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Air pocket  作者: 赤札ワイド
3/3

3.借りパクの男

高層マンションの最上階。エレベーターを降りた先には、この階に一戸しかない扉が静かに佇んでいた。

「久しぶりだね……来てくれてよかった」

玄関先で御曹司は、危険な香りのする人物を迎え入れようとしていた。


「なんだよ? ……卒業以来会ってなかったのに、急に連絡してきて」


目の前に立つ男の視線は冷めきっていた。品のかけらもない目つきでこちらを値踏みするように見つめている。金髪に染めた髪は伸び放題で、ハーフアップに束ねた生え際には黒い地毛が五センチ以上も覗いていた。わずかに顎があがっている。意図の見えない呼び出しに苛立っているようだ。


「ごめんね、君にどうしても頼みたいことがあって。……どうぞあがって」


屈んで靴を脱ぐ男の背中を見つめながら、ふと脳裏に、高校時代彼に貸したCDのことが蘇った。当時は流行っていたアーティストのベスト版、洋楽のマニアックなシングル。いつも「必ず返す」という言葉をくれるものの、すべてそのまま返ってこなかった。

その記憶を頭の隅へ押しやり、内心で湧き上がる虚しさを抑え込む。


人伝えに表には出せない筋の連中と関わりがあると聞いた。表向きは一般人を装っているが、裏社会に顔が利く人間だという。

依頼を引き受けてくれるのは、おそらく彼しかいない。

 

「面倒くせぇことだったら協力できないぜ」

 露骨に牽制する低い声を聞きながら、御曹司は穏やかな表情を崩さず応じる。

「もちろん。説明をきいてから決めてくれてかまわない」

「ふーん」

男は少しだけ口角を上げる。


リビングに足を踏み入れると、室内から一頭のビーグル犬が御曹司に向かって駆け寄ってくる。男の姿を認めた途端ピタリと立ち止まり、喉の奥から低い唸り声を上げる。

「ウゥ…ウォン!!」 

警戒音に似た鳴き声。尻尾は水平で、毛が逆立っている。

犬は後ずさりしながらも吠え続け、牙を剥いて威嚇する素振りを見せた。


御曹司は一歩前に出て、視線だけを犬に向けた。手のひらを下げながら、静かに息を吐く。

「……しー」

その一言で、犬は喉の奥で小さく唸りながらも吠えるのをやめた。しかし、男が家を見回す様子を目で追って再び身体を固くし、低くうなる。

気まぐれなこの男は、機嫌を損ねればすぐに帰ってしまうだろう。御曹司は犬に理解できるようにわざと眉を寄せ、厳しい表情をつくる。

指先をリビングの奥の部屋の方向へ向けた。

「ハウス」

声は先ほどよりも一段低く、命令の響きを帯びていた。

ビーグルの耳がぴくりと動き、爪が床を叩く音を響かせながらケージの中で座ると、背筋を伸ばしてじっと主人を見上げた。

御曹司は犬の頭を撫でたあと、ケージの扉を締めてロックを掛ける。




「ごめんね。さ、どうぞ」

男に申し訳なさそうに笑いながら椅子をすすめる。

男は座らず、ダイニングテーブルの一角に体重をかけて寄りかかった。

「で、要件は?」

御曹司がテーブルの上に一つの封筒を置き、じっと男の顔を見る。絞り出すように切り出した。

「……君のツテで探せないかな?」


男が封筒の中に手を入れると、指先によれた紙の感触。掴んで引き出してみると、ちぎれた写真。

一瞥してからとくに感想もなく、封筒の奥底をのぞいた。両端に少し力を込めて口を広げると赤黒いシミに汚れたイヤリングが軽い音をたてて転がった。

「女、か……?何、お前の彼女?」

写真に視線をもどして男が呟くと御曹司が力なく頷いた。


写っている人物は、明らかに瀕死の状態だった。頬の一部しか写っていないが、顔には小さな血痕がいくつも飛び散り、背景にも赤黒い血溜まりの一部が写っている。血生臭い物を目の当たりにしても男は眉ひとつ動かさない。

「それで?」まるで天気の話でもするように、淡々と説明の補足を求めた。


「いなくなったのは4日ほど前で…」

 

御曹司が事情を説明し始めると、男は話は聞いているものの、自分のポケットの中の車のキーを弄んだり気も漫ろだ。適当に相槌をうちながら、視線を部屋の中に滑らせ始めた。

大理石の床がスタイリッシュな照明の柔らかな光を反射する。広々としたリビングの中央には四人は楽に座れそうなソファが存在感を放っている。深く沈み込むような上質なレザーが座り心地の良さを想像させる。

壁に掛けられた絵画、アンティークのキャビネット、奥に見える螺旋階段。男の目が獲物を物色するように細められる。


御曹司はその不躾な視線が気になったが、男にできるだけ多くの情報を提供する。

彼女を取り戻したい。その一心だった。


すべて聞き終えた男は薄い笑顔を貼り付ける。

「わかった。探してやるよ。そのかわり…」

「お礼なら弾むよ」

無理な要求をされることは折込済みだったので、彼の言葉が終わる寸前で重ねる。


「へぇ、太っ腹じゃねぇの」


ポケットから煙草の箱を取り出すと、断りもなく一本咥えてオイルライターで火をつけた。男は少し考える素振りをみせて、ゆっくり煙を吐き出す。

御曹司が一瞬眉をひそめ、慌てて立ち上がる。奥から灰皿を取ってきて男の前に置いた。

すでに一欠片の灰がダイニングテーブルの上を汚していた。



灰皿の中に灰を落とし、一服しては忙しなくまた灰を落とす。獣じみて落ち着きがない。

もしやドラッグの症状だろうかと思案するが、自分に実害がなければ咎める理由もない。嫌な気持ちはするものの落ちた灰を静かに布巾で拭う。



「じゃあさ、この家貸してくれよ。広くていいじゃん? 連れと集まれる部屋を探しててさ。1日だけでいいから」

男は口元を歪めた。目だけは笑っていない。


男のお得意の「貸してくれ」

 ——数年ぶりに聞いて、背にゾクリとする感覚が登る。



「…うーん、」

男の目が冷たく光る。そこには人間らしい感情が欠落しているような、どこか理解の範疇を超えた異質な感覚があった。御曹司は思わず視線を逸らし、目を伏せる。喉の奥で何かが引っかかるような違和感を必死に飲み込んだ。

「うん。……わかった。住む所は別にいくらでもあるから大丈夫」


承諾されたことに、男は楽しそうに頷く。

「俺に声かけて正解だったぜ?」

男は御曹司の肩を軽く叩いた。自信たっぷりの態度で、まるで自分の手腕を誇示するように。

「あ、うん。引き受けてくれてよかった。君だけが頼りなんだ」

「おう。あー、のど渇いたな。なんか冷たいもんない?」

話がまとまったとたん男は遠慮のかけらもなく要求する。御曹司の感謝には興味がない様子だ。


「お茶も出さずにごめんね、僕も必死だったっていうか……」

会話の返事もせず、今度は先程から興味をひかれていたらしいソファに深く体を沈めた。

リラックスした様子で目を閉じる。


「エアコンももうちょい効かせてくんねぇ? 暑くてさ」

次から次へと要求が続く。ずうずうしさが平常運転といった態度だ。


御曹司は立ち上がる。手早くエアコンの温度を下げ、キッチンへと足を向けた。

「紅茶とコーヒーどっちがいい?……確かクッキーもあったはず」

男に背中を向けたまま、申し訳なさそうな声色で会話を続けた。冷蔵庫を開けて中身を確認する。

 


「コーヒーだな」



男は会話を続けながら、音もなく立ち上がった。

御曹司は食器を選ぶのに忙しい。


煙草を灰皿に押し付けてから、重厚な灰皿を手に取る。

吸い殻を床にこぼしながら、ゆっくりと高い位置へ持ち上げた。

裏底にハイブランドの名が刻まれているの見つけ親指でなぞる。


「このブランド、灰皿なんて作ってるんだな?」

ごく普通の調子で言いながら、ゆっくり距離を詰めていく。軽い雑談が規則的に続く。

男の声の奥には硬さが混じっていた。


「うん、父がそのブランドのアトリエ責任者と懇意でね。誕生日に、“一点物”として贈られたものなんだ。……あれ?切らしてたかな」



指先がじくじくと疼く。男は抑えきれず親指を握り込み、舌の裏に集まる唾液を何度も飲み込む。

体の奥底から熱がくすぶり、頬の内側がひきつった。高揚する震えの中、奥歯を噛みしめる。



次の瞬間、背を向けたままの細い首筋に重い金属が振り下ろされた。

鈍い音。

金属の縁が耳下の柔らかな部分を正確にとらえ、彼の肩がほんのわずかに揺れる。

グラスが手から滑り落ち、床で割れた。


数秒後、膝から崩れ落ちる。

硬い音がリビングに響き、張り詰めていた空気が一気に裂けて静まり返る。 

その場に倒れた体には、もう力が込められることはない。



男は息を整え、灰皿を見下ろした。縁に赤いものが滲んでいる。

血のついた灰皿をテーブルに置き、ポケットから煙草を取り出した。


「ありがとな。この家、借りるぜ」



火をつけて深く吸い込み「返すつもりなんて、最初からないけどな」と独り笑う。

ゆっくり煙を吐き出しながら、床に広がる血溜まりを一瞬だけ目に留めた。



■■■



一本のタバコを吸い終えたあと煙草の箱をポケットにしまう。

倒れた体の足元から近づき、つま先でそっと脇腹を押した。

反応はない。

肩がわずかに沈み、静寂だけが戻ってくる。

先程まで時折おどおどと動いていた瞳は、焦点を失ったまま動かない。


その視線の先にしゃがみ込んで、耳を近づける。鼻腔をくすぐる生温い血の匂い。

一秒、二秒、息の音はない。

空気だけが、ぬるい膜のように顔に張りついた。


「……はは、睨むなよ」


視線を合わせては物言わぬ相手に軽口をたたく。

次の瞬間には興味が失せたように立ち上がった。うつろな瞳を見下ろして、足首を掴む。

重い音を立てて床を這う体。

リビング奥の間仕切り扉を足で押し開け、適当にベッドの脇へ押し込んだ。


「……なんだこれ、閉まらねぇのかよ」

木製のスライド扉はゆがんでいて、最後までぴたりとは閉じない。

男は肩をすくめ、そのまま諦めた。

薄い隙間の向こうで、ビーグル犬の耳がピクリと反応する。


「ワン! ワン!! ワンワンワンワン!!!」

飼い主の異常を察して、ケージの中から狂ったような鳴き声が上がる。金網を前足で引っ掻き、ケージ全体が揺れる。喉が枯れるほど吠え続ける声が、部屋中に反響した。


「……うるせー」


乱暴に寝室の扉を足で押した。半端に閉じたままの間仕切りから、まだ吠える声が漏れ続ける。

 

リビングに戻ると、床に残る引きずった血の跡が目に入った。

男は面倒臭そうに舌打ちをすると、別の部屋から目についたラグを引っ張り出し、血痕の上にざっくりと重ねる。

端が少しずれているが、気にした様子もない。


「こんなもんだろ」

低く笑い、男は両手をパンパンと叩いて払うとソファに腰を下ろした。



■■■



——三日目。


冷蔵庫の中身は半分以下になっていた。

男は御曹司の服を勝手に着て、ソファに寝転がっている。

テレビをつけっぱなしにして、缶ビールを空けた。

床には袋菓子の殻が散乱している。


寝室からは、もう犬の声は聞こえない。

鳴き疲れたのか、ケージの中で丸くなって動かなくなっていた。



——五日目。


冷蔵庫は空。床に落とした袋菓子の殻と缶ビールは踏み潰されひしゃげている。綺麗に保たれていたはずの部屋はすっかり荒んでいた。

空気清浄機のランプが赤く点滅し異常を示していた。リモコンには油の指紋がこびりついている。


「……そろそろ警察も来そうだな。めんどくせぇ」

 この日で五日が過ぎていた。御曹司の体はもう腐敗し始めているだろう。天井を見上げながら、目的もなく視線を彷徨わせている。



 ポケットのスマホが震える。画面には“ボス”からのメッセージ。

次の仕事の打ち合わせをするために近々落ち合うことにはなっていたが、急に今日を指定してきた。どうやら場所も変更になったらしい。

「……?よくわかんねぇけど、まだ時間あるしな。」

 

男はテレビのリモコンを手のひらで叩きながら、だらしなく脚を投げ出している。

画面の向こうで天気予報士が笑っていた。

「……くだらねぇ」


気まぐれに投げたリモコンが、半端に閉じた間仕切りの隙間をすり抜けた。乾いた音がして、ケージの金網にぶつかる。


「キャン!」

甲高い鳴き声。

ケージの中の犬は飛び上がり、尻をついて後ずさった。水皿が倒れ、床に水が跳ねた。


男は眉間にしわを寄せ、苛立たしげに舌打ちをした。

「……またかよ。少しの音でもビビりやがって」

ソファから立ち上がる。

足音をわざと大きく鳴らしながら、間仕切りの前まで歩く。


隙間の向こうで、犬はケージの奥に身を押しつけていた。尻尾を巻き、喉の奥でかすかに唸り続けている。


男はゆっくり腰をかがめ、扉の隙間に顔を寄せた。

「……吠えんじゃねぇよ」

笑いながら、手に持ったリモコンを軽く壁に叩きつけた。


犬は体を縮め、鳴くことすらやめた。

ただ喉の奥で小さく、空気を押し出すような音を漏らしている。

「いい子だろ」

男は扉を指で軽く押し、隙間を少しだけ広げる。

ケージの中から、生臭い空気が流れ出た。


その瞬間――

ピンポーン。


チャイムの音が、部屋の空気を切り裂いた。

男の動きが止まる。ケージの奥で、犬が鼻を鳴らした。


反射的にカメラを覗き込むと、画面には、白いシャツの若い女。スーツの上着を持って、大きめの鞄を下げている。保険会社の営業だろうかと冷たい目で観察する。

 

「すみません……」

おずおずした声は御曹司の名前を出して、在宅かどうかを確認してくる。

「…あー、今出かけてるよ」

 男は適当に答える。

 

「え、そうなんですか?……あの、実は知り合いから封筒を受け取ってきてくれと頼まれていまして」

 女の声はか細いのに、不思議なほどよく耳に残った。


「どうしよう、必ず今日中に、って言われてまして…」

画面越しでも分かる。きちんとした身なりをしているが、困惑した様子で鞄の紐を握りしめ、何度も玄関先を見回している。いかにも気が弱そうだ。若い女がソワソワしながら尋ねてくるなど、都合がいい。

 

「じゃ、上がって待ってれば?」男は口の端を吊り上げる。

女は一瞬ためらうが、「今日中に」と言われているので、意を決したように頷いた。


「……すみません、それじゃあ少しだけ」


扉を大きく開けて、笑顔で迎え入れた。

女が玄関で靴を脱ぐ背中を薄笑いを浮かべて見つめる。



リビングに足を踏み入れた女は、部屋の異様な空気に気づいたようだった。

散乱した缶ビール。油染みのついたソファ。そして、奥の部屋から漏れる微かな異臭。

「……え?」

女は鞄を抱え直し、一瞬だけ男の方を窺うように見た。

何か言いかけて、口をつぐむ。

室内の乱れた様子と、目の前の男。何かが噛み合わない違和感。


「あの……やっぱり、また改めて……」

女が振り返ろうとした瞬間、背後で扉が閉まる音がした。


「せっかく来たんだから、ゆっくりしてけよ」

男の声が、低く響いた。

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