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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
三 「ひとごろし」の少年
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 確かに先ほどの電話の中で、誠一郎は「本人」ということばを口にしていた。他人が埋めたわけではないというのなら、埋めたのは沢野宇月本人に他ならない。

「じゃあ何か、沢野宇月が自分で埋めたって?」

「そういうことになる。しかもトランペットを失くしたのは、行方不明になるよりも前。それから、もうひとつ」

 自分で埋めた、トランペット。

 彼女はそれを伝えたかったのだろうか。そこにトランペットが埋まっていると、掘り出して欲しいと。けれどなぜ、それを掘り出して欲しかったのか。自分で埋めたのならば、そこに埋まっていることを知っていても何もおかしくはない。けれどわざわざ埋めたはずのものを、どうして示したりなどしたのだろう。

「……()()()()んだと」

「鳴らない?」

 トランペットは、楽器だ。地面に埋まっていたとしても、ケースに入っていたのならばおそらくは、楽器そのものは問題がないはずだ。

 けれど、鳴らない。埋めるより前に壊れてしまったのか。

「そう。鳴らないトランペット。見た目は壊れてないのに」

 吉彰がまた、口元に手を当てていた。見た目が壊れていないのなら、どこか見えない部分が壊れてしまっているのだろうか。けれど壊れてしまったからといって、何もそれを地面に埋める必要はない。

 他人は埋めたわけではない、沢野宇月がそこに埋めた。大切にしていなかったのか、もうそれを捨ててしまいたかったのか。

「鳴らぬは、鼓。七夕の雷鳴、天上の鼓……天鼓」

 それは、以前も聞いたことばだった。ぶつぶつと何かを考えるようにしてこぼれ落ちていくことばの中で晴季が拾えたのはそれくらいで、そこから先は明確なものとしては認識できない。

 梅雨も明けきらない七月七日。空に織姫と彦星が見えないことも多い日。一年に一度しか逢瀬の機会のないふたつの星が、出会える唯一の日。

「天鼓?」

「能の演目」

 お面をかけるやつ。

 晴季の中でそういう認識のものを、詳しく知っている人はどれくらいなのだろう。

 誠一郎の目の前にはマグカップがあるが、もう中身は残っていなかった。「お茶でも淹れてよ」という誠一郎のことばに、吉彰が席を立つ。

「好きだねお前は、そういうの」

「そこにある人間の意図を考えるのが面白いんだ。それに、時代が遷ろうが何だろうが、そこにあるのは同じ人間という種族だ」

 グラスを出して、氷を入れて、麦茶を注ぐ。そんな一連の動作をしながら、吉彰は淀みなくことばを紡いだ。

 学校の歴史の教科書には、たくさんの人の名前がある。もちろんそんなものはひとにぎりであって、それ以上の人たちが生まれては死んでいって今がある。

 歴史という時代の流れの中に、人間がいる。進化の結果人類が生まれ、集団となり、そして気が遠くなるほどの時間の中で――地球の誕生からしてみればほんの一瞬のような時間の中で、人間は歴史を織り上げてきた。

 人間は、きっとほとんど何も変わっていない。その心に宿る感情というものは、喜びや悲しみや憎しみというものは、過去の人類も現在の人類も、きっと同じものだろう。

「もっとも、中学生のときに読んだ本の受け売りだけどさ」

 それぞれの席の前に、吉彰が麦茶のグラスを置いた。「ありがとう」と受け取って一口流し込めば、喉から胃まですっと冷えていくような気がする。

「で、天鼓って?」

「能は、前場……前半で仮の姿、後半で真の姿を見せることが多いが、天鼓は別人だ。前場のシテ、つまり主役は天鼓の老いた父親の王伯、後場のシテが天鼓の亡霊」

 その目を通して亡霊を視る役割である、と以前吉彰が説明していたワキについて、彼は振れなかった。舞台の上にいるのかいないのか、亡霊が出てくるということは、きっとそこにワキはいるのだろう。

「後漢の時代、王伯と王母という夫婦がいた。王母が天から降ってきた鼓が胎内に宿るという不思議な夢を見て、そして生まれてきた子どもが天鼓」

 つまり天鼓というのは日本ではなく、古代中国の話ということになるのだろう。

 天から鼓が降ってくる。そしてその鼓が胎に宿り、子どもとなる。そんな話は日本の昔話でも、鼓ではないが聞いたことがあるような気がした。気がしたというだけで、晴季には具体的なタイトルを思い出すことはできないけれど。

「天鼓が生まれて後、本当に天から鼓が降ってきた」

「へえ……どこからどう降ってきたんだか」

「さあ、どうだろう。ともかくその鼓と共に天鼓は育ち、そして彼が鼓を打てば、人々は感動して悦ぶほどのものだったという」

 本当に空から鼓が降ってくるとは思えない。ただ昔話であるとかそういうものは、いつだって信じられないようなことが起きているものだ。現実灰を撒いたところで枯れ木に花は咲かないし、竹が光り輝いて女の子が出てくることもない。

「その噂が、時の皇帝の耳に届いてしまった」

「で、何だ? 欲しがりでもしたか?」

 誠一郎の問いに、吉彰は首を縦に振る。

「その通りだよ、おっさん。皇帝は鼓を召し出すように命令した――つまり、自分に鼓を差し出せというわけだ」

 ここについては、今の時代、日本では考えにくいことだ。皇帝はどうしてそんなことをしたのだろうか。美しい音を出す鼓を、自分のものにしたかったのか。

「天鼓はそれを拒んで逃走。だがこの時代、皇帝の命令は絶対だ。勅令とはそういうものだ。つまりその時点で天鼓は、重罪人となったわけだな」

 その命令は絶対である。その命令に逆らうことは赦されない。命じられたのならば本当は、それに従って差し出さなければならなかった。

 けれども天鼓は拒絶して、その瞬間彼は罪人となったのだ。皇帝の命令に従わない、ただそれだけで。誰もが従うはずの命令に従わない、権力者に対する反抗は罪となる。

 そしてその罪人に与えられる罰は、当然のことながら。

「天鼓は鼓を持ったまま隠れたが、皇帝の臣下に見付かり追われ、そして……彼は、呂水に沈めて殺される。そして鼓は皇帝のいる宮殿の雲龍閣に置かれた」

 罪を犯した。だから、殺された。そういうことになるのだろうが、晴季の感覚からすれば残酷な話である。そして、理解できないことでもある。皇帝という権力者の意向でひとりが押し潰されてしまう、それは現実でまったくないとは言えないけれど。

 もちろん古い時代のことで、当時はそれが当然だったと言われればそれはそうなのだろう。けれど理解はできても、実感できるはずもない。

「それで、終わり?」

「いや。ここまでは前置きだ。舞台は、ここから始まる」

 物語が終わったかと思ったが、どうやら始まってもいなかった。吉彰が目の前にあった自分のグラスを手にして、麦茶を一口飲んで、そしてまた口を開く。

「鼓は宮殿に置かれ、様々な楽師が鼓を打った。けれど鼓は主を失ったがゆえか、まったく音を発することがない。誰が打っても鳴らない鼓を何とか鳴らそうと、皇帝はとうとう王伯へと勅使を送って召し出した」

「勅使ってことは、これもまた強制か」

「皇帝はそういう存在だからだ。皇帝の発する命令は絶対、そういうことだ。能だって権力者が好んだ芸能なんだから、反抗した人間を肯定するようには演じないだろ」

 中学校の社会科の時間に、観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)については習った覚えがある。時の将軍であった足利(あしかが)(よし)(みつ)に庇護される形で能楽は地位を確立したのだから、そこで権力者に逆らうようなことをするとは思えない。

 権力者が好むのならば、権力者を肯定するだろう。賞賛を、したのかもしれない。晴季は想像するしかできないが、この辺りについても吉彰は答えを知っているのだろうか。

「王伯は、鼓が鳴らなければ自分も殺されるという覚悟で、皇帝の前へと上がった。そして老いの足取りのままに鼓の前に立ち、我が子を思って鼓を打つ」

 誰が打っても鳴らない鼓を、鼓の主の親が打つ。

「すると――鼓は鳴った」

 どうして、そこで鼓は鳴ったのだろう。

 王伯は父親だが、天鼓ではない。それでも鳴ったのは、鼓が鳴らなければ殺されたかもしれない王伯を守るためであったのか。

 まるで、鼓に意思があるかのようだ。他の誰が打っても鳴らず、沈黙し、そして王伯が打つことで、とうとうその沈黙は破られる。

「その音色はこの世のものとは思われず、皇帝は感動して王伯に褒美を与え、そして天鼓の冥福を祈って呂水のほとりで管弦講を行うと決める」

「勝手すぎるな」

「そう、勝手だよ。でもそれが赦される立場だったわけだ」

 身勝手に殺したのに、鼓を奪ったのに、冥福を祈る。

 それが権力者というものだと言われてしまえばそれまでなのかもしれないが、到底晴季にはそれを理解できそうにもない。

 思い浮かんだのは、色とりどりの花。ピンク色の花だけを数えて、楽しそうにくるくると踊る亡霊の彼女。

 花菖蒲公園に積み上げられたあのたくさんの花束の中に、自分を殺した相手からのものがあったのならば、あの少女はどう思うのだろう。殺されたということすら分かっていないような、楽し気にくるくると踊る少女は。

「そして管弦講の当日、呂水のほとり、天鼓の亡霊が現れた」

「恨み言でも?」

 幽霊は、「うらめしや」と言って現れる。そのイメージがどこからきたものなのか分からないが、そういう風に書かれていることが多いだろう。うらめしやとは、恨めしいということ。恨みがあるから、現れる。

 けれど吉彰は、誠一郎の問いに首を横に振った。

「天鼓はこう言うんだ。『有難や』と」

「自分を殺した相手に対して、礼を言うのか?」

「それどころか喜んで、鼓を打って、管弦にあわせて喜びの舞まで見せる」

 どうして、喜ぶ。

 どうして、有難いなどと言う。

 相手は自分を殺していて、自分は水に沈められて、そして大切な鼓まで奪われたのに。

「とんでもないな?」

 鳴らない鼓。

 鳴らないトランペット。

 どうしてだか奇妙な合致を見せる状況に、晴季は思わず眉根を寄せた。

「そう……だから僕は、理解ができない」

 理解ができない。晴季もそうだ。

 あの踊っている彼女のことを理解できそうにもなく、どうしてという疑問が浮かんでは消えていく。日下一志のことばを信じるのなら、彼女は殺されたはずなのに。

 トランペットは地面の中に埋まっていた。

 天鼓の鼓のようにどこかに飾られたわけではなく、沢野宇月自身が地面の中に隠していた。天鼓も彼女のように、鼓を隠してしまいたかったのだろうか。

「天鼓という演目が理解できたら、晴季が視たっていう踊る亡霊のことも理解ができるのかもしれないな」

 鳴らぬは鼓。踊るは亡霊。

 グラスの中でからんと音を立てて、氷が融けた。

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