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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
間之一 人間の水は南
18/50

 吉彰の目の前で、少年が一生懸命に教科書と向き合っている。

 日下一志という少年は、サッカー少年だったという話が信じられないくらいには、白くて線が細い。背もあまり高くなく、遠くから見れば男女の区別はまだつかないくらいの体格だろう。

 三年もの月日があれば人は変わるのだろうが、その三年前の姿が、吉彰にはどうにも想像できなかった。

 真っ黒に日焼けでもしていたのか、快活に笑っていたのか。目の前で真面目な顔をして数学の問題に取り組んでいる彼からは、やはり想像がつかない。いつも図書館で本を読んでいましたと、そういう方が納得ができるというのは、偏見というものだろうか。

 部屋の片隅には、サッカーボールが転がっている。彼にはあまり似合わないものがあると思っていたが、それだけが三年以上前の彼の名残だったのかもしれない。

 文字式と格闘していた彼が、解き終えて顔を上げる。

「できました」

「早いね。うん……正解。よくできました」

 ノートの上に並んだ数式に、丸をつける。

 あれ以来、彼の口から「ひとをころしました」ということばが出てくることはない。そう何度も言うことではないのか、あのときだけ吐露したかったのか。

「日下君」

 問いたかったことがある。

 ただ殺したと、それだけでは何も分からない。いつ、誰を、どこで、どのようにして、そういう具体的なものがなければ、吉彰はすべて信じることもできはしない。

「……君が殺したというのは、沢野宇月さん?」

 花菖蒲公園の白骨遺体は、彼のクラスメイトだったという沢野宇月のものだった。それを思い返していて、ついぽろりと口から疑問が落ちていってしまう。

「え?」

 これは本当ならば、簡単に口にしてはいけないものだっただろう。不用意な踏み込みだとしか言えないものだろう。彼はそもそも「クラスメイトだった女の子」としか言わず、明確な名前は口にしたくなかったのだと想像はついた。

 けれど、もう疑問は口から落ちた。「何でもない」と言うことはできたが、吉彰はしばし悩んでから、そのまま彼に問うことに決める。

 なかったことにし続けても、気にしないことにしていても、いつまでも疑問は燻ぶり続ける。そのままにしておくことは、彼の暗い顔を、外にあまり出られないという問題を、先延ばしにするだけとも言える。

 それならば、いっそのこと。

「君が僕に『ひとをころした』と言ったのは、白骨死体が見つかった直後だっただろう。だから、何か関係があるのかと思って」

 白骨の発見がなければ、彼は吉彰にそれを告げることもなかったのだろうか。あるいはそれはまったく関係がなく、ただその瞬間、偶然彼が告げたくなっただけなのか。

「宇月ちゃん……いえ、宇月ちゃんは。あ、いえ、宇月ちゃんを殺したのも、多分、僕なんです」

()()()()()?」

 吉彰にはひとつ、引っかかっていることがあるのだ。ふと部屋の隅を見れば、片付けられることもなく、打ち捨てられたようにサッカーボールが転がっている。

 小学校の前で会った女性が言っていた。用水路で溺れて死んでしまった子は、サッカーボールを追いかけて、用水路に落ちてしまったのだと。

「僕が、殺したのは……僕、僕が、宇月ちゃんも、凪咲ちゃんも、殺してしまった……」

「凪咲ちゃん」

 沢野宇月と日下一志がクラスメイトだったのだから、当然畑凪咲も関わりはある。そもそも沢野宇月の母は言っていた――日下君は沢野宇月にも畑凪咲にも優しかった、と。

 もしも彼が用水路にサッカーボールを落としたのだとしたら。畑凪咲がそれを拾おうとしたのなら。そうであるのならば、彼のことばも筋は通る。

「それは、畑凪咲さん?」

「そうです、先生。僕が……だってあのとき、僕は……ごめん宇月ちゃん、だって僕、そんなことになるなんて、思わなくて」

 まばたきをした日下一志の瞳には、きっと吉彰は映っていないだろう。自分にしか見えないものを追っているかのように、その視線はうろうろとしていて定まらない。

 どこか虚ろな瞳は、何を見ているのだろう。部屋の中には他には誰もいないのに、彼は何かを探している。

「ゆるして、ゆるしてよ宇月ちゃん。宇月ちゃんが間違ったことが赦せないのを僕は知ってた。知ってたんだよ。でも、そんなこと。ころさないで、ころさないで!」

「日下君」

「悪いことは悪いって、いつも言ってた。でも僕、それを宇月ちゃんに伝えたらどうなるかなんて、分からなくて……」

「日下君!」

 彼の意識を現実に引き戻すために、吉彰は強めに彼の名前を呼んだ。

 こぼれ落ちていった彼のことばから拾い上げられたものは、数が少ない。ただ彼が何か沢野宇月に謝罪したいことがあること、そして沢野宇月の性格がほんの少しだけ。

 ああしまったと、そんなことを頭の冷静な部分が考えている。やはり不用意に聞くようなことではなく、いたずらに彼を刺激するようなことを言うものでもなかった。とはいえそれを後悔したところで、もう今更何も取り消せない。

「どうして! どうしてそんなこと! 何も悪いことなんてしてないのに!」

 どうしてだろうか、彼の声なのに、そうではない音が聞こえるような気がした。まるでそこに、もうひとり誰かいるかのような。

 吉彰は晴季のように亡霊が視えるわけではない。そして、声も聞こえない。けれど彼の様子には、違和感を覚える。

 まるで日下一志の姿を通して、もう一人誰かが姿を見せているかのようだ。それこそ生身の人間が亡霊の姿を見せる――能舞台の上で演じる、シテのように。

「悪いことなんて、なにも! 悪いことをしたのは、先生なのに!」

 これは本当に、日下一志の声なのか。何度まばたきをしてみても、そこにいるのは確かに常と変わらない彼である、はずだ。それなのに生まれた違和感が拭いきれない。

 悪いことをしていない。

 悪いことをしたのは先生の方。

 そんなことを叫んで、けれど唐突にふつりと叫びは消える。泣きそうな顔をして悲鳴を上げていた日下一志の表情は、一瞬のうちに何もかもすべてなくなった。そしてじわじわとその顔に、怯えのようなものが浮かんでいく。

「あ……先生。せんせい、せんせい。ちがう、せんせいは、先生じゃない」

 虚ろな目が、吉彰を見ていた。

 彼にとって吉彰は、家庭教師の先生だ。そういう立場であることは事実だ。けれども彼は吉彰を見て、「せんせいは先生じゃない」と言う。

 彼の言う先生は、誰のことなのか。吉彰は確かに学校の教師であるとか、塾の教師であるとか、そういうものではない。年齢だってそういった立場の人と比べれば、ずっと彼に近いのだ。

「せんせい、助けて。僕を、宇月ちゃんを、助けて」

 日下一志のその声は、悲鳴に似ていた。助けてという声は、絶叫ではないのに刺し貫くほどの悲痛さを孕む。

 どうすればいい。どうしたらいい。

 きっと彼は吉彰以外に、縋れるものが何もない。助けてと、そのことばを告げる相手を他に持たない。

「せんせいは先生じゃないから。だから、ぼくを、たすけて」

 部屋の片隅に、サッカーボールがひとつ転がっている。

 先日は見なかった白い服が、その隣に脱ぎ捨てられていた。シャツよりも布の量が多そうなその服はぐしゃぐしゃに置かれていてよく見えないが、上着か何かだろうか。

 耳の奥で、鼓の音が鳴っていた。

 橙色の、焔にも似た鞨鼓台。高々と掲げられたその鼓は、他の誰が打っても鳴らなかった。王伯が打つまで、まるで天鼓が殺されたことを、嘆くか恨むかしているかのように。

 首を突っ込むのならば責任を取るまで。そんな誠一郎のことばが蘇る。

 この悲痛な叫びを引きずり出してしまった吉彰にできることは、彼を助けてやることだろう。縋る先もない、それでも誰かに助けて欲しい、だから目の前の、藁にも似た吉彰に彼は縋った。

 虚ろな目は吉彰を見ていて、またゆらゆらと揺れ始める。

 また、鼓の音がする。蒼雪は『天鼓』の舞台にずっとあるものは鼓であると言った。確かにその通りで、あの鼓だけはずっと舞台の正先に置かれている。

 あの演目の名前は、『天鼓』なのだ。それは殺された童子の名前であると同時に、天鼓が持っていた鼓の名前でもある。あの演目の名前は、果たしてどちらなのだろう。いや、どちらかに定める必要もないのだろうか。

「分かった」

 溺れていく彼の手を掴むのが、きっと吉彰の責任だ。

 沈みゆくものを浮かび上がらせて、掬い上げて、それがきっと彼を助けることになる。沈むことは浮かぶことに繋がらないが、三角柏(みづのかしわ)だけはそうではない。占いに使うその道具だけは、沈んでもまた浮かんでくる。

 浮かむべき。便渚の浅緑。

 吉彰の耳の奥で、『天鼓』ではない演目の謡が浮かんで、消えていく。沈んで、沈んで、流されて。決して浮かぶことはなく。

 沈んだものは、沈んだままに。けれどそれでは、日下一志を救えない。

 彼を宥めて、その日の授業は終わりになった。階段を下りたところで心配そうにしている彼の母親がいて、「すみません、少し疲れてしまったみたいで」と、意味も分からない謝罪を吉彰は口にする。

 見送られて、玄関を出た。そこではたと、思い出す――そう、ここで、顔を見た。けれどおそらくことばを交わしたのはここではなく、また別の場所だ。二度も会っていたのだろうかと、吉彰は足を止めてしまう。

「先生?」

「あ、いえ。先日ここで、小学校の先生にお会いしたなと」

「先生がいらっしゃった初日ですよね。ほら、一志があんな風になってしまって……小学校のときの担任の先生が、すごく心配してくださっているんです」

 吉彰がこの家に初めて来た日。どうだっただろうかと、それを思い出す。玄関の扉を開けて外へ出て、確かにそこに男性がひとり立っていた。そのときも「どこかで見たことがあるな」と思ったように記憶しているということは、ことばを交わしたのはそれよりも前ということか。

 向こうは、どうだっただろう。吉彰を見て、頭を下げて、それだけだったように思う。つまり向こうも吉彰のことは覚えていなかったということかもしれない。

「……日下君が、四年生のときのクラスメイトの話をしていました。用水路で、溺れたとかで」

「あ……」

 吉彰が畑凪咲のことを口にした瞬間に、さっと母親が顔色を変える。

「あの子、何か、言っていましたか。その、『僕じゃない』とか」

「いえ、そういったことは」

「そうですか……」

 彼が言ったのは、「ぼくがころした」ということだ。彼は自分はしていないとか、そういうことは口にしていない。

 日下一志は、何かに怯えている。畑凪咲のことも沢野宇月のことも、自分が殺した。そのことばの真意はどこにあるのだろうか。

「凪咲ちゃんの事故の数日後に、先生がサッカーボールを届けてくださったんです。ええと、その、用水路に」

 畑凪咲の事故は、サッカーボールを追いかけたから。

 引っかかっていたのは、そこだった。彼の部屋には片付けられることもなく、サッカーボールが転がっている。見たくもないのなら見えないように片付けてしまえばいいのに、それを赦さないかのように。

 あのサッカーボールは、彼の戒めか。畑凪咲を、殺してしまったということの。

「でもそんなの、一志のせいじゃないって、言い聞かせたんですけど。それから何日か学校には行ったんですけどね。誰かに何か言われたのか、『僕のせいだ』って言うようになってしまって」

 いっそのこと、「僕じゃない」と言ってくれれば。そんな願いが母親の中にはあるのかもしれない。

 畑凪咲は事故だった。そこにあったサッカーボールを追いかけてしまった、ただそれだけであって、日下一志は彼女を突き落としたわけでもなければ、溺れていた彼女を見殺しにしたわけでもない。

「先生も心配して度々来てくださるんですけど、一志は会おうともしないんですよ。先生は塾に行かせたときも、住之江先生をお呼びしたときも、すごく心配してみえたのに」

「熱心な先生ですね」

「ええ……心のケアが必要だからとかって、先生には感謝してます」

 沈んでいく。

 天鼓は沈んだ。鼓は沈黙した。王伯は嘆いた。けれど再び沈黙を破り、鼓はその音を響かせる。そして皇帝は天鼓を弔い、天鼓はそれに感謝して舞を見せる。

 畑凪咲は溺れて沈んだ。沢野宇月は沈んで骨となり、浮かび上がった。沈黙していた日下一志は、吉彰に向かって叫び声を上げた。

 沈んだものは、沈んだまま――けれど。


 鼓が鳴っている。

 舞台の上で天鼓が舞っている。

 鳴らぬ鼓は、なぜ、鳴った。

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