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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
三 「ひとごろし」の少年
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 肩にリュックサックを背負ったまま、廊下を歩く。どうしようかと少し考えてから、階段下の片隅に置いておくことにした。いつまでも背負っているわけにはいかないが、かといって依織を置いて部屋に置きにいくというわけにもいかない。

「赤砂さん、ここへどうぞ」

 いつもは誰も座らない席に依織を案内して、食器棚からグラスを取り出した。氷を入れて麦茶のポットを冷蔵庫から取り出して、麦茶を淹れる。ぱきぱきという氷が割れていくような小さな音が耳に響いた。

 コースターを置いて、依織の前に麦茶のグラスを置く。「ありがとう」と微笑んだ依織の顔は、晴季が知る限りではいつも通りだ。

「ハレちゃんも、スミヨシ君から話は聞いた?」

「はい。その……日下くんが、『ひとをころした』って言ってた、って」

 晴季が依織に言えるのは、それだけだった。それ以上のことを晴季は言えない。花菖蒲公園の亡霊のことも、何もかも。

 依織も「話は聞いたか」としか言っていないのだから、返答としてはこれで間違ってはいないはずだ。

「そっか。どう思った?」

「どう……」

 日下一志という少年を、晴季は知らない。本人に会ったこともない。ただ吉彰からの話と、それから沢野宇月の母から聞いた話、それだけだ。

 ただ、自分は人を殺したと、そのことばを鵜呑みにすることもできないのだ。これは別に言った相手が日下一志という少年だからというわけではなく、誰に対してでもそうだけれども。

「本当かどうか、分からないな、とは」

 麦茶のグラスを手にして、依織がその中身を流し込む。ごくりと飲み込んでから戻されたグラスの底が、コースターとぶつかって小さく音を立てた。

「そうか」

 リビングの扉が開いて、誠一郎が姿を見せる。

 ピアノを弾いていたときには気付かなかったが、白いシャツの裾が、右側だけだらりとスラックスからはみ出していた。撫でつけているはずの髪も、一部崩れてはらりと額にかかっている。

「納得してしまっている自分がいるから、私は駄目だね」

「え?」

「『小学校四年生の夏から様子がおかしくて、前はこんな子じゃなかったんですけど』」

 依織が口にしたことばは、誰かのものをなぞっていた。コーヒーを淹れた誠一郎が定位置にマグカップを置き、携帯を取り出して机に置いてから椅子に腰かける。

「それ、保護者が言ってたのか」

「そうだよ。あと、担任の先生も」

「担任? 学校の先生が塾にまで何か言うか普通」

「よっぽどだったんじゃない?」

 小学校四年生の、夏。

 日下一志は今中学校一年生で、沢野宇月が行方不明になったのは三年前。その時期がいつなのか詳しいことは分からないが、学年はそこに合致する。

 本当に、人を殺したのだろうか――そしてそれは、沢野宇月なのだろうか。

「お母さんが言うには、それまでは明るいサッカー少年で、どこ行くにもサッカーボールを持ってたような子だったらしいよ。それが一変、口数も減って笑わなくなり、外にも出ようとしなくなった」

 小学校四年生の夏を境に、彼に何かあったことは明白だ。心境の変化と言われればそれまでなのかもしれないが、それにしてもあまりに違いすぎている。

 ならば何が彼をそうしたのか。今晴季が想像するための材料はたったひとつしかない。それは、彼が口にしたことば。「ひとをころしました」という、どこまで信じれば良いのかも分からない告白だ。

「私も彼が笑っているところは、見たことがないかな。授業中に他の子が笑っていても、じっと俯いてたし」

「その原因が『ひとをころした』にある、そういう可能性は否定できないな」

 人を殺してしまったから、性格まで変わってしまった。

 またふっと思い出したのは、現代文の授業だ。発狂して様変わりしてしまったエリスはもとには戻らない。あの発狂の要因は、何であったのか。

 呑み込みきれないものを、人の心はどう受け止めようとするのだろう。そのまま受け止めてしまえば自分が壊れてしまうものから自分を守るためには、狂うしかないのか。

「誠一郎、ヨウさんは何か言ってた?」

「『証拠もないような不確かなもんで警察が動くと思うなよ』、だってさ」

 その場に突っ立っているのも居心地が悪いように思えて、晴季はいつも座っている席に腰を下ろした。誠一郎も依織もそんな晴季の様子を気にした気配はない。

「まあ、それもそうか。証拠もない自白だけで補導して、実際そんなことはありませんでした、なんていうことになったら大問題だから」

「そういうこと。これがおとななら虚偽自白ってことになるかもしれないけど、相手は中学一年生、当時小学校四年生だろう? 確たる証拠があるならともかく、ないなら慎重にならざるを得ないってさ」

 もしも虚偽であるのなら、それは何のためのものだろう。

 日下一志が告白した相手は、親ではない。それから、おそらく親の次に身近な存在だろう学校の先生でもない。それこそまだ教わるようになってから半年の、家庭教師。彼はどうして告白の相手として、吉彰を選んだのか。

「白骨死体じゃ、死因も分からない」

 溜息のような依織の声が落ちて、からりと氷が音を立てた。

 明確に殺されたということが分かる状況であれば、何かが違ったのだろうか。そうであればどのように殺したのかを日下一志に問えば、その告白が偽りであるかどうかはすぐに知れる。

 けれど、骨だ。沢野宇月の白骨は、おそらく何も語らない。花菖蒲公園の彼女に問いかけたところで、晴季にその声は聞こえない。もし聞こえたとしても、誰も亡霊に聞きましたなんて理由を信じたりはしないだろうけれど。

 麦茶の最後の一口を飲み終えて、依織が席を立った。

「さて、そろそろ行かないと。ごちそうさまでした。誠一郎、スミヨシ君によろしく」

「よろしくなんてしない。スミヨシを利用しようとするな」

「してないけど?」

「どうだか」

 誠一郎はコーヒーを口に含んでから、ひらりと依織に手を振った。

 見送りをするつもりはないのか、席を立とうとするような素振りもない。晴季がせめて見送りをしようと席を立とうとしたところで、それは依織に制された。「見送りなんていらないよ」と笑った彼女のことばを素直に受け入れて、晴季はただその場で頭を下げる。

 リビングを去っていく依織の姿を、誠一郎が視線だけで追っていた。彼女の姿は見えなくなって、麦茶のグラスを片付けていると別の足音が近付いてくる。

「ただいま」

「おかえりスミヨシ。イオに会った?」

「玄関で」

 どうやら入れ違いになったらしい。大学から帰ってきた吉彰が、リビングに顔を出す。

「イオ、何か言ってたか?」

「特に何も。日下君のことよろしくねって、それだけ」

 誠一郎は「ふうん」とだけ声を漏らし、マグカップに口を付けていた。

 依織は吉彰に、日下一志の家庭教師の話を持ってきた。彼女が知る身近な大学生といえば吉彰だけで、だから話を持ってきたのだろう。晴季はそう思っていたが、もしかすると他の思惑でもあったのだろうか。

「おかえり、吉彰くん」

「ただいま」

 挨拶だけして二階へと上がっていく吉彰を見送り、晴季は階段下に置きっぱなしになっているリュックサックと、そしてまだ制服姿の自分を思い出す。

「あ。私も着替えてくるね」

「行ってらっしゃい」

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