一
いつも通りに「ただいま」と玄関の扉を開ければ、晴季の耳にピアノの音が聞こえてきた。柔らかく響く音色は、弾いている人間の普段の様子を知っていると驚くものなのかもしれない。けれどよく知っていれば、今度は納得するものでもある。
優しく穏やかに響く音は、頻繁に聞くものでもなかった。誠一郎の家にピアノが置いてある部屋はあれど、その部屋には吉彰も立ち入らない。その部屋だけは、彼も掃除をすることがなかった。
そもそも一階は、リビング以外はほとんど使っていないのだ。それはかつて亡くなった祖父が使っていた部屋だからなのかもしれない。誠一郎の部屋も吉彰の部屋も晴季の部屋も、すべて二階だ。
聞いたことがある曲のタイトルを、晴季は知らない。誰が作った曲なのかも。けれど、それでも「ああ、聞いたことがあるな」と思うくらいには有名な曲だった。
同じようなメロディーを繰り返す曲を追いかけるようにして、家の中を歩いていく。
かつて祖父が使っていた書斎は風を通すためか扉が開いていて、その中が覗き込めた。室内ではひらひらとレースのカーテンが風に揺れている。
かつてこうして書斎を覗き込めば机で書き物をしていた祖父が気付いて、「おお、来たか。よく来たな」と晴季を歓迎してくれたものだった。けれどそこにはもう人影はなく、ただ主を失った部屋の沈黙があるばかりだ。祖父の名残だけは、未だそこかしこに残ってはいるけれど。大きな机の中には今も、祖父が日記代わりにしていた手帳があるはずだ。
首を横に振ってから書斎の前を過ぎ、一階の一番奥の部屋。そこは防音室で、ぴったりと扉を閉めていると外に音が漏れてくることはない。廊下の先にあるその部屋の扉が、今日はうっすらと開いていた。
黒くて光を反射するピアノの前、誠一郎が座っている。そしてその近くに、もうひとり女性が立っている。
壁際にある本棚にはずらりと並んだ楽譜と、それから三角形のメトロノームがひとつ。誠一郎の指が最後の鍵盤を叩いて離れて、そうして曲は終わりを迎えた。
「ただいま、誠一郎さん。こんにちは、赤砂さん」
見計らって声をかければ、彼らは驚いた様子もなく晴季のいる方を振り返る。ピアノの前に座ったままの誠一郎に手招きをされて、晴季は扉を大きく開けた。
「おかえりハレちゃん。お邪魔してるよ」
「珍しいですね、赤砂さんがいらっしゃるの。今日はお仕事お休みですか?」
そう聞いてはみたものの、依織はパンツスーツ姿で、仕事が休みとは思えない恰好をしていた。彼女は笑みを浮かべて、首を横に振る。
「ううん。この後行くよ。授業の前まで休みを取っただけ」
「そうでしたか」
「誠一郎から、日下君の様子がおかしいって聞いたから。詳しい話を聞こうと思って」
そもそも吉彰に家庭教師の話を持ちかけたのは、依織だった。駅前の進学塾で講師をしている依織が、塾を辞めた生徒の家庭教師を依頼してきた――というのがよくある話であるのか珍しい話であるのか、晴季には分からない。
けれど辞めた相手にそこまでするというのは、何かしら事情があるのだろうとは思っていた。何もないのなら、わざわざ個人的に家庭教師を探したりはしないだろう。たとえ勉強が遅れてしまうとか、外に出られないとか、そういう理由があったのだとしても。
「お前、本人から何か聞いたことはないのか?」
「彼がいたの、小六の終わりの半年だけだから。おとなしいというか、暗いというか、そんな子だったし」
依織の言う日下一志は、吉彰の言う姿と似ている。沢野宇月の母が言ったような「良く笑う元気な子」という姿は、依織のことばの中にも見えてこない。
彼の中で、何があったというのだろう。どうしてだか晴季の中に、現代文の授業でやっている『舞姫』の内容がふっと浮かんで消えていった。
「イオ。お前がスミヨシに話を持ってきたときに、俺は『何でだ』って聞いた。そのときは言いづらそうに『少し事情があって』とか言うから、一応深く聞かずに了解はしたけどな」
「そうだったね」
「さすがに今の状況だと、詳しく聞くしかない。だから呼びつけた」
白と黒の鍵盤の上に、赤い布がかかる。ぱたんとピアノの鍵盤を閉じた誠一郎は、「俺もちょうど仕事が終わったからな」と小さく紡いでいた。
「ハレはともかく、スミヨシは俺が言ったところで聞くわけがないし」
誠一郎には晴季も吉彰も、釘を刺されている。晴季はともかくと誠一郎は言うが、結局晴季は花を手向けるというのにかこつけてもう一度花菖蒲公園に行ったのだから、そこについては苦笑いをするしかなかった。
くるくると踊る彼女が、気にかかって仕方がないのは事実なのだ。夢にまで見てしまうほどには、晴季はあの少女を気にしている。
「それでどうしてピアノなんて弾こうと思ったんだか、珍しい」
「イオが『少し遅れる』とか言ったからだろ、暇だったんだ」
「ふうん? まあ、そういうことにしておくね」
「偉そうに……」
ぱたりと譜面は閉じられた。その表紙に並んだアルファベットを読もうとして、けれどそれはすぐに誠一郎の手で遮られて見えなくなってしまった。誠一郎は椅子から立ち上がり、その譜面を本棚へと並べ直す。
ずらりと並んだ譜面が、どんな順番になっているのかは分からない。けれど適当に突っ込んだというよりは、入れるべき場所に入れたという様子であった。
「ハレ、先にリビング行って、イオに麦茶でも出してやって。スミヨシが今朝新しいの冷蔵庫に入れてたはずだから。俺は片付けてから行く」
「誠一郎さんの分は?」
「俺は後でコーヒーでも淹れるから良いよ」
返事をすれば、誠一郎が今度は依織を見る。彼女に対して誠一郎は顎をしゃくり、あっちへ行けというような仕草をした。
「イオ、お前もさっさと行け」
「分かったよ」
依織は誠一郎のそんな様子には慣れっこで、肩を竦めて小さく笑っていた。
未だに付き合いのある同級生であれば、いちいち誠一郎の態度に怒ったり呆れたりすることもないのだろう。依織は誠一郎の態度にいつだって寛容だ。