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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
間之一 人間の水は南
16/50

 三間四方の舞台の上で、童子が舞う。舞台の真正面、正先に設えられた鞨鼓(かっこ)台は橙色の布が巻かれていて、いつも燃えているようだと吉彰は思うのだ。

 鼓に戯れるようにして、天鼓が舞っている。笛の音にあわせてあちらこちらへとくるくる回り、そしてどぉんと舞台を踏み鳴らす。

 どうして、喜ぶ。

 晴季は花菖蒲公園の亡霊は少女だと言った。そして少女は、楽しそうに踊っていると言っていた。そのことばに吉彰が思い浮かべたのは、他ならないこの天鼓だった。

 せんせい。ぼくは、ひとを、ころしました。

 日下一志のことばがぐるりと頭の中を回って、そして消えていく。俯いたままの彼はことばを絞り出して、裁かれるときを待っているかのようだった。

 ようやく上がったその顔は、何と形容することが正しいかったのだろう。あれは、悲痛と言うべきか、絶望と言うべきか。

 響いた謡の声に、吉彰の思考はぶつりと途切れる。

 人間の水は南、星は北。呂水のほとりで、天鼓が舞う。自分が沈められて命を失ったその場所で、何の恨みも憂いもなく、ただ楽しそうにくるりくるりと舞っている。水に戯れ波を穿って、童子は扇と手とでばしゃりばしゃりと水を跳ねさせるような仕草をする。

 また打ち寄りて現か夢か――舞台が、終わった。

 能舞台の上は誰もいなくなって、吉彰は観客席で息をつく。ここで挨拶もせずに帰ったとしてもきっと気にしないだろうし、案外舞台の上から誰がいるのか見えると言っていたのだから、吉彰が来ていることには気付いているのかもしれない。

 それにしてもあの能面の下から、本当に観客席に誰がいるのかなど見えているのだろうか。確かあれは、足元なんて見えないと言っていたような気がするけれど。

 笛も小鼓も大鼓も太鼓も、そして謡う人々も、ワキも、シテも、もう舞台の上には誰もいない。設えられていた鞨鼓台もなく、舞台の上は静まり返る。磨き上げられた明るい茶色の板が光を反射して、白く光って見えた。鏡の松だけが、ただそこに佇んでいる。

 見所を――客席を出て少し行ったところには、ショーケースがある。源義経と辨慶が五条の橋で戦う姿を再現した人形の向こう、その中に並んでいるのは小さな作り物たち。その中には先ほど舞台の上にあった、天鼓の鞨鼓台のミニチュアもある。

「天鼓……」

 踊っている。楽しそうにしている。そう言った晴季のことを疑うつもりは、吉彰にはない。彼女が嘘を吐く理由はないし、亡霊が視えるというのを疑ったこともない。それがどうしてかと問われれば、吉彰は「晴季が言うことだから」という以外に答えを持っていなかった。

 天鼓という演目は、理解ができない。前半の王伯の嘆きは理解ができても、後半の天鼓がやはり吉彰には理解ができないままだ。

 殺された、沈められた、奪われた。相手は権力者で、到底反抗することなど赦されなかったのだとしても、その心にひとかけらも恨みがないということがあるものか。身勝手に殺しておいて弔いなどと、どこに有難がる要素があるというのだろう。

 小さな鞨鼓台を見ていたところで、答えが出てくるはずもない。けれどただその前に立ち尽くして、吉彰は鼓を見ていた。

「こんなところにいたのか、吉彰」

 後ろから声をかけられ、ゆるりと振り返る。少し離れたところに、どこか冷たくも見える顔立ちの青年が、大きな荷物を持って立っていた。

 彼のさらに後ろには、今日の舞台のポスターが貼られている。右半分は童子の面、左半分は男の面が描かれたポスターに記載された演目は、『天鼓』と『藤戸』の二つ。どこか楽し気にも見える童子が天鼓、そして恨み言でも述べそうな男が藤戸だ。

 天鼓の演目の下、シテの名前は姫烏頭(ひめうず)蒼雪(そうせつ)と書かれている。そのポスターと彼とを見比べて、吉彰は少し笑ってしまった。

「何だ」

「いや、ごめん。何でもない、悪い蒼雪」

 ポスターに名前のある当人が、その目の前に立っている。童子の面とは似ても似つかない顔のせいで笑ってしまった、そういう言い訳で良いだろうか。

 天鼓は舞台の上であれほど楽しそうに舞っていたのに、こうして面を外して舞台から降りてしまえば、蒼雪は立派な仏頂面で、少しも楽しそうな様子がない。これが天鼓を舞っていた男ですと言って、どれだけの人が信じるだろうか。まだ藤戸を舞ったのがこの男ですと言う方が、信じてもらえるような気がする。

「今日の演目が気になったのか? ああいや、違うな。俺の名前が書いてあるポスターの前に俺がいるから面白かったんだろう、君は」

 言い当てられて、吉彰は降参だと示すように両手を挙げた。心の中を読めるはずもないが、蒼雪は時折こういう風にこちらの考えを読んでいるようなことを言う。

「はいその通りです。だから悪いって言ったんだ」

「別に良い、そんなことは」

 言い当てはしたものの、蒼雪はさして気にした様子もなかった。彼は荷物を肩にかけ直してから、ポスターの方を振り返る。

「『藤戸』と『天鼓』」

 ぽつりと、蒼雪が演目の名前を落とした。

 どちらも、権力者に子が殺される演目だった。どちらも前場と後場は別人で、『藤戸』は老いた母親が恨み言を述べ、『天鼓』は老いた父親が恨み言を呑み込む。相手が武士である『藤戸』と、皇帝である『天鼓』とでは、恨み言を述べられるかどうかは当然のことながら異なってくる。

「老いた母と子、老いた父と子、恨みと喜び。まったく、見事な対比だろう」

「そうだな」

 蒼雪のことばは、その通りなのだ。『藤戸』の男は弔いのための管弦講に姿を見せて、恨みを語り伝えにきたのだと、自分が刺し貫かれて水の底に沈められた様を舞台の上で再現してみせる。『天鼓』はといえば、弔いのための管弦講に喜んで、礼まで述べて、そして鼓と戯れて楽し気に舞う。

「蒼雪。僕は、『藤戸』の方が納得できる」

 殺されて、その相手に弔われて、それで喜べるのか。母が恨みを述べ、当人も恨みを述べる『藤戸』の方が、吉彰には理解もできた。

「『藤戸』は()()()()()()からな。対して『天鼓』は、()()()()()()

 殺されて、沈められて。『藤戸』の恨みは明白だ。それに関しては『天鼓』も同じであるのに、こちらには恨みも憎しみもない。

「蒼雪でも分かりにくいと思うのか」

「分かりにくいさ。現代人の考え方でいては、おそらく『天鼓』は掴みきれない。ましてこの演目に隠されているものは、祟りの回避だとか、恨みや憎しみを慰撫することではないからな」

 恨めしやと、亡霊は紡ぐ。それこそ能楽の演目においても、恨めしやと口にするシテがどれだけいることか。

 その恨みも憎しみも分かっていますよと、けれど祟らないでくださいと。能楽は、そういう祈りにも似たものがある。まだ祟っていない怨霊にどうか祟らないでくださいと願いながら、舞台の上で彼らを殺し続けるのだ。

「務める前に、考えた。なぜ天鼓は、楽し気に舞うのか」

「答えは出たのか?」

「そうだな。ひとつの解は得た」

 能楽堂の中は、すっかり静まり返っていた。観客はもう姿がなく、舞台に立った人々もそれぞれ帰路についたのだろう。

 ショーケースの前に残っているのは、吉彰と蒼雪だけ。

「どんな?」

「さあな。君、他人の口から答えを聞きたいのか? 指針にするならともかく、他人の解釈を鵜呑みにするのはどうかと思うぞ」

「分かってるよ。でもなかなか、難解なんだ。絡まり合っていて、端が見付からない」

「そうか」

 絡まった糸を解くためには、端を見付ける必要がある。端から糸を丁寧に辿って、順番に解きほぐしていって、そうして糸はようやく一本の真っ直ぐなものになる。

「数式だって、解き方はひとつとは限らない。昔、そんなことを算数の先生が言っていた。君は君の解を得るといい、吉彰」

 何かを考えることというのは、絡まった糸を解くことに似ている。だから思考の端を探そうとしているのに、『天鼓』のそれはするりと吉彰の手をすり抜けていく。

 日下一志のことばにしても、沢野宇月のことにしても、それは同じだ。分からないことだらけなのだから首を突っ込まなければいいのに、足を止めてしまえばいいのに、吉彰は足を止められない。

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