三
亡霊は女性を見送って、しばらくその背中を見ていたと思えば、また花束の山のところへと戻っていく。そして人差し指を出して、ピンク色の花だけを数えて、そしてくるくると踊っている。晴季と吉彰が置いた、真新しい花を喜んでいるかのように。
「……いるのか」
晴季の視線の先を確認したのか、吉彰がぽつりとそんなことを言った。
少女は楽しそうに踊っている。ただひたすらに、どこまでも楽しそうに。沈んだはずの池のほとりで、笑顔を浮かべながら。
「いるよ」
「どんな様子だ?」
楽しそうにくるくると、彼女は踊り続ける。
やはり彼女のことは、晴季は理解できそうにない。どうして笑っていられるのだろう、どうして楽しそうにしていられるのだろう。彼女は自分が死んだということを、果たして理解できているのだろうか。
その声は、聞こえない。晴季の耳は、亡霊の音を拾うことはない。
「……変わらず、楽しそうだよ」
「そう、か」
晴季が見ている方を、吉彰も見ているようだった。けれど吉彰の目には、彼女の姿は映らない。吉彰にはきっと、何もない花菖蒲公園の様子が見えているだけなのだ。
それでも彼は、晴季の言うことを疑わない。そこに亡霊がいるのだと晴季が言えば、「そうか」と、それだけのことばを返す。
「どう思う?」
「ええと、そう、だね。理解できない、かな」
玄冬高校の亡霊と、やはり比べてしまう。
高校三年生になってから、現代文の授業がある日は常に見る姿。誰かを探して教室の中をぐるりと見回して、チャイムが鳴ったら消えてしまう彼女。彼女はちっとも楽しそうにはしておらず、折れた首のままに何かを探す。
あれが、普通なのだろうか。けれど『普通』とは、何なのだろう。普通の人、普通の家庭、普通の、普通の――ああまるで、呪詛のようにすら聞こえてしまう。
紺色のワンピースは、沢野宇月の生前の姿なのだろうか。増える花を喜んで、くまのぬいぐるみに手を伸ばして、そして、踊る。今日はどうだろうと携帯電話のカメラを向け、ボタンを押す。かしゃりと音を立てて撮影した写真に、やはり彼女はいない。
「理解に苦しむ、か」
「うん……日下くんの言うことが本当なら、なおさら」
日下一志のことばを信じるか、信じないか。吉彰はそのことばを紡いだ日下一志の顔から、そのことばを信じたのだと言う。晴季には日下一志という少年を知らず、彼を信じるかどうかの材料はない。
けれど、吉彰を信じるか信じないかであれば、晴季は「信じる」と即答するのだ。
「沢野宇月の母親が言っていたことで、気にかかることがふたつある」
池のほとりで、花菖蒲が風に揺れていた。アメンボは風など気にすることもなく、ついついと池の上を走っていく。
「気にかかること?」
「……僕の知る日下一志と、あの人が言っていた日下一志が、あまりに違う」
沢野宇月の母は、日下一志のことを何と称しただろうか――そう、『泥だらけでよく笑う元気な子』と、そう称していた。
サッカーボールの話で自分の頭にぶつかったものもサッカーボールであったことを思い出し、晴季はそっと自分の後頭部の右側に手を添えた。
「僕が日下君の家庭教師をすることになった経緯を、晴季は覚えてるか?」
「経緯……あ、ええと。赤砂さんの紹介だったよね」
「そうだ。赤砂さんの塾に来たものの、外にあまり出られないから辞めてしまった。学校を休むのは構わないが、勉強が遅れてしまうのは困る。そう日下一志の両親から相談を受けた赤砂さんが、僕に話を持ってきた」
三月。
話題に上った赤砂依織が、誠一郎の家に姿を見せた。誠一郎の高校での同級生だという彼女には、晴季も誠一郎の家に居候するようになってから何度も会っている。
職業は、塾講師。そんな彼女が家庭教師をしないかと吉彰に持ちかけたのだったと、晴季は記憶を掘り起こした。大学生のアルバイトとして、家庭教師は珍しいものではないだろう。ただそこにある『どうして家庭教師を探したか』の部分が、今この場においては重要な部分だ。
「なんか、沢野さんのお母さんが言ってたのと、違うね?」
「ああ、違う」
泥だらけでサッカーボールを抱えて、よく笑っていた。
外に出られない。学校も休みがち。
それだけ聞いていると、別人のようである。同じ日下一志という少年のことであるはずなのに、彼を示すことばはまるで正反対だ。
「けれど彼女も、嘘をついているようには見えなかった。彼女が知る日下一志は小学校四年生の頃で、それから三年。もちろん三年で変化することはいくらでもある、彼は子どもなのだからおとな以上に。けれど――」
ざあざあと風が音を立てていた。彼女は今もまだすぐそこで、飽きもせずに花に触れては踊っている。そこに置かれたくまのぬいぐるみに手を伸ばして、けれどやはりその手にくまのぬいぐるみを取ることはできなくて、頬を膨らませる。
「泥だらけになってよく笑っていたサッカー少年が、一切笑うこともなく、そして家に篭もるようになる原因とは、何だ?」
日下一志は、サッカーもしなくなったのだろうか。
子どもの成長はあっという間だと、そんなことばもある。けれど日下一志のそれは、成長というよりも変化であり、その変化の方向としてはどこか違和感もあった。
「……いじめ、とか」
いじめられて学校に行けなくなることはある。その心に傷を負って、誰かと関わることもできなくなる。
晴季の出した予想に、吉彰が口元に手を当てた。考えるようなその姿のまま、吉彰は花束の山へと視線を動かした。
「その可能性もないとは言わないが、それならそういう説明は赤砂さんや僕にもあって然るべきだと思わないか。理由としてこれ以上に明白なものもないし、触れて良いのか悪いのかの判断はしなければならない」
実はこういうことがあって、と。
晴季は家庭教師に来てもらったことがないから想像にしかならないが、家に上がってもらって、そして勉強を教える役割だ。何かしら伝えておかなければならないことがあるのなら先に伝えておく、それが当然のことであるようにも思う。
「けれど僕は、彼がそうなった原因を、何も聞いてはいないんだ。別に知らなくとも勉強を教えることに支障はないし、構いはしないと言えばそうだが」
「でも、普通なら『どうしてそうなったか』は、伝えておくような気がする」
その理由がいじめであったのならば、被害者になったというものであったのならば、おそらくはそれを伝えるだろう。もしも不用意なことを言って、それを思い出させてしまうことは避けたいはずだ。
けれど日下一志について、吉彰はそういう事情は一切知らないという。親が言いたくなかったという可能性も捨てきれないが、それでも何の説明もしなかったというのは妙なことに思える。
説明をしないとすれば、どんな可能性があるだろう。言いたくないか、あるいは、親も知らないか。日下一志が理由について口を閉ざしてしまったのなら、誰もその理由を知る術はない。
「それからもうひとつ。彼女が最後に言ってたこと」
「最後……福子様?」
「そうだ」
福子様。
大事にしていたのに。
確かに沢野宇月の母親は、立ち去る前にそんなことを言っていた。ただ口をついて出ただけのことばだろうに、それはどうしてだかずしりと重く地面に落ちていった。あのことばの意味は、一体何だったのだろう。
「聞き覚えがあるような、ないような、変な感じだ」
「吉彰くんでも知らないことがあるんだね」
隣を見れば、吉彰はまだ口元に軽く握った手を当てていて、そして眉間に皺を寄せていた。何かを思い出そうとして、けれども思い出せない、そんな様子で。
「僕はただの学生だぞ」
「それはそうなんだけど」
それでも晴季よりは、知っていることが多いと思っている。たったの二年しか違わなくとも、吉彰は昔から晴季にとって年上のお兄さんだった。祖父の家に遊びに行くとそこにいる年上の親戚は、分からないことを聞けば教えてくれた。
ふくこさま。
そのことばをもう一度口の中で飴のように転がしてみた。さま、とついているということは、敬意なのか。なんだか神様のようなことばで、けれどもそれが何であるのか、晴季には見当もつかない。
「あ」
顔を上げたところで、彼女と視線がかちあった。ぱっと彼女は笑みを浮かべて、そうしてまた雑木林の方を人差し指で指し示す。
視線を向けても、やはりそこには雑木林があるだけだ。木々が静かに立ち並んで、見ただけでは何があるとも思えない。
「どうかしたのか」
「また、指差してる」
彼女の指し示す方向を晴季も示せば、彼女は手を叩いて喜んでいた。伝わったと、それからまた指を差して、それを上下にぶんぶんと振っている。まるで早く行けと言わんばかりのその仕草に、どうしたものかと吉彰を見た。
吉彰の眉間には、また皺が寄っている。雑木林から何かを見付けようとするように。
「雑木林だな」
「……何があるとも、思えないんだけど」
花菖蒲公園の一角である雑木林は、少しだけ薄暗い。本格的に夏になれば木陰で涼むために行く人もいるだろうが、今はほとんど人が訪れることもないだろう。
土の下から何か出てくるとでも、彼女は言いたいのだろうか。ぱくぱくと口を動かしている彼女の顔は、先ほどの嬉しそうな顔から打って変わって、晴季も吉彰も動かないことに不満げだ。
「行ってみても良いが、あまり勝手をするとおっさんに怒られそうだな」
「うん。釘差されてるもんね……」
首を突っ込むな、と、言われたわけではない。ただ首を突っ込むのならば責任を取るところまでしろと、誠一郎はそう言った。
今日こうして花菖蒲公園に来てしまったことは、「首を突っ込んだ」ということになるのだろうか。それとも「花を供えただけ」という言い訳は通るのだろうか。
「今日は帰ろう。何かあるのなら、刎木さんには伝えた方が良いんだろうけど」
地団太を踏むようにしている彼女には悪いことをしてるような気にはなる。けれどだからといって、亡霊の示す先に勝手には行けない。
もしもそこに、何かがあるのなら。たとえばもうひとつ白骨が埋まっているとかそんなことがあったのなら、どうして見付けたのかを晴季は説明ができなくなる。亡霊が教えてくれたんですと言ったところで、そんなものを普通、人は信じない。
だから、彼女に背を向けた。きっとまたふっと消えてしまうだろう彼女は、ここからどこかへ移動することはないのだろうか。
「吉彰くん、車?」
「車だよ。乗って帰るだろ」
「うん。乗せてくれるなら嬉しい。帰りのバス代浮くから。ありがとう、吉彰くん」
散策道の両脇を、花菖蒲が彩っている。花の盛りは一年の中でたったの二ヶ月ほどの短い期間、そうでない時期には人も減ってしまう。
沢野宇月が行方不明になったのは、いつだっただろうか。五月の終わりから六月の半ばでなければ、誰も彼女が溺れたことに気付かなかったのも頷ける。
ひとをころしたと、日下一志は言った。
沢野宇月が行方不明になるより前、畑凪咲という少女が溺れて死んだ。
どうしてあの亡霊は、楽しそうにくるくると踊っているのだろうか。自分が死んだことすらも、理解していないかのように。
「そういえば」
花菖蒲公園を出て駐車場へ向かうところで、吉彰が足を止めた。南に向かえば国道に繋がる道は、朝夕以外はそれほど交通量は多くない。
「日下君たちが通っていた小学校は、すぐそこだな」
「そうなの? あ、でも、そっか。小学生がわざわざ遠くの公園まで行かないよね」
授業の時間は終わっている。日は傾いてきていて、クラブ活動をしている子どもたちの下校時刻はそろそろだろうか。
「寄っても良いか?」
「いいけど、どうかしたの?」
「誰か何か知ってるかもしれないからな。聞いたところで教えて貰えるかは分からないけど、噂くらい拾えたら良いなと」
行方不明から、三年。まだ三年と言うべきか、もう三年と言うべきか、それは晴季には分からない。けれど三年ならば、まだ沢野宇月たちを知る教師が小学校に残っていてもおかしくはない。
そして、きっと小学校の中に噂はある。たった三年で人の記憶が薄れるはずもなく、ましてつい最近白骨死体が見つかったともなれば、人々はかつて行方不明になった沢野宇月の記憶を蘇らせたことだろう。