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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
二 親子は三界の首枷と
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 くるくると踊る、彼女の夢を見た。どうして笑っているのと問いかけたところで、晴季の声は届かない。彼女が何かを言っていて、それも晴季には伝わらない。

 ただただ互いに一方通行のことばたち。どうしてと問いかけたところで、彼女の答えはどこにもない。彼女の口がぱくぱくと動いても、晴季に伝わるものは何もない。

 そしてまた、目を覚ます。どこかじんわりとした頭の痛みと、水中から上がったときのような気怠さだけを、残したまま。

 そんな夜だったせいだろうか。いつも通りに制服を着て、鏡で見た自分の姿はいつも通りだったはずなのに。

「え?」

「だから、ひどい顔をしている」

 朝食をテーブルに並べ終えた吉彰が晴季を見て開口一番、「ひどい顔だ」と言った。思わず聞き返せば、彼は同じことを繰り返す。

 誠一郎の姿は、まだなかった。二階はしんと静まり返っていたから、まだ眠っているのかもしれない。

「そ、そうかな……」

 ぺたりと自分の頬に手を当ててみたものの、そのひどい顔というものはやはり晴季には分からなかった。体温も、柔らかさも、きっといつも通り。朝もきちんと顔は洗ったし、顔色が悪かったつもりもない。

 それでも、吉彰にはひどい顔に見えているのだろう。近付いてきて晴季の顔をじっと覗き込んで、深々と溜息をひとつ。そして吉彰はゆるりと首を横に振った。

「休むか?」

「え?」

 思わず目の前にある吉彰の顔を、晴季はまじまじと見てしまった。

 その顔の中に、揶揄(からか)うような色はない。疑うつもりはなかったが、やはり吉彰には晴季の顔がひどい顔に見えていて、本気で心配しているのだろう。

 しばしそのまま固まって静まり返ったリビングに、足音と、次いで「くあ」という気の抜けるような欠伸の音が響く。すっかり動きを忘れていた体を動かして静寂を打ち壊した犯人を見れば、寝ぐせもそのまま、パジャマを着替えてすらいない誠一郎が立っていた。

「おはよう二人とも。え、何、スミヨシ、何してるの」

 見ようによっては奇妙な状況だっただろうか。誠一郎の問いに吉彰は「何でもない」とだけ返事をして、今度は軽い溜息を吐いて晴季から離れていく。

「おはようおっさん……あのさ、せめて顔洗って髭剃るくらいはしたら?」

「後でするよ。スミヨシ、俺のコーヒー」

「それくらい自分で淹れろよ。普段何もしないくせに」

 文句を言いながらも、吉彰はコーヒーマシンの横に置いてあった誠一郎のマグカップを手に取っている。

「それがお前がこの家に居候する条件でしょ」

「はいはい」

「なんだその言葉遣いは、『はい』は一回! って、親父なら言うね」

「おっさんは言わないだろ」

 どうしたものかと考えたが、テーブルにはもう朝食が並んでいる。だから晴季は自分の席に座ることにした。

 誠一郎のことばを考えて、つい苦笑してしまう。今は亡き祖父の声でありありと脳内で再生されてしまい、まだ声を覚えているものなのだなと、そんなことを思った。人間は亡き人の声や匂いから忘れていくと聞いたことがあるけれど、こうして思い出せるということは晴季の中にある祖父の記憶は薄れていないのだ。

「おじいちゃんなら言いそう」

「だろ」

 目の前には白飯と味噌汁。それから目玉焼きに、茹でたブロッコリーとウインナーが白い皿の上に並んでいる。赤茶色の味噌汁の中から見え隠れしているのは、玉ねぎと茄子と厚揚げだった。

 晴季の席と吉彰の席には同じものが並んでいるが、誠一郎のところにだけは白飯と味噌汁の代わりに小さめのクロワッサンが二つ。それから、目玉焼きの皿もない。

「で、結局何してたの、お前」

「晴季がひどい顔をしてたから、学校休むか確認してた」

 リビングに、コーヒーの香りが漂った。欠伸をひとつ噛み殺してから席に着いた誠一郎の前に、吉彰がことりとマグカップを置く。

 黒い液体が、白いマグカップの中で揺れていた。

「ひどい顔?」

 晴季の顔を覗き込んだ誠一郎の顔には、伸びてきた髭がある。ぱっと見て分かるくらいなのだから、なるほどこれは吉彰に苦言を呈されるわけだ。

 なんとなくばつが悪いような気持ちになって、晴季は無言で箸で摘まんでいた白飯を口に放り込む。誠一郎から目を逸らしてもぐもぐと口を動かしていると、苦笑が晴季の耳に届いた。

「本当だ。ハレ、寝不足ですって顔してる」

「え」

 ごくりとまだ咀嚼しかけだった白飯を飲み込んで、誠一郎の方を見てしまう。想定よりも大きいままの白飯の塊を何とか胃の方へと追いやってから、晴季は一度箸を置いた。

「寝不足……」

 別に、眠るのが遅かったわけではない。いつも通りの時間にはベッドに潜り込んで、そして眠った。目が覚めたのもいつも通りで、特別早起きをしたわけでもない。

 ただ、夢見が悪かっただけ。それだけのことなのに。

「お前ね、言い方が悪い。ひどい顔ってだけじゃ伝わらないだろ」

「僕はそう思ったんだ」

 かたんと小さな音を立てて、吉彰もまた席に着く。「いただきます」と手を合わせたところまでは普通だったのに、吉彰はいざ食事をしようとすると一層背中が丸くなる。

「夜更かしでもした?」

「ううん、そういうのじゃないけど。ちょっと、夢見が悪くて」

「ふうん?」

 寝不足と言われて思い当たるのは、それくらいだった。眠りが浅かったというのが主な原因だろう水中から出たときのような気怠さは、まだ晴季の中に残っている。

「それなら別に学校休むほどでもないよ。スミヨシ、過保護かお前は。知ってたけど」

「うるさいよ、おっさん」

 もそもそとした動きで目の前の皿から目玉焼きを義務感のように運び入れる吉彰の姿は、やはりひどく不味いものを食べているかのようだ。

 白飯の上に目玉焼きをのせて、机の上に置かれていた醤油をひと回し。黄身を箸で割れば程よい半熟で、とろりと黄色が溢れてきた。

「まあ、ふたりとも遅刻とか居眠りしないように」

「分かってるよ」

「俺は今日も引きこもりだよ……」

「それはおっさんの仕事が終わってないからだろ」

 クロワッサンを割いて一口のサイズにした誠一郎が、小さく開けた口にクロワッサンを放り込む。

「これはあげないよ、ハレ! 駅前の美味しいやつだから!」

「別に欲しくて見てたんじゃないけど……」

 誠一郎はクロワッサンを小さくしながら、あっという間にふたつを食べきってしまう。それからコーヒーに口をつけて、満足げに笑っていた。

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