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鳴らぬ天の鼓-殺意の神域-  作者: 千崎 翔鶴
二 親子は三界の首枷と
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 小学校の校門前のところで、犬を連れた女性とすれ違う。人懐こそうな目をした黒い柴犬が、きょろりとした瞳で吉彰を見上げた。

「わっ」

 柴犬が「わん」とひとつ声を上げたかと思えば、まだあまり大きくない柴犬は、吉彰の足に纏わりついていた。「あ、こら!」という女性の声と、吉彰の「どうした?」という声が重なる。

 世の中には、動物に好かれる人間がいるらしい。吉彰のこういったことは初めてでもないので、晴季は驚くようなこともなかった。

「すみません、うちの子が」

「いえ、大丈夫です。よしよし、君、名前は何ですか? 二歳くらいかな?」

 膝を折って、吉彰は柴犬と視線を合わせるようにしている。首のところをわしゃわしゃと撫でまわされた柴犬は、嬉しそうにして吉彰の手にすり寄っていた。

 こういうとき、晴季は手を出さない。吠えられるとか牙を剥かれるということはないものの、何となく邪魔をしているような気がしてしまうからだ。

「クロ、良かったねえ」

「クロくんですか、クロちゃんですか」

「男の子なんです」

 そんな彼らを横目に、晴季はぼうっと小学校の校庭を見ていた。もうどこにも子供の姿はなく、しんと静まり返った小学校の校庭では、ブランコがかすかに揺れている。

 ぽつりぽつりと、校舎の教室にはいくつか明かりが点いていた。

「この辺りにお住まいですか?」

「ええ、すぐそこに」

「僕、家庭教師の教え子がここの卒業生なんです。ほら、花菖蒲公園の……あの子が、同級生だったとかで気にしていて」

「あら……沢野宇月ちゃんの事件の?」

 女性の年齢は、三十代後半か、四十代か。あまりまじまじと人の顔を見るものでもないし、そこで女性の年齢を推し量るのも失礼かもしれないが、晴季はそんなことを考える。

「うちの子、今年小学一年生なのよ。その沢野宇月ちゃんの担任だった先生が、今の担任の先生でね」

「そうなんですか」

「近所の人はみんな知ってるんだけどね……沢野宇月ちゃんの前にも、もうひとり溺れて亡くなっていて」

 ぱっと、校舎の教室のひとつから電気が消えた。

 周囲の気温が下がるような感覚はやはりなく、どこにも亡霊の気配はない。先ほど見えた気がしたものは、やはり晴季の気のせいだったのだろうか。

「その子も同じクラスだったものだから、先生随分と憔悴(しょうすい)してたみたいなのよ」

 それは、先ほど沢野宇月の母から聞いた畑凪咲のことだろう。その先生は、立て続けに自分のクラスの生徒を喪ったということだ。もっともその当時、沢野宇月は生きているか死んでいるか分からなかったけれど。

 それを、どう思っていたのだろうか。教え子を喪う気持ちなど、晴季は教え子の側でしかないから分からない。ただ、想像するばかりだ。

 幸いにして晴季は、クラスメイトを喪ったこともない。そうして思い出すのは、あの玄冬高校の亡霊の姿――あの女子生徒のことは、クラスメイトはどう思ったのだろうか。

「あ、その先生ってね、よく校門に立ってるんだけど。その溺れて亡くなった子の事件以来ずっと、子供たちが帰るときには見守りをしてるっていう話なの」

「それは熱心な先生ですね」

「そうなの! すごく良い先生でね、うちの子は運が良かったわ」

 小学校の先生がどんな人だったのかを、晴季はもう思い出せない。女性教師だったことは覚えているものの、その名前はもう記憶になかった。

 多分、生徒にとって先生というのはそういうものなのだ。通り過ぎていく中、そこですれ違っただけのような。一年間という時間、その人と一緒にいたはずであっても。

「六年生までずっと、その亡くなった子のいるクラスの担任をしていたの。子供たちのケアをしたいからって仰って」

 クラスメイトがいなくなったことは、きっと残り続けるのだろう。実際には見たことがないけれど、机の上には花が置かれるのだろうか。それは、いつまで続くものなのだろうか。彼女たちは確か小学四年生で、五年生になって、六年生になって、そのときにはもう彼女たちの机はどこにもなかったのか。

 ひとり溺れて、またひとり溺れた。もっとも沢野宇月が溺れたというのは、今になって分かったことだけれども。

「その、溺れた女の子というのは」

「名前は……何だったかしら。でも確か、帰り道にね、サッカーボールを追いかけて用水路に落ちた事故とかで。ほらそこの用水路、ちょっと深いでしょう」

 小学校の脇の用水路のところには、確かに看板が立っていた。あれは子供がひとり、そこで溺れたからこそか。

 人間は事が起きる前に何かをすることは少ない。昔聞いたことがある、「警察だって事件にならなければ動けない」と。

「見付けたのも、その先生だそうなのよ。もっと早くに見付けていればって、とても悔やんでいたみたいだけれど」

 柴犬はようやく満足したのか、吉彰の手から離れていく。吉彰が立ち上がり女性にひとつ頭を下げると、女性は微笑んで「良かったねえ、クロ」と柴犬に告げ、そして頭を下げてから去っていった。

 小学校の教室に点いていた明かりは、もうすっかり消えている。一階のところはまだ電気が点いているが、あれは職員室だろうか。

 ふたり並んで、また歩き出した。

「溺れたクラスメイト――畑凪咲、か」

「うん……その子も、溺れたんだね。それも、事故で」

 沢野宇月もまた、溺れて沈んだ。白い骨になって、彼女はようやく浮かび上がった。

「……サッカーボール」

「どうかした?」

「いや」

 なんでもないと吉彰は首を横に振り、それきりまた考えるように黙り込んでしまう。そうしてまた、少し歩いた後。

「福子様、福子様……どこで、聞いたんだったか」

 ぽつりと、吉彰のことばが落ちていった。

「なんだか神様みたいな言い方だよね、福子様って」

 福に、様。響きだけならば、まるでそれは良いものかのようにも聞こえた。けれどもそれはずしりとして重いような響きもあって、どういうものなのか晴季にはやはり見当もつかない。

 心持ちゆっくりと歩いている吉彰は、難しい顔をしている。何かを思い出そうとして、思い出せなくて、引っかかっている。そんな顔だろうか。

 横断歩道の手前、赤信号で立ち止まる。ゆるく握った手を口元に当てて、吉彰はすっかり思考の海に沈んでいるようだった。

「いや、神様じゃなかったはずだ。神様じゃないから、『様』をつけて……福子様を、大事に……まさか、な。でもそうだとするのなら、福子様は誰だ。畑凪咲のことか?」

 ぶつぶつと言葉を漏らす吉彰は、思考が口から漏れていることに気付いているのだろうか。目の前の信号がぱっと赤から青に変わっても吉彰は気付かず、思考の海の中に沈んでしまっている。

 その足は一歩も動く様子がない。青信号を伝える鳩の鳴き声も、響いているのに。

「吉彰くん?」

「ああ、いや、何でもない。悪い。帰ってきちんと調べてから、考える」

 晴季に名前を呼ばれて、ようやく吉彰の思考は途切れた様子だった。信号が青になったことに気付いて、ようやく足を動かし始める。

 青信号の鳩の鳴き声は、どうにも気が抜けるような音だ。

「次の家庭教師のときに、日下君にも詳しく聞いてみるか。でもな……」

「気が進まない?」

「もし彼にとって思い出したくないものがあるのなら、無理に掘り起こすのも酷かと僕は思っているだけだ」

 沢野宇月の母によれば、日下一志は良く笑う子だったという。彼がそうなってしまった要因がそこにあるとするのなら、彼はそれを思い出したいのだろうか。

 けれども彼は、吉彰に「ひとをころした」と言っている。それは彼にとって、思い出したくないことの一部だったのではないのか。

「……あの時、それ以上何も聞けないような顔をしていたからな」

 どんな顔をして、日下一志は自分の過去を告白したのだろう。

 そもそも、当たり前にそう思っていたが、日下一志が「ころした」という相手は、本当に沢野宇月なのだろうか。詳しいことは何もなく、ただそのことばだけが、ぽつんと白い紙の上に墨を落としたように滲んでいる。

 花菖蒲公園の駐車場に戻ってきて、吉彰の車の助手席に乗り込んだ。シートベルトを締めたところで、車のエンジンがかかる。

 窓から見た花菖蒲公園は、池を周りを紫色が彩っていた。花束の山も、くまのぬいぐるみも、くるくると踊る少女の亡霊も、ここからではそんなものが存在しないかのように隠れてしまっている。

 あの亡霊が示した先には、何かあるのだろうか。あの雑木林の中を、どうして彼女は指し示しているのだろう。ピンク色の花を数え、くるくる踊って、地団太を踏んで、どうにも理解できない彼女は何を伝えたいのか。

 目を閉じて思い出したのは、どうしてだか玄冬高校の亡霊だった。窓の外から教室を覗き込んでいる彼女。現代文の授業の時間にだけ現れる彼女は、何を探しているのだろう。

「コンビニ寄るか? プリンでも買って帰ろう」

 吉彰のその提案は、すっかり考え込んでしまった晴季の意識を浮上させる。盗み見た彼の横顔は何を考えているのか分からなかったが、きっとそれは晴季を元気付けようとか、そういう意味のものだったのだろう。だから晴季は、断らないことにした。

 この前買った新発売のミルクプリンが美味しかったよ。多分それが正解の返答だろうと思ったけれど、どうにも能天気すぎて、今この場においては相応しくない軽すぎる返答だなと、そんな風に思ってしまった。

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