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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
二 親子は三界の首枷と
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 ああ、今日も見ている。

 少し重たい頭のままに晴季が窓の外を見れば、今日も彼女が教室を覗き込んでいた。古い形の制服に折れた首、何かを探すように教室を見回す視線。彼女にあるのは恨みか憎しみか、それとも他の感情なのか。

 けれど、そこには花菖蒲公園にいた彼女のような、楽し気なものはどこにもない。

 日下一志のことばを信じるのならば、その相手を沢野宇月とするのならば、彼女は彼に殺されたことになる。けれど殺されたのならば、やはりあの楽し気な姿が理解できない。まして白骨死体が見つかったのは花菖蒲公園、つまり沢野宇月が死んだ――あるいは殺された場所だ。

 窓の外の彼女と視線が合いそうになって、晴季はそっと黒板の方に視線を移す。黒板に書かれた白い文字は、エリスの発狂。

 きんこんかんこんとチャイムが鳴った。一時間目の現代文の終わりを告げるチャイムの音と共に窓の方を伺えば、窓の外の彼女はもうそこにはいなかった。そして彼女は、二時間目の数学の時間も、三時間目の英語の時間も、四時間目の化学の時間も、その後も、姿を見せることは一切ない。

 現代文の時間だけ姿を見せる彼女は、何を探しているのだろう。今までぼんやりと見ていた窓の外にいる彼女の方が、亡霊の姿としてはしっくりくるのは確かだった。沢野宇月と思しきあの亡霊は、どうしてあんな風に楽しそうに踊っているか。

 誠一郎は「面白半分に首を突っ込むな」と言っていたけれど、どうしても晴季の頭の中にはあの姿がこびりついて離れないでいる。

 忘れてしまえば良いのかもしれないが、それも難しい。やはり花菖蒲公園の彼女は晴季が今まで目にしてきた亡霊の中でも異質すぎて、理解に苦しむばかりだ。

 だから、だろうか。結局晴季は今日も、駅とは反対方向のバスに乗ってしまった。同じ路線バスの同じ停留所で降りて、そしてまた、花菖蒲公園へ。ただひとつだけ違うのは、バスに乗る前に花屋に寄った。

 池のほとりで、花菖蒲が咲いている。池の間を縫うような散策道を、老夫婦がゆったりと二人で歩調を合わせて歩いていた。ふと見た散策道の隣、透き通った水の中で青く輝く魚が泳いでいる。足を止めてまじまじと見ていても、魚たちは人に慣れているのか逃げようともしないで悠々と水中を泳ぎ回っていた。

 あちらこちらに、水がある。花菖蒲は、本当のことを知っているのだろうか。沢野宇月はここで死んだのか、誰かに彼女は殺されたのか、それとも事故か。そして、どうして彼女は楽しそうに踊っているのか。

 誠一郎の「首を突っ込むな」ということばが頭の中で反響する。彼の言う「責任を取るところまで」というのがどういうことなのか、きっとその答えが分からないのならば晴季は本当に首を突っ込むべきではないのだ。

 けれど――それでも。

 かさりと、右手に持った切り花の包みが音を立てる。本当は故人への花は百合の方が良いのかもしれないが、なんとなく彼女は百合よりも小さな薔薇の方が良い気がして、晴季はピンクと白のミニバラを選んで包んでもらった。

 彼女のことが気にならないと言ってしまえば、嘘になる。吉彰が日下一志から聞いたという告白がなければ、あるいは玄冬高校にいる亡霊を知らなければ、晴季が亡霊を視ることがなければ、こんな風に気になることはなかっただろう。

 そんな風に考えてしまうのは、言い訳じみている。誠一郎のことばに対して反抗するかのように今日も花菖蒲公園に来てしまった、そのことへの。

「あ……」

 今日も、花が積まれている。

 白骨死体が見つかってからまだ日が浅いからか、いくつもの花がそこにはある。風に吹かれてフィルムがかさかさと音を立てて、まだ瑞々しい葉を揺らしていく。けれど積み上げられて潰された下の方には、枯れたような茶色も覗いていた。

 くまのぬいぐるみも、風に吹かれている。いつか祖父の葬儀で見た祭壇にも似た花々の前に、髪に白いものが混ざった女性が腰を屈めて花に触れている。白い指先が白い花から離れて、そして彼女は背を向けた。

「あら」

「こ、こんにちは」

「こんにちは、学生さんかしら。宇月に会いに来てくださったの?」

「ええ、その……ニュースを、見たので。お花はこちらで、よろしいでしょうか」

 少し低い、穏やかな声だった。微笑めば目じりの皺も深くなって、積み重ねた彼女の年月を如実に伝えてくる。ただその(まなじり)は少し赤く、頬には涙が伝ったような跡があった。

「まあそんな、お花まで? ありがとうございます。白いお花、嬉しいわ」

 花を置こうとしたところで、ふっと周囲の温度が少し下がった気がした。半透明の手が晴季の後ろから伸びてきて、ピンクのミニバラの花びらを撫でている。

「……どうか、なさったの?」

「あ、いえ……その。水の中に沈んだという、彼女のことを少し、考えてしまって」

 動きを止めた晴季を訝しんだのか、女性が困惑したように声をかけてきた。

 決してこのことばは嘘ではないのだと、自分に言い聞かせる。沢野宇月は花菖蒲公園の池から見付かった。つまり彼女は、ここに沈んだ。

「そう、なの……」

 ことばの終わりには、嗚咽(おえつ)が混じっていた。

「あの、失礼ですが、その」

 ぼろぼろと女性の頬を涙が伝っていく。白いハンカチで頬を押さえた彼女の涙は、押さえても押さえても止まりそうにはなかった。

 その隣で、少女が女性の顔を不思議そうに覗き込んでいた。どうしたのとでも聞くかのように、どこか痛いのかとでも問うかのように。そっとその隣に寄り添うようにしている彼女の姿を、女性の目が捉えることは絶対にない。

 ひとつ世界がずれてしまえば、晴季のように本来は見えないものを視ることもある。けれどそれは晴季がおかしいだけで、視えないことが当たり前なのだ。

「沢野宇月さんの、お母様、でしょうか」

「ええ、そうよ……」

 ざあっと風が吹き抜けていく。池の上を風が波立たせ、その上をついついとアメンボが平然と走っていった。

 女性に何と声をかけていいのか分からず、晴季は下唇を噛んだ。ぼろぼろと泣き続ける沢野宇月の母親に、何を言ってもことばが上滑りしてしまうように思えてしまう。きっと晴季が何を言ったところで、そのことばはひどく軽いのだ。

 ぎゅうっと胸の奥を手で掴まれるような心地がした。女性の顔を覗き込んでいた彼女は困ったように眉を下げて、首を傾げている。

 風の音だけが聞こえる仲で、ざりりと背後で砂を踏むような足音が聞こえた。

「晴季?」

「あ」

 聞き慣れた声に、晴季は振り返る。

「吉彰くん」

 白とピンクと黄色の花を集めた花束を両手で持った吉彰が、そこに立っている。吉彰は晴季のいるところに歩み寄ってきて、花束を置かれている花々の上へと積んだ。

 そして彼は、沢野宇月の母に頭を下げた。

「お知り合い?」

「従兄、みたいなものです」

 実際には吉彰は従兄ではなく、祖父の兄弟の孫である。確かそれはハトコだかそんな名前だったとは思うのだが、その辺りのことは晴季はうろ覚えだ。他人だってハトコと言われてもよく分からないだろうから、「従兄みたいなもの」という説明で十分だろう。

 ハンカチで涙を拭いた女性が、なんとか笑みを作った。

「貴方も、宇月に花を?」

「はい。実は家庭教師をしている生徒が沢野宇月さんのクラスメイトだったと聞いたものですから、一度お花を、と」

 吉彰のこれは、建前なのだろうか。それとも本当なのだろうか。

「そうでしたの」

「日下一志君、ご存知ですか?」

「日下君? ええ、知っているわ。宇月にも、凪咲(なぎさ)ちゃんにも良くしてくれてた男の子」

 沢野宇月の母が知っているということは、日下一志は沢野宇月と親しかったということなのだろう。もしも日下一志が本当に沢野宇月を殺していたとしたら、彼は親しかった相手を殺したということになる。

 ひとつまばたきをした彼女は、どこか懐かしむような顔になる。

 娘が行方不明になって、そして白骨死体となって発見されるまで。その間に、娘のクラスメイトやその保護者とは疎遠になったのだろうか。そんな詮無いことばかりが、晴季の中で浮かんでは消えていく。

「懐かしいわ、遊びに来てくれたこともあったのよ。サッカーボールを抱えて、泥だらけで、よく笑う元気な子だったわ。今頃中学生……そうよね、もう中学生なのよね……。あの子はサッカー部に入って、活躍しているのかしら……」

 女性のそのことばに、吉彰が少し考え込むような顔になる。ただ彼は何かを言うことはなく、唇を引き結んでいた。

「凪咲ちゃんも宇月も、中学生になれなかったものね……」

 先ほども紡いだ誰かの名前を、女性は再び口にする。晴季がその名前に対する疑問を口にするよりも前に、吉彰が口を開いた。

「凪咲ちゃん……?」

「あ、そうね……ごめんなさい。(はた)凪咲ちゃん。宇月のお友達だったのよ。もう、亡くなっているのだけれど。その……宇月が行方不明になる、一週間くらい前、に、事故で」

 また、嗚咽が混じっていく。その頬を伝って、涙が落ちていく。

 沢野宇月が行方不明になる前に、事故で。クラスメイトなのだろう、きっとその畑凪咲という少女もそのとき小学生だった。

「あの子……凪咲ちゃんが溺れたの、あれだけショックを受けていたのに……水辺には気を付けなさいって、何度も言ったのに……それに、もう公園には行かないって……」

 畑凪咲は、溺れた。

 沢野宇月も、同じように溺れたのか。

「みんなで、必死に探したのよ……先生なんて、用水路に入って、びしょ濡れで」

 おそらく誰もが、それを疑ったのだろう。けれど彼女は今に至るまで、白い骨になるまで、誰にも見付けられなかった。

 きっと、ずっと、冷たい水の底。彼女は沈み、そして三年もの間、浮かんでくることはなかったのだ。

「あ、ご、ごめんなさいね。駄目ね、思い出してしまって」

「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」

 池は今日も静かに水を湛えている。そこに沈んだものも、浮かんだものも、なかったかのように。

 それでもこの場所に、骨があったのだ。沢野宇月の、白い骨が。花菖蒲が咲き誇る池の中に、確かに沈んでいたのだ。

()()()――。大事に、していたのに」

 頭を下げて再び謝罪を口にして、そして彼女は「そろそろ帰りますね」と告げて去っていく。風の吹く中で去っていく女性の背中は、どうしてだかひどく小さく見えた。

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