秘密のオフィスラブ
地味で真面目なOL・綾乃は、いつも通りの残業を終え、帰宅しようとしていた。エレベーターに乗り込むと、最後の乗客として滑り込んできたのは、会社の冷徹な社長・御影だった。
「……失礼します」
声をかける勇気もなく、ただ頭を下げる綾乃。社長は無言でボタンを押し、エレベーターは静かに動き始めた。しかし、次の瞬間――。
ガクンッ。
突然の停止。エレベーターの明かりが一瞬ちらつき、完全に止まってしまった。
「……え?」
「故障か」
御影が冷静にスマートフォンを取り出し、エレベーター管理会社に連絡する。しかし、復旧には数時間かかるという返答が返ってきた。
「最悪だな」
御影はため息をつき、壁にもたれかかった。綾乃は不安そうに見つめながらも、社長と二人きりという状況に鼓動が早まるのを感じていた。
「……大丈夫ですか?」
沈黙に耐えかねて、綾乃がそっと声をかける。社長は驚いたように視線を向けた。
「君、俺に話しかけるのか?」
「えっ……す、すみません!」
思わず謝る綾乃だったが、御影はふっと笑った。「別に謝ることじゃない。君、営業部の……ええと、名前は?」
「綾乃です。佐倉 綾乃」
「佐倉か。意外だな」
「意外、ですか?」
「いつも静かで、社長室の前を通るときも俺を避けるように歩いてるからな」
「そ、それは……」
確かに御影は社内で“冷徹”と恐れられる存在だ。しかし、こうして話してみると、思ったよりも優しい雰囲気を感じた。
「俺が怖いか?」
「……少しだけ」
「正直でいいな」
御影はくすりと笑い、綾乃の緊張が少し解けていくのを感じた。
エレベーターの中での会話は思った以上に弾み、綾乃は社長の意外な一面を知ることができた。
「君はどうして営業部に?」
「……実は、人見知りを克服したくて」
「なるほどな」
不意に社長のスマートフォンが震えた。画面には「婚約者」と表示されている。
「え……?」
社内で噂になっていた“社長の婚約者”の存在。その言葉が頭をよぎる。御影は電話を取らず、ポケットにしまった。
「社長……婚約者が?」
「噂のことか」
御影は小さくため息をついた。「あれは誤解だ。親が勝手に決めた婚約話があったが、正式に断った」
「……そう、だったんですね」
綾乃の胸が軽くなるのを感じた。そのとき、エレベーターが動き出し、ドアがゆっくりと開いた。
「……助かったな」
「はい……」
エレベーターから降りると、名残惜しさが込み上げた。しかし、社長は軽く微笑み言った。
「また、明日な」と。
翌日、綾乃が会社に行くと、社長から呼び出された。
「昨日は助かった。礼を言いたくてな」
「そ、そんな……」
社長は一瞬躊躇し、それから静かに言った。
「……君とは、もう少し話してみたい」
「え……?」
「ダメか?」
綾乃は顔を赤らめながら首を振った。
「……私も、社長とお話しするの、楽しかったです」
御影は満足げに頷き、綾乃に名刺を差し出した。
「じゃあ、仕事終わりに食事でもどうだ?」
「えっ……!」
不意打ちの誘いに驚く綾乃。しかし、社長の真剣な目を見て、そっと頷いた。
エレベーターで生まれた小さな絆は、これから新しい関係へと進んでいく。