二
「能楽はかつて、権力者の芸能だった。階の正面には身分の高い人間が座り、まつろわぬものや反旗を翻したものを舞台の上で殺し続けた。だから修羅物は平家方が大半だし、演目の中に在原業平や小野小町を語るものが多く存在する」
なぜ『平家物語』を琵琶法師たちは語ったのか。なぜ勝者が、敗者を語らなければならないのか。
「地獄に落ちたものは地獄に落ちたまま。その舞台における終わりに成仏しても、また同じ演目が上演されれば再び地獄の有様を見せることになる」
これについては、『藤戸』も同じ。地獄に落ちたというわけではないが、その死の様を何度も何度も繰り返す。そして悪龍となって恨みを晴らそうとしたが、思いがけない回向によって思い留まり、彼岸に到って成仏をする。
つまり『藤戸』は、舞台の上で強制的に赦させたとも言えるのだろうか。何度も何度も繰り返し、まるであなたはもう赦していますよと、そんな風に教えるかのように。
「とはいえ、天鼓はそれらとは、毛色が違うな?」
蒼雪の問いに、頷いた。
「天鼓は地獄に落ちているわけではない。後場の天鼓は確かに亡霊だが、別に本人が回向を頼んだわけでもないし、最後もただ夢か現かの間に消えていくだけ」
恨みを晴らそうとすることもなく、ただただ喜んで舞っている。成仏するというわけでもなく、天鼓はほのぼのと夜が明け空が白むと同時に消えていくだけだ。
そこには恨みも憎しみも、何もない。王伯にはあっただろうが、天鼓にあるのは喜びだけだ。
「そう。だから天鼓の目的は、舞台の上で天鼓を殺し続けることではない」
その死にざまを、見せることはなく。ただ鼓を渡すことを拒んで殺され沈んだと、そう他者の口から語られるだけだ。
「その点は『藤戸』もそうなんだがな。あれは、贖罪だ。どうか祟らないでくださいという、切なる願いだろう。そもそもそういった演目は実在している人物を扱うのだから、そうならざるを得ないとも言うが。天鼓は、架空の人物だからな」
悪いことをしたのだと、恨まれることをしたのだと、そういう自覚があるからこそ、祟らないでくださいと人は願った。そこにいた誰かを殺してしまったから、だから。
佐々木盛綱は、戦功のために道を教えた漁師を殺した。その名も舞台の上では語られない漁師は、戦争というものに巻き込まれ死んでいった、罪なき人の代表であるのかもしれない。不特定多数の誰かを、漁師という存在に置き換えたものであるのかもしれない。
けれどそれは確かに、彼らが現実存在していたものだ。平家の武将もそう、在原業平や小野小町もそう、彼らは実際に存在していた人間だ。
その中で、天鼓は違う。あれはすべて、架空の物語だ。
「なら、天鼓という演目の目的はどこにあるんだ。王伯や天鼓の祟りを恐れるものではないとすれば……」
「舞台の上にずっと存在しているものがあるじゃないか。さっきまで君が見ていた、そこにある」
蒼雪が示した先には、ショーケースがある。その中に並んでいる舞台に出される作り物のミニチュアの中、天鼓という演目が添えられた鞨鼓台。一番上に掲げられているのは、他の誰が打っても鳴らなかったもの。
「――鼓」
「他の誰が打っても沈黙する鼓。王伯が、天鼓が打てば、鳴る鼓。それだけが、ずっと舞台の上にあるだろう?」
最初から、最後まで。シテが王伯から天鼓になろうとも、鼓はずっとずっと同じ場所に置かれている。
ならば天鼓の主題は、もっとも大きな目的は、ずっと舞台の上にある鼓にあるのかもしれない。
「忘れようと思っても忘れられない苦しみが、嘆きが、王伯にはある。これもまた、無関係ではないということだな。その苦しみがあるから、鼓は沈黙するんだと俺は思う」
前場において王伯は、我が子のことを語る。忘れられない苦しみを語り、そして音が鳴らなければ自分も殺されるだろうという覚悟で以て、王伯は薄氷の上を進むように鼓のところへと足を進めるのだ。
本当ならば逆らってはならない相手を、恨んではならない相手を恨む。決してそれを口にすることはできないのに、自分の中に降り積もっていく。
「苦しみの、沈黙」
「ただ苦しい苦しいと訴えたところで、権力者が聞くわけがないんだが」
皇帝に何を言ったところで、意味はない。皇帝という絶対的な権力者のことばは、命令は、絶対だ。反抗することそのものが罪になる。
反抗したくとも反抗できない、それが辛くて苦しくとも、王伯は皇帝にその感情をぶつけられない。行き場のない感情はきっと、王伯の中で渦巻くだけだ。
「だから、天鼓は嬉しそうに舞うしかないんだろうよ」
恨みも憎しみも述べることはなく、ただ嬉しげに。楽し気に。
天鼓がもしも、そうする以外にはなかったのだとしたら。恨み言を述べることは赦されないのだと、すべて呑み込んでいたとしたら。
相手は皇帝なのだ。そして天鼓は逆らった結果、殺されている。殺された後まで皇帝の不興を買おうとするかどうか、きっとそんなことはしないのだろう。
「あるいは、天鼓は恨みも憎しみもすべて、自分の中ではないどこかに置き忘れてきているんじゃないのか。彼はそもそも夢から生まれ、普通の人間とは異なっている」
恨みがない。
憎しみもない。
それはある意味では穏やかと言えるのだろうが、感情の欠落とも言うのだろう。
「天鼓はある種の、異常者か?」
「さて、どうだろうな。君のその見解は間違いではないと、俺は思うが」
思い出したのは、晴季のことば。楽しそうに踊っているのだという、花菖蒲公園にいるはずの亡霊。
吉彰の目には、亡霊は映らない。晴季が視ている世界を吉彰は共有できず、できることはただ彼女のことばを信じてやることだけだ。
なぜ、楽しそうにする。沢野宇月は、花菖蒲公園の池に沈んだはずなのに。
「純粋な子どもの中でも、いっとう純粋なもの。そういうものが、天鼓かもしれないな」
沢野宇月の母親が口にしたことばが、浮かんで消えた。純粋な子どもの中でも、いっとう純粋なもの。かつての人間はそれがどんなものであるのかなど、知る由もなかった。けれどその存在が、周囲が手を差し伸べなければ死んでしまうことを、きっと知っていた。
大事にしなければならない――そうでなければ、死んでしまうから。
「福子様……」
天鼓はそれと、似たようなものだったとも考えられる。純粋すぎて、自分が死んだことは分かっていても、それを命じた相手を恨むようなことはない。
鬼子ということばがある。福子とは、その反対の意味のことばである。
「さて、俺は荷物が重いからもう帰る。また、大学で。来てくれて感謝する」
「ああうん、また。僕も誘って貰えて感謝してる」
蒼雪がくるりと身をひるがえして、吉彰から背を向けた。その背中を見送ろうとして、ひとつ、彼に聞いてみたいことを思い出した。
「蒼雪」
「何だ?」
名前を呼べば、蒼雪は振り返った。
晴季が「亡霊が雑木林を指している」と言っていた。吉彰はそれを信じて、一応はとその内容を遥平に伝えてくれるようにと誠一郎に依頼をした。
結果、そこから出てきたのは鳴らないトランペット。沢野宇月本人が埋めたという、鳴らない楽器。
「もしも……もしもだ。天鼓が鼓を捨てるとしたら、どんなときだ」
「鼓を捨てる、か」
沢野宇月はトランペットを捨てたのか。おおよそ小学生が持つには高価な楽器を、どうして彼女は地面に埋めたりしたのだろうか。そして、花菖蒲公園の亡霊は、どうしてそれを伝えようと思ったのだろうか。
花菖蒲公園の亡霊にトランペットを渡したら、天鼓の鼓のように音は鳴るのか。
「必要がなくなったら、捨てるんじゃないか」
人を殺しました。そう告げた日下一志は、どんな気持ちでいるのだろう。
トランペットを自分で埋めたという沢野宇月は、何を思ってそんなことをしたのだろう。
それから、彼女の母が口にした、福子様ということば。そのことばの答えを見付けはしたものの、ではそれが誰であったのかは分からない。もしもそれが沢野宇月であったのならば、大切にしていたのにというのは母が子を大切にしていたということになるのか。
「鼓とは、理想に似ている。理想とは、星にも似ている。遥か彼方、手の届かないもの。そう考えると、捨てることも有り得るか――理想を、舞台で舞うこともある」
蒼雪と共に外に出れば、外はもう薄暗かった。といっても、冬の同じ時間帯よりはまだ明るい。空を見上げた蒼雪につられるようにして吉彰も見上げれば、空には白く明るい星がみっつある。
あれがはくちょう、あれがこと、あれがわし。夏の空に輝く、大三角。
「あれは、天鼓」
蒼雪の言う『天鼓』はいずれの星なのだろうか。
天の川に横たわるようにして、はくちょうがいる。天の川にからだを浸すようにして、わしがいる。ことだけは天の川から、少しだけ外れている。
「星、好きなのか?」
「さあ、どうだか。昔教えて貰ったんだ。あれは、蠍の心臓。遥か彼方、光の速度でも五百五十年かかる星。手の届かない、彼方の心臓だ」
理想とは、手の届かないところにあるものか。「じゃあな」と、今度こそ蒼雪と別れて、吉彰もまた能楽堂から、地下鉄の駅へと向かう。そういえば電源を切っていたということを思い出し、ポケットからスマートフォンを取り出して電源を入れた。
途端、見計らったかのように電話がかかってくる。『壱岐誠一郎』と表示されたディスプレイに溜息をついて、吉彰はすぐに通話という表示を叩く。
『もしもーし、スミヨシ。俺だよ』
「オレオレ詐欺なら間に合ってます」
『詐欺じゃないって。そろそろ終わる頃かなと思ったからさ』
確かに舞台は終わって、能楽堂を出たところではある。見計らっていたのかもしれないが、あまりにもタイミングが良すぎて近くにいるのかと疑ってしまう。けれど周囲を見てみても、誠一郎らしき人影はなかった。
電話口の向こうで、鳩時計の鳩が鳴いている。外にいるわけではないらしい。
「何?」
『おやつ買ってきて貰おうと思って』
それは、明日のおやつのつもりなのか。
「別に良いけど。駅で買えば良い?」
『あれを買ってきて欲しいんだよ。ひよこちゃん!』
誠一郎のことばに、駅へと向かっていた吉彰の足が止まってしまう。
ひよこちゃん、が、何を指しているかは分かっている。地下鉄から在来線へと乗り換える駅に売っている、ひよこの形をした、中にババロアの入ったあのケーキだ。
「え、嫌だ」
『そう言うなよ。やってみようよ、ひよこちゃんチャレンジ。崩れてても俺文句言わないからさ』
「嘘だ、おっさん絶対文句言う」
形は可愛いし、味もおいしい。黄色にピンクに茶色に、今は限定があるだろうか。限定があれば、それに加えてあと一色。ただこのひよこの難点は、そのすがたかたちが崩れやすいという点だ。
鶏冠や羽のチョコレートが取れるのなど、まだ些細なものだ。箱の中で動いて壁にぶつかったりしようものなら、可愛かったひよこは無惨にも潰れた姿になってしまう。
車で持ち帰るというのならばいざ知らず。ひよこが何個か入った箱を持って電車に乗るのは、吉彰は絶対に嫌だった。
「えびせんべいで良いか」
『あれも美味しいけどさあ』
「ひよこはまた今度。えびせんべい買って帰るから」
『あ、ちょっと! スミヨシ……』
まだ何か言いたそうな誠一郎のことばを無視して、吉彰はそこで通話を切った。同じく駅で売っているえびせんべいは、えびの味も濃くてこちらもおいしい。嵩張らないし持ち帰る途中で崩れたりもしないのだから、こちらの方が持ち帰るのは楽だった。
今日は遅くなると言っておいたが、晩御飯を晴季と誠一郎は先に食べるだろうか。冷蔵庫の中に入れておいた今日の夕飯を思い浮かべて、地下へと向かう階段を降りていく。外はこの時間でも汗ばむようなじっとりとした暑さがあったが、地下に入れば途端、気温が下がって涼しくなった。