2.委ねたい男
重たい木の扉を押して入ると、ジャズの音が低く流れていた。
磨き上げられたカウンターにはアンバー色の光が落ち、マスターが静かにグラスを磨いている。
「そうだったんだね。お母さんが……」
「お姉さんには元気になってほしいから、私もしつこくならないように声はかけているんだけどね」
琥珀色の液体を見つめながら、彼女は吐息まじりに言った。
「相変わらず世話焼きだね」
「そうかな? 目の前で起こってることは仕方ないってだけ」
マスターの穏やかな声に小さく微笑んだ。
「それ、なかなかできることじゃないですよね。たいてい、みんな関わりたくないものだし」
すぐ横から声がした。
驚いて振り返ると、隣に座っていた、彼女より少し若く見える男だった。
濃紺のスーツに身を包み、髪は明るめのカラーで柔らかい毛先が緩やかに額にかかり、眼差しは妙にまっすぐだ。
「……」
彼女は視線を戻し、グラスを指先で転がした。
「すみません、急に。でも、僕……そういう人を見てると安心するんです」
彼はわずかに照れた笑みを浮かべた。
「どうして……?」
「僕、自分で決められないことが多くて。でも、あなたみたいに人のために動ける人を見ると……ああ、そうやって生きればいいんだって思えるんです」
「あなた、面白いこと言うのね」
「面白い、ですか?」
「ええ。でも……悪い意味じゃないわ」
マスターが新しいナッツの皿を置き、気を利かせて少し離れた。
彼女は一瞬、グラスを持つ手を止めた。珍しい。こんなふうに素直に自分を語る男性は。
ふと身近な男の顔が脳裏をよぎる。
(男性といえば、たいていはなんでもうまくいくと信じて横柄になるだけだもの)
口では「君の意見を聞きたい」と言いながら、結局は自分の都合のいい答えを求めてくる。
そんな人ばかりだった。
けれど、目の前のこの男は違う。本当に、心から迷っているのがわかった。
「僕、自分のことになると……何が正しいのか、わからなくて」
彼の声には嘘がなかった。あまりにも無防備で、彼女は少し戸惑った。
「それで、誰かに決めてもらうの?」
「……はい。変ですよね」
「変、かもしれないけど」
彼女はグラスを唇に運んだ。
「正直な人ね」
その瞬間、彼の顔がぱっと明るくなった。
まるで褒められ慣れていない子供のように。
彼女の胸に、久しぶりの感覚が湧き上がる。
(あぁこの人、私の言葉を本当に"必要"としてる)
あの人とは違う。
「もう一杯、いかがですか? 今度は僕のおごりで」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
マスターが二人のグラスに新しい琥珀色を注ぐ。
やがて会話は途切れることなく広がり、気づけば外は深夜の静けさに包まれていた。
■■■
初夏の風が頬を撫でる休日の午後。
ショッピングモールのエスカレーターを二人で上りながら、彼女は彼の腕に軽く手を添えた。
「今日はどこから見る?」
「君が決めていいよ」
彼はいつものように、少し困ったような笑みを浮かべる。
彼女は小さくため息をついたが、それは嫌悪ではなく、むしろ慣れた安心感のようなものだった。
「じゃあ、メンズフロアから。あなた、最近シャツ買ってないでしょ?」
「うん。言われてみれば」
彼は素直にうなずき、彼女の後をついていく。
「青はけっこう持ってるしな……」
彼が迷いながらシャツを見比べていた。
「でもこれ、生地が珍しいでしょ。光で色が変わって見えるの。しかも細部のデザインまで凝ってるのよ」
彼女が解説すると、彼は素直にうなずいた。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、それにする」
青いシャツを抱えた彼を見て、彼女は口元を上げる。
(やっぱり素直な人って付き合ってて楽だわ)
会計を済ませた帰り道、彼が嬉しそうにショッパーを揺らす様子を横目で見ながら、彼女は心のどこかで満足していた。
「ありがとう。君と一緒だと、迷わなくて済む」
「……そう。それは良かったわ」
彼女の声は穏やかだったが、どこか上の空だった。
彼の素直さは心地よい。けれど、それがあまりにも純粋すぎて、ときどき不安になる。
――この人、本当に自分の意志って持っているのかしら?
そんな疑問が、ふと頭をよぎった。
■■■
数ヶ月後
彼の部屋で過ごす時間が増えていた。いつの間にか、彼女の荷物が洗面所に並び、冷蔵庫には彼女の好きな飲み物がストックされている。
「次はSUVにしようと思ってるんだ」
男はカタログをめくりながら言った。
「へえ」
興味なさそうに流し見していたが、ふとコンパクトカーのページに目を留める。
「この車、かわいいわね」
「気になるの?」
「まあ……女性受けはいいかもね。デザイン賞も取っているし」
軽く言っただけなのに、彼はすぐに顔を明るくした。
「じゃあ、それにする」
「え? SUVじゃなくて?」
「君がいいって言うなら、それが正解だよ」
言いながら嬉しそうにディーラーに電話をかける。
決断の早さに、彼女は一瞬戸惑う。
(……この人、本当に自分の意志はあるのかしら? 普通の人と少し感覚が違うのかしら?
それともただ、お坊ちゃんだからというだけ?)
けれど彼は満面の笑みで振り返り、こう言った。
「君が選んでくれたものなら、絶対に間違いないから」
その言葉に、彼女の心は微かに揺れた。
頼られることの快感と、責任の重さが、同時に押し寄せてくる。
■■■
季節が移ろい、二人は彼の部屋で共同生活をスタートさせていた。
駐車場には彼女が助言したコンパクトカーが見える。白いボディは今日も無垢に光を弾いていた。
ある週末デートの途中、何気なく入ったペットショップでのことだった。
食事に行く前の、ほんの立ち寄りのつもりだった。
「まぁ、かわいいわ」
彼女がビーグルの子犬を見てしゃがみ込む。
猫のコーナーを熱心に見ていたはずの彼が、無表情で近づいてきた。
「へぇ、かわいいね」
「でも犬って世話が大変なのよ。散歩も毎日しなきゃいけないし」
私、正直運動が苦手だから犬は――と言いかけたところに、
「じゃあ、この子にしよう」
彼の声が重なる。
「え? 今の話、聞いてた?」
彼女の声に棘が混じる。プライドの高い彼女は、自分の意見が無視されたように感じて、表情が硬くなった。
「大丈夫。僕が毎日散歩するから」
彼はそう言って、さらに付け加えた。
「君が『かわいい』って言った子だから。それだけで十分な理由になるよ」
彼女は一瞬、言葉を失った。
怒りが、妙な満足感に変わる。
店員を呼んで契約手続きを始める彼を見て、彼女はあ然としながらも、心のどこかで悪い気はしていなかった。
翌朝、本当に彼はリードを持って散歩に出た。
「君も一緒に行こうよ」
当然のように誘われ、運動嫌いな彼女は渋々付き合う。
ビーグルは通りの匂いに夢中で、急に走り出しては彼女の腕を引っ張る。
「ちょ、ちょっと待って……!」
汗をかきながら息を切らす彼女をよそに、彼は満足そうに笑っていた。
(……これは、さすがに付き合いきれないかも)
■■■
休日のカフェ。
落ち着いた照明の下、彼がタブレットを差し出してきた。
「新規事業の件、どう思う?」
画面には「初期投資:三億円」の文字が並んでいる。
「……三億円?」
カップを置き、眉をわずかに寄せた。
「大きすぎて現実味がないわね。正直、素人の私に意見をきくのはどうかと思うわ」
言葉は冷静でも、内心はひやりとする。
「君が『行くべきだ』と言ってくれれば、僕は迷わず動けるんだ」
真剣なまなざしがまっすぐに注がれる。
「……あなたは本当に、私の意見を重く受け取りすぎているんじゃない? そこまで信じられてしまうと……責任を感じるわ」
彼の沈黙が続き、わずかに不安そうに眉を動かすのを見て小さく息をついた。
「そうね……結局、決断を下すのはあなた自身だもの。ならば――進めてみたらいいんじゃないかしら」
そう告げると、彼はほっと笑みを浮かべる。
(やっぱり素直な人って付き合っていて楽だわ……)
そう思いながらも、彼女は心の奥で、少しずつ重くなっていく何かを感じていた。
内心、ドキドキして押しつぶされそうだった。
三億円。
自分の一言で、それが動く。
けれど、それを振り払うように彼女は甘いラテに口をつけた。
■■■
それから二ヶ月後
「見て、これ」
彼が嬉しそうにタブレットを差し出してきた。
画面には、売上グラフと「前年比150%達成」の文字。
「……え?」
「君が勧めてくれた事業、大成功だよ。投資額も三ヶ月で回収できた」
彼女の心臓が、ドクンと跳ねた。
「そう……良かったわね」
表面上は冷静を装ったが、頬が熱くなるのを感じた。
(私の判断が、正しかったんだ)
その夜、彼女は一人、鏡の前で自分の顔を見つめた。
頬が紅潮している。
心の奥で、何かが目覚めたような感覚があった。
■■■
それからというもの、彼は経営のことを次々と相談してくるようになった。
「この取引先、どう思う?」
「新しい部署を作るべきかな?」
「人事異動の件なんだけど……」
彼女は最初、慎重に答えていた。
けれど――。
半年後、彼が沈んだ顔で報告してくる。
「例の取引、やっぱり見送って正解だったよ。あの会社、倒産したんだ」
彼女の胸に、また熱いものが込み上げる。
さらに数ヶ月後
「君が推薦してくれた彼、本当に優秀だった。今期の売上、彼のおかげで伸びたよ」
(私が、彼の会社を動かしている)
けれど、彼女は気づいていなかった。
あの三億円の成功は、たまたま市場のタイミングが良かっただけだということを。
その後の「成功」も、偶然か、あるいは元々リスクの低い案件ばかりだったということを。
いつしか彼女の助言は、慎重さを失っていった。
「この案件は見送るべきね。リスクが高すぎるわ」
「人事? ああ、それなら彼を昇進させるべきよ。理由? 私がそう思うからよ」
「取引先を変えるべきだわ。今すぐに」
彼は何も疑わず、全てを受け入れた。
「わかった。じゃあそうするよ」
■■■
やがて親族たちが、彼女の存在に気づき始めた。
「最近の経営判断、誰の意見なんだ?」
「御曹司が自分で決めているわけがない。あの女だろう」
廊下で交わされる囁きが、彼の耳にも届く。
「親族たちが、君のことを良く思ってないみたいなんだ……」
「そう。でも、それはあなたが決めることでしょう?」
彼女は冷たく言い放った。
「……うん。そうだね」
彼は頷いたが、その表情には影が差していた。
彼女はそれに気づかなかった。
いや、気づいていても、もう止められなかった。
経営に口を出す快感は、もう彼女の中で抑えきれないほど大きくなっていた。
(私の判断が正しい。いつもそうだったもの)
あの三億円の成功体験が、彼女の中で絶対の自信に変わっていた。
■■■
男は御曹司。全てを彼女に決めさせ、そのたびに従ってきた。
「本当に頼りになって、優しい……」
最近は経営にまで口を出すようになった彼女は彼にとっては頼もしい。
反面、親族は反発し、抑えるのも一苦労だと感じながらマンションの前に戻る。
そのとき、見知らぬ男と目が合った。
キャップを脱ぎ、丁寧に会釈してくる。
「あなたがお付き合いされている彼女の情報を、購入しませんか?」
「……え?」
男は名刺を差し出した。
――探偵社。
続いて懐から小さな封筒を取り出し、目の前にかざす。
「ここに、今後のお付き合いに影響を及ぼす内容が入っています」
御曹司はごくりと喉を鳴らし、声をしぼり出した。
「……彼女のことは、何でも知りたい」
「では、報酬についてご相談を」
しかし、約束の週末、探偵は時間になっても姿を現さなかった。
代わりに、先日見せられた小さな封筒がポストに押し込まれていた。
ところどころ折り目がついている。
中には二枚の写真と、都内ホテルの領収書。
写真の中では、着飾った彼女と年上のスーツ姿の男が親密に笑い合い食事をしている。
二枚目では手を繋ぎ、夜道を歩いていた。
領収書には利用人数「2人」と宿泊日付がはっきりと記されている。
彼は震える指で写真と領収書を取り出した。
胸がざわつき、息がうまく入らない。
目の前がかすむほどの衝撃――けれど、その場で破り捨てることもできなかった。
(……今日彼女が帰ってきたら、ちゃんと聞こう。きっと事情があるはずだ。僕を裏切るなんて、そんなことは……)
彼の思考は"別れる"方向へ一度も触れない。
ただ、彼女を傷つけないように確かめなければと必死に言い訳を並べていく。
机の上には、探偵と交わした約束の額ぴったりの現金の入った封筒が置かれていた。
写真と領収書を封筒ごとその中へ突っ込み、蓋を閉じる。
見なかったことにすれば、彼女と笑い合う時間はまだ続く。
引き出しの奥へと封筒を押し込んだ。
しかし翌朝になっても、彼女は帰ってこなかった。
スマートフォンを握りしめ、着信履歴を何度もなぞる。メッセージは既読にもならず、昨日の昼過ぎに途切れたやり取りが画面に残っている。
いつもなら台所から聞こえるはずの食器の音も、甘い香水の残り香もない。
リビングのソファには彼女のカーディガンが投げ出されたまま。
そこに彼女が腰かけ、笑いながら「今日も疲れたね」と言ってくれる光景を思い浮かべるが、
想像すればするほど胸の奥に痛みが広がった。
彼は机の引き出しをそっと開ける。押し込められた秘密。触れる勇気はなかった。
ただ、彼女がふいに帰ってきたとき問い詰めないための口実を持っていたかった。
――彼女はきっと戻る。そうでなければ、自分は立っていられない。
駐車場には、白いコンパクトカーが静かに佇んでいた。
彼女がいない今、それはただの鉄の塊に見えた。
■■■
玄関先に叩きつけられた封筒は、重く湿っていた。
中を覗くと、赤黒い染みのついたイヤリングと、無理やりちぎられた写真の切れ端。
そこには彼女の頬の一部だけが写っていた。
親族の使いの男は「女はもう戻らない。潔く忘れろ」と冷たく言い残し、闇に消えた。
「う……っ」
御曹司は吐き気をこらえながら、それでも手の中の紙切れを手放せずにいた。
家のやり方は何度も目にしてきた。想像できなかったわけではない。
――怪我をしているだけかもしれない。まだ命までは……
自分が探してあげないと。
彼女は戻ってくる、そう信じたかった。
引き出しを開けると、探偵に渡すはずだった現金の入った大きな封筒が目に入る。
彼は震える手で、血なまぐさい証拠の入った小さな封筒をその中へ滑り込ませた。
――これは違う。彼女の不倫を示す証拠と、彼女が傷つけられた証拠。
二つは別のものだ。混ざってはいけない。
けれど、もし二つが重なってしまえば。もし境目が曖昧になってしまえば。
どちらが真実なのか、わからなくなる。
彼女が裏切ったのか。
それとも、彼女は被害者なのか。
判断しなくて済む。
彼はゆっくりと、二つの封筒を押し重ねた。
まるで、境界線を消すように。
(……僕が、何とかしなきゃ)
(彼女を探し出して、助けなきゃ)
(でも、もしあの写真が本当なら……)
(いや、違う。きっと何か事情があるんだ)
思考が堂々巡りをする。
結局、どちらの封も閉じることができなかった。
開けたままの二つの封筒を、そっと引き出しの奥へ押し込む。
現実を仕舞い込んだのではなく、ただ机の奥に置き去りにしただけだった。
彼の手は震えていた。




