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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
二 親子は三界の首枷と
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 横断歩道を渡れば、緑色のフェンスが見えてきた。小学校の門の前に、教師らしき誰かが立っている。背恰好からしておそらくバスに頭を下げていた教師だろうが、あの時はそこまでよく見ておらず、同一人物である確証はない。

「吉彰くん、玄冬高校で幽霊の噂って聞いたことある?」

「幽霊? 晴季が三年になってから現代文の時間に視てる、あの亡霊のことか?」

「うん。そういえば学校でそういう噂、聞いたことないなって」

「僕もそこまで詳しくはないんだが……」

 歩きながら、吉彰が思案するような顔になる。並んで歩く晴季と吉彰の横を、スピードを落とした車が通り過ぎていった。

 校舎の窓から教室を覗き込んでいるあの亡霊は、首が折れている。きっと彼女は高校で死んだのだろうと思っていたが、誰の口にもその話題が上ったことがない。制服からしてもう十年以上前なのだから誰も口にしなくて当然なのかもしれないが、本当に少しの痕跡もないような気がした。

 ただ、晴季が知らないだけという可能性もある。別に噂話には興味もないし、そういうお喋りを誰かとするわけでもない。

「聞いたことが、ないな。おっさんはどうだろ……知ってるかな」

「そっか。また今度誠一郎さんにも聞いてみるね」

 吉彰も聞いたことがないということは、本当に誰もが口にしていないのだろう。もう忘れ去られてしまったのか、それとも誰もが口を閉ざしてしまったのか。

「嘘つき嘘つきー。ゆーれーなんていないに決まってるだろ!」

「嘘じゃないし! 本当に見たんだから!」

 ばたばたとランドセルを背負った子どもが駆けていく。つきりと痛んだものを呑み込むようにして、晴季はすれ違う彼らを見送った。

「真っ白い幽霊! 溺れ死んだ幽霊だって! 校門をじっと見てたもん!」

 嘘じゃないと言い張る子どもの甲高い声が、晴季の耳を貫いていく。

 普通は、そんなものは視えないのだ。彼らはいつもひとつずれた世界にいて、誰の目にも映らない。ただ晴季は頭にサッカーボールがぶつかった衝撃で、視える世界がひとつずれてしまっただけで。

 あの子どもは、晴季と同じなのだろうか。それとも、嘘をついているのか。あるいは本当に、普通の人に見えている世界に幽霊が姿を現したのか。

「溺れ死んだ、幽霊」

 小学校の校門の前に立つ男性教師は、笑顔を浮かべて膝を折って、「先生さようなら」と口々に言う生徒たちへと挨拶を返している。随分と丁寧に生徒へ挨拶をする教師だった。

 年がどれくらいかは分からないが、おそらく三十代から四十代、それくらいだろう。人の良さそうな笑みを浮かべて挨拶をする姿は、まさに理想的な先生かもしれない。

 生徒たちがめいめい帰る方向に散って、校門の前にはその教師だけが取り残された。彼は近くにいた晴季と吉彰に笑顔で頭を下げて、それから校門の内側に入って門を閉める。

 門の向こう、背中が遠くなっていく。ここから先には誰も入ってはならないと、まるでその校門は外界と小学校とを隔絶しているようにも見える。

「予想はしてたけど、こうなるよな。関係者以外は入れなくなってるし」

「どうするの?」

「いいさ、今日はもう帰ろう。夕飯の準備もしないといけないし。周りだけぐるっと見てみるかな……それにしてもあの先生、どこかで見たような気がするんだが」

 校門の前を過ぎて、角を曲がる。花菖蒲公園の前の道路以上に、小学校脇の道路は車通りが少ない様子だった。その横を流れる用水路は幅が広く、道路とはそれほど古くなさそうな、白い防護柵で隔てられていた。

「どこかですれ違ったとか?」

「いや……」

 防護柵の前には「危険」「水路の近くで遊ばない」と書かれた、溺れる子どもの絵を描いた看板がひとつ。覗き込んだ用水路は、真ん中辺りがかなり深そうだった。

 ちょうど小学校の門から車が一台出てきて、のろのろと隣を通り過ぎていく。結局ぐるりと周囲を歩く間に見かけた車はその一台きりで、他の車は通らなかった。他に誰か歩いている人がいるわけでもなく、小学校の周囲は閑散としている。

 何もない。誰もいない。水路の水が走っていくけれど、本当にそれだけだ。影のようなものが視界の端で跳ねていたけれど、それもまたふっと消えてしまう。

 これは晴季にしか、視えていない景色。他の誰にも視えない、そういう景色だ。

「ねえ、吉彰くん。亡霊って、普通の人には視えない、よね?」

「そうだな」

 視えてしまう晴季の方が、おかしいのだ。晴季だって昔は、そんなものを視ることはなかった。ただ頭を強打したせいで視える世界はずれてしまって、本当ならば視えるはずもないものが視界の中にある。

 何かいるよと言ったところで、誰もそれを信じなかった。信じてくれた人は少なくて、だから晴季はだんだんと口を閉ざすことにしたのだ。

「少なくとも僕は、視たことはない」

 ならばあの子どもが見たという「真っ白い幽霊」とは何なのだろう。普通ならば視えないはずの幽霊が、本当に姿を現したとでも言うのだろうか。

 カメラのレンズも、ずれた世界を切り取ることはできない。

 そういう、ものなのに。

「人間ではないものをただの人間が視ようと思うのならば、何かひとつ、通すものは必要だ。ワキがいないのに、どうやって観客はシテを見るのか」

「何だっけ、それ……あ、お面のやつだ。能、だっけ?」

「正解」

 以前に聞いたことがあるような気がして、晴季は記憶の中から関連するものを引っ張り上げる。前にも吉彰から聞いていたが、どうにもうろ覚えだ。

 お面をかけているのが能楽、笑っているのが狂言、化粧をしているのが歌舞伎。それを前に言ったとき、吉彰は「それでいいよ」と笑っていた。

「能楽のシテ、つまり主役だと思ってくれたら良い。その主役は主に幽霊だ。怨霊、亡霊、呼び方は色々あるが、ともかく人ならざるものであることの方が圧倒的に多い。それは本来視えないものであって、けれど舞台の上にワキが立つことで、その目を通すことで、人はシテを見ることができる」

 普通は視えないものを、人はどのようにして視るのか。

 ワキとは、晴季のような存在だろうか。本来ならば視えないはずの世界をその目に映して、そしてその目で人は幽霊を――シテを、見る。

 普通。

 視えないのが、普通。視えてしまうことは、異常。この『普通』はきっと、呪詛などではない。この『普通』というものは、純然たる事実というものだ。誰かに確かめるまでもなく、晴季はそう言える。視える世界がずれてしまった自分は異常で、普通ではなくなったのだと。

 そうと分かっていたとて、どこかその『異常』ということばはずしりと重い。

「ワキは、脇役?」

「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。現代のテレビドラマとかで言う、脇役とは少し違うから。ワキは最初に出てきて、そして最後までずっと舞台の上にいるんだよ。ということはつまり、誰よりも重要な役割だろ?」

 一番最初に出てきて、そして、最後まで。その目は舞台を映すのか、その上に立つ幽霊を映すのか。

 足元で黒い影のようなものがころころと転がっていった。人間の形でもなければ、何かしらの動物の形でもない。ただこういうものは目を凝らしていると見えてくるもので、それはきっともう形を失った何かなのだと、晴季は思っている。

 子供たちは、何を視たのか。晴季と同じように、見えるはずのないものを視たのか。

 真っ白い幽霊はいるのだろうかと、視線を動かして辺りを見回してみた。けれど辺りには何もなく、目を凝らしても視えてくるのは黒くて丸い影がいくつか、それだけだった。

「分からないことだらけだな」

「うん、本当に」

 くるくると踊っている花菖蒲公園の亡霊に、まるで別人のような日下一志。それから何を示すのか分からない、『福子様』ということば。さらには、小学校の生徒が見たと言っていた真っ白い幽霊。

 誰かが嘘をついているというのならば、納得はできるのだろうか。けれど、どれかひとつが嘘だったところで、他の何もかもが解決するというわけではない。

「帰るか」

 今度こそ駐車場の方へと吉彰が足を向ける。晴季もそれに倣って、同じ方向へと足を向けた。

 小学校の周囲は、どこにも亡霊なんてものはいない。晴季の目にだけ映るものはなく、気温が少し下がるような感覚もなかった。

 けれどその視界の端に、何かが視えたような気がした。影が差したような、白い影があったような。けれどやはり気温はそのままで、何度まばたきをしてみても、晴季の目が何かを捉えることはない。

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