが、数メートル先にある櫟の幹に数匹の虫が群がっていた。内側から零れる樹液を吸っているのだ。足長蜂や紙切り虫やカブト虫やコガネムシが、母豚の乳を貪る生後間もない兄弟豚のように必死で、時に同輩を蹴落としてまでも樹液を味わっている光景を見て、「生きる」と言う言葉の真意が分かった気がした。
地球上で最高の知能を持つ我ら人間でさえも、結局はこの醜悪で非理性的な本能には抗えないのだろうな。貯金をしなければならないのに目の前の欲しいものを買ってしまう幼児に似た強欲な本能が、人間を70億超になるまで発展させるのと同時に豊かな自然を破壊してきた。全生物の中で人間にしか犯せず、人間にしか達成出来ない功罪である
もしも今、魅力的なものを目前に置かれて、誰かから好きなだけ味わってもいいよと許可を出されたら、欲望を押さえつける理性の枷を外されたら、俺もすぐさまにあの虫どもと同類になり果ててしまうだろう。いや、根源的には既に同類なのだ。奴らと違うのは優れた脳味噌があるかないかだけだ。脳味噌がなければ生物は押し寄せる本能に抗えない。前頭葉に備え付けられた怜悧な理性がその嵐を抑えている。理性とは言わば、シャンパングラスのコルクのようなものなのだ。これが人間を理性的にし、社会を形成している。だが時折、俺は理性が憎らしくなる。これが無ければもっと奔放に生物らしく生きられるのではないか? 規律に縛られない自分だけの愉悦を発見できるのではないか? 脳味噌は理性の役割を担うと共に、想像力によって良質な欲望のイメージを作る。だが、「人間らしく」と言う存在しない垣根があるせいで、その想像に自ら制限を設けてしまっている。これほどまでに哀しく、ナンセンスなことはない。
ここまで考えた時、俺の感情は活火山のように激烈に昂り、今すぐに非人間的な行動をしてみたいと言う欲求に襲われた。誰も居ないであろう夜の森の中に居る今だけは、知的生物としての仮面を捨てて思い切り愚者になりたかった。俺は着ている衣服も履いている靴も全て脱ぎ、中肉中背のだらしない着の身着のままを森の眼に堂々と晒した。そして、懐中電灯を振り回し、奇声を上げながら、虫どもが居る橡へと走った。 夏の夜の蒸し暑さが手伝って全裸でも少しも寒くなかった。ただ、濡れた地面を裸足で走るので水気が肌に伝わり、どうしても冷たくはあった。しかし、虫と言うのは本当に凄いものだと感じた。得体の知れぬ人間が走ってきているのにも関わらず、樹液に群がる虫どもは殆ど動かない。勿論、数匹ほど飛んで逃げる虫も居たが、大半が残ったままだった。ついに辿り着いた時、俺は虫どもを払いのけようとして手を出した。 奴らは中々に強情だったが本気の人間の敵ではなく、やがて頼りなく下に落ちて行った。全ての虫を退けて樹液を垂らす幹の割れ目が露わになった瞬間、俺は生ハムの原木に齧りつくアメリカ人のように豪快に口を付けた。味わう樹液はさながら勝利の美酒であった。だが、暫くそれを吸ったり舐めたりしても一向に美味くなかった。どこまでも樹の分泌物らしく苦く、加えて酷く土臭かった。これのどこに夢中になる要素があるのだろう。そう思い始めた時、右腕に鋭い痛みが走った。懐中電灯で照らしてみると蜂が止まっていた。楽しみを奪われて怒った蜂に刺されたのである。痛みを声に出してでかでかと訴えるより先に、理性が追いついてきて申し訳ないと言う思いが湧いてきた。人じゃないとは言え、楽しみを奪ったのだから激怒されるのは当然であり、俺がしなければいけないことは今すぐに樹液を舐めるのを止めることと、樹から離れることだった。
俺は右腕に乗っている蜂に対して小さく頭を下げた後、刺されることを防ぐために振り払わせて貰った。蜂はブーンと羽音を鳴らし、数秒俺を睨んだが、すぐに樹に戻り、樹液を舐める楽しみを再開した。だが、安堵したのも束の間、俺は全身に違和感を覚えた。懐中電灯で照らすと、櫟の樹液を舐めていた俺を樹と勘違いしたのか、大量の虫が俺の裸体に群がり今も這い上っていた。針金のような虫の節足が身体に食い込み、微かな痛みを表しながら歩いてくるのがわかる。
それを見た時、一気に血の気が引き、身体の熱が急速に冷めていくのを感じた。焦燥に駆られながらそれらを振り払っていると、その内の一匹が俺の男根を噛んだ。火炎に似た痛みに襲われ、鋭い苦痛に喘ぎながら、俺は二度と何かの欲望の邪魔をしないと誓った。




