表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
四 それは首枷かあるいは宝か
19/50

 吉彰くんの様子がおかしい。

 リビングでコーヒーを飲んでいる誠一郎に晴季がそれを伝えたのは、何か他意があったわけでもない。ただ本当にそう思ったから、そのまま伝えたというだけのこと。

 ふらふらと歩いている吉彰は、明らかに寝不足だろう。晴季が声をかけても気付かないことはあるし、昨日の夕飯の味は塩が多すぎるのかやけにしょっぱかった。誠一郎も同じように同じものを食べたのだから、当然そのおかしさには気付いていたのだろう。晴季のことばに彼は少し難しい顔をしていた。いや、難しい顔というより、厳しい顔というのが正しいだろうか。

「釘差したのになあ、まったく。良いよ、ハレは気にしなくて」

「え、でも……」

 今回のことは、晴季に原因がないとは思えなかった。日下一志の話を聞いて、白骨死体の話を聞いて、そして花菖蒲公園を見にいったのは晴季なのだ。そこで亡霊を視て、彼女のことを吉彰に伝えたのも晴季だ。

 吉彰のおかしな様子がそれに起因しているのであれば、伝えた晴季にも責任はある。

「寝不足なんだよ、あの馬鹿。昨日も三時くらいまで部屋の電気点いてたからね。自業自得……と言いたいところだけど、俺のせいでもあるだろうし」

「私のせいもあると思うんだけど……」

「いや? ハレはハレの気になることを調べただけだろ? だからお前のせいじゃないよ」

 誠一郎はそう言うものの、やはり納得はできなかった。

 白いシャツに黒いスラックス姿の誠一郎は、今日もシャツの裾が片側だけはみ出している。くあ、と欠伸をした拍子に、どうしてか今日はかけている眼鏡がずれた。

「今日の晩御飯も不味かったら文句言ってやる。俺は辛いのは好きじゃないんだ」

 眼鏡を直しながら言う誠一郎に、晴季は少しだけ笑う。やはり昨日の夕食はしょっぱいと、誠一郎も思っていたのだ。

「じゃあ自分で作れって言われると思うんだけど」

「家事全般するのが居候の条件なんだから、そんなこと言ったらスミヨシが約束を守れないことになるから、あいつは言わないよ」

 それに対しては何を言えばいいのか分からず、晴季は曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。黙り込んでしまった晴季をどう思ったのかは分からないが、誠一郎は話題を変えるかのようにぽんと軽く手を叩く。

「あ、そうだ。ちょっとついておいで、ハレ」

「え?」

「いいからいいから。ほら、こっち」

 行くとも行かないとも晴季が言わない間に、誠一郎は立ち上がって背を向けてしまう。コーヒーを飲んだマグカップはテーブルの上に置きっぱなしで、これは吉彰が帰ってきたら文句を言われてしまうのではないだろうか。

 そう思いながらも、晴季は結局誠一郎の背中を追いかけた。彼の向かった先は一階の一番奥の部屋、ピアノが置いてある防音室だった。

「スミヨシが言ってた『天鼓』の話で、思い出したことがあるんだよ」

 ずらりと並んだ楽譜の背表紙を、誠一郎の指先が辿っていく。何かを探すようにしていた指先はある一冊のところで止まり、少しの躊躇いの後に楽譜は引き抜かれた。

「俺はそっちは全然詳しくないんだけどさ」

 ぱんと楽譜の表紙を軽く叩き、誠一郎は譜面台に楽譜を置いて開いた。晴季も一応楽譜は読めるしピアノを習っていたことはあるが、その譜面を見ただけで弾きなさいと言われたらそれは不可能だ。晴季が弾けるピアノ曲など、『きらきら星』がせいぜいだ。

 誠一郎が椅子に腰かけて、ぽーんと鍵盤をひとつ叩く。そして彼はすっと表情を引き締めて、楽譜のものだろう曲を弾き始めた。それは先日、誠一郎が依織の前で弾いていた曲と同じ。晴季も聞いたことはあるが、やはりタイトルは分からないままだ。

「ハレはこの曲、俺が弾いてる以外で聞いたことはあるだろ?」

「うん。タイトルは……知らないんだけど」

 途中で手を止めた誠一郎が、とんと指先でタイトルらしきところを示す。

「通称を『パッヘルベルのカノン』と言って……ええと、正式名称は何だったかな。ああそうだそうだ、『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグニ長調』だな」

「パッヘルベルのカノン……」

「作者の名前も、タイトルも知らない。でも曲は知っている。第九とか運命とかは有名だけど、そうじゃないものっていくらでもあるだろ?」

 クラシックをコンサートなどで聞くことは滅多にない。けれど街中で、あるいは家のテレビで、そういうところで使われている曲がある。誠一郎の言った第九や運命は確かにタイトルを言われれば曲が思い浮かぶくらいのものではあるが、そういうものは稀だ。

 古いものが生き残らないかといえば、そうではない。たとえその曲のタイトルも作者も知らずとも、そうして残っていくものがある。その時代の誰かが、同じ『人間』が良いと思ったものだから、それらはきっと今でも残っているのだ。

「スミヨシが能楽に傾倒してるのは、そこにあいつが『人間』を見出したからなんだろうな。俺には良く分からないけど」

 ぽーんと、誠一郎の指先が鍵盤を叩く。

 古い時代においても、そこにいたのは同じ人間だ。古い時代から現代にかけて、人間の感情の種類が変化したわけではない。

「誠一郎さんは、ピアノ?」

「俺のこれは別に何も。ピアニストになりたいと思ったことはあったけど、自分には無理だと思い直したし」

 ピアノの良し悪しを、晴季が分かるわけではない。それでも晴季は誠一郎のピアノの音色は優しくて、好きだなと思うのだ。

 どうしたらピアニストになれるかだとか、そういうことは知らない。そもそもどうなったらピアニストを名乗れるのかも分からない。音楽の大学に行くことなのか、何かのコンクールで受賞をするのか、そういう風にすればなれるのだろうか。

「俺は、誰かに追従はできない。誰かの意思に従って、何かはできない」

「追従?」

 誠一郎のことばの意味を考えようとして、晴季はつい同じことばを繰り返した。

「俺の今の仕事も、あるときとないときはあるけど、音楽家なんてものはもっと大変だ。芸術なんてもの、即座に金になるわけじゃない」

 彼の言う「俺の今の仕事」というのは、翻訳の仕事だ。詳しいことを晴季は聞いていないが、仕事をしているときとしていないときは確かにあって、毎日会社に行ってという仕事とは違っている。

 音楽家のようないわゆる芸術家と呼ばれる仕事も、確かに月々の給料があってと、そういうものでないのは分かる。絵であればそれが売れるとか、展覧会をするとか、依頼を引き受けるとか、そういう風にして金銭を受け取るものだろう。

 自分が何かを作りました。それがすぐにお金になります。そんな人が、一体どれほどいるのだろうか。

「パトロン、というやつがあるだろ? 過去芸術家というのは、誰かが認め、そして支援者となってくれなければ生きていけなかったわけだ」

 吉彰の言っていた能楽も、そうだろう。観阿弥と世阿弥は足利義満という後ろ盾を得たからこそ、その芸能を成立させた。あの時代にもしも後ろ盾を得なかったとすれば、きっと今の時代にまで能楽が遺ってはいない。

 芸術がそのまま金にならない以上、誰かに支援してもらうしかない。そうして価値を高めていけば、芸術にお金を払う人は増えていく。あるいは、その単価を高くしても納得されるものになる。

 きっと、そういうものなのだ。これは晴季の浅慮なのかもしれないけれど。

「しかも支援者が望めばそこで腕前を披露しなければならなくて、そこで下手くそとでも評価されれば、支援者も諸共に評判が落ちる」

「そういうもの?」

「そういうものだ。俺はそんなのはお断りだね」

 確かに支援者が望むのならば、その通りにしなければならない。そして、支援者の名前に、顔に、泥を塗ってはならないだろう。

 それはなんだか、どこか自由な響きのある芸術家を、縛り付けるものであるようにも思えた。芸術家というのはむしろ、そういうものを嫌うように思っていた。これは現代人の感覚であって、過去は違ったということなのか。あるいは現代でも、そこは変わっていないものなのだろうか。

「もっとも芸術家なんて、なりたくともそうそうなれるものじゃないけど」

 本屋に行けば、本が売られている。

 美術館に行けば、絵が飾られている。

 コンサートホールに行けば、音楽のコンサートがある。

 どういう人を芸術家と呼ぶのかは人それぞれだが、この人は芸術家ですと誰もに認められている人はどれほどいるのか。

「今の芸術家はそこまで権力者におもねる必要はないんだろう。むしろ表現の自由とか言いながら、好き勝手やっているのもいる。それが良いとか正しいとは、俺は言わないが」

 誰かが写真を燃やしていた。誰かが絵を踏みつけていた。

 これが芸術ですと言うのならば、その人にとってそれは芸術なのだろう。誰かにとって不愉快なものでも、これは表現の自由ですと言うのかもしれない。

 晴季はそれにどう判断を下せばいいのか、まだ分からない。誠一郎は「良いことや正しいこととは言わない」と言うが、それも誰もに共通する答えというわけではない。

「昔の芸術家は、権力者におもねらなければ、生きていけなかった。そんなことを俺は、スミヨシの『天鼓』の話で思い出したよ」

 天鼓は皇帝の命令に逆らい、そして殺されて沈められた。その鼓は取り上げられて、皇帝のいる宮殿に飾られた。

「権力者に、おもねる……」

「後ろ盾があって初めて成立していたのが芸術だ。でも、気に入られるというやつは、残酷なことでもある」

「……不興を買ったら、捨てられてしまうから?」

「そういうこと」

 権力者に気に入られたから、生きていける。ただその芸術家にとって確かなものは「気に入っている」という何とも不確かな感情だけで、ともすれば消えてしまいかねないものだろう。

 もしも不興を買ったのならば、もう支援を打ち切ると言われてしまったのならば。もうその日から、きっと芸術家は生きていけなかった。

「その権力者が間違っていると思っても、それを指摘しようものなら自分が死ぬ。ならばその権力者に迎合して、称賛するしかない。権力者は簡単に、人を潰すから」

 その心の中で何を思っていたとしても、表面上は従わなければならない。

 自由を叫ぶ芸術家をテレビで見たことがあるが、では彼らはそういうことができるのだろうか。どうしてもしなければならないとなったときに、その心をどうやって殺すのか。

 心を殺すという考えに、ふっと『天鼓』が浮かんで消える。恨むべきではない皇帝を恨み、けれどその恨み言を口にできるはずもなく、王伯という年老いた父はその心を殺したということなのだろうか。

「パッヘルベルのカノンを作曲したのは、ヨハン・パッヘルベル。彼の作る曲は生前から人気が高くてね、弟子も多かった。彼は成功した音楽家のひとりだと言えるんだろう」

 その名前を、晴季は知らない。ただその曲を知っているだけで。

 けれどこの時代にまでその曲が遺っているということは、確かに誠一郎の言う通り「成功した音楽家」ということになるのだろう。ベートーヴェンとかモーツァルトとか、晴季でも名前を知っている音楽家ではないというだけで。

「彼の影響を受けた音楽家は多い。有名なところで言えば、バッハとか」

「あ、その人は私も知ってるよ」

「学校の音楽の時間に習う名前だろ? 音楽室に写真もあったりするし」

 けれどバッハについては、曲が思い出せなかった。つまりこれは、パッヘルベルとは逆の状態ということになる。

「彼らの生きた時代、彼らの作った曲は宗教曲も多い。権力者を讃える曲もある」

 当時の、ヨーロッパ。音楽の授業で聞いたのはドイツだとか、オーストリアだとか、そういう国だった。確かにそこはキリスト教の国であり、教会といえば讃美歌のような音楽はつきものである。聖歌隊とかそういうものを聞いたこともあるし、やはり音楽といえば当時教会や神に絡んだものだったのだろうか。

 彼らの時代を、晴季は詳しく知るわけではない。ただ学校で習う範囲のことを思い出すというだけで、詳しく「こういう時代だったよね」と言えるわけではない。それでも確かにそこには皇帝という権力者がいた、それは思い出せた。

「権力者を賛美し、神を讃え、まったく難儀なものだろ? 彼らは腹の中で何を思っていたんだろうな」

 実際には賛美していなかったとしたら。讃えていなかったとしたら。

 心の底から思っていたのならば、きっと幸せだっただろう。権力者を讃え、神を讃え、そこに何も疑問を抱かなかったのならば。けれどもしも、そこに疑問を抱いてしまったとすれば。

「せっかくだから、ちょっと弾くかな。聞くか?」

「いいの?」

「いいよ」

 ピアノの横にある椅子は、先日依織が座っていたところだ。その椅子に、晴季もまた腰かける。

 撫でつけられた誠一郎の髪は、また一部が崩れて髪の束が落ちてきていた。はみ出したシャツの裾もそのままで、どうしたってだらしない部分が消えないのに、それでもピアノに向き合った瞬間に張り詰めるように空気が変わった。

「ピアノは趣味でいいと思ったけど、結局親父みたいにもなれなかったなあ、俺は」

 ぽつりと落ちていったことばの真意は、どこにあるのだろう。

 晴季の祖父は、誠一郎の父は、厳しい人ではあった。けれどやさしい人でもあり、晴季の中にある祖父の思い出というのは、やさしいもので満ちている。それは晴季が孫だからであって、息子だった誠一郎に見せていた顔はもっと違うのかもしれない。

 ぽーんぽーんと、準備運動のような音が鳴る。それから静寂が訪れて、晴季は自分の呼吸する音がやけに耳障りに思えた。

 パッヘルベルのカノン。

 誠一郎が奏でるその音は、やはり優しい音色だった。柔らかくて、優しくて、そっと人に寄り添うような、そんな風に晴季には思えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ