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海とプールでは、泳ぎ方がまったくもって違ってくる。
プールは足がつく。でも海はつかない。
プールには波がない。でも海にはある。
足がつかないところを泳ぎ続けるのは、とても体力を消耗する。足はずっと水を蹴り続けて、手は波をかきわけ続ける。
泳ぐのをやめてはいけない。やめたら身体が沈んでしまう。
陸から見える波が低くても、いざ海面におりれば波はとても高い。白波が立たずとも、そのわずかな山ですらあたしたちの身体を飲み込もうと容赦なく襲ってくる。
何度あきらめそうになったかわからない。けれどあたしは、泳ぎ続けていた。
決して早くはない。すすんでいるのかですら自分にもわからない。けれど身体は懸命に海を泳ぎ、陸に戻ろうと動いていた。
陸に戻るんだ。
戻って、生きるんだ。
頭の中で、そればかり繰り返す。陸が見えないとか、苦しいとか、疲れたとか。そう思ったらもう泳げなくなるのがわかっていた。
身体はもう限界。気力だけで動いているようなものだった。
――あたしは今、生きている。
生きているから、身体が動く。生きているから、息ができる。
生きているからこそ、苦しくて。疲れて。力尽きそうになって。けれど心臓は、しっかりと鼓動を刻み血潮を身体中にめぐらせていく。
大丈夫。あたしはまだ、やれる。
そう心で叫んで、水を蹴った足首を、何者かに掴まれ渾身の力で引っ張られた。
「――いやっ!」
そのまま、海に引きずり込まれそうになる。抵抗もむなしく、あたしの顔は海に沈んだ。
悠馬だけは離しちゃいけない。だから、手の力だけはけっして緩めない。けれど疲れきった身体は、引きずり込もうとする力から逃げることができなかった。
消えたはずの彼が、あたしの足を引っ張っていた。
『――行かせない!』
声にならない声が、海の中、あたしの頭に伝わってくる。低く、かすれた声が、直接脳髄に響いてくる。
『行かせやしない!』
彼のその姿は、すっかり変わり果てたものになってしまっていた。
海に消え、海に侵食されそうになっている身体。腐敗し、朽ちかけた手足。頭のタオルはなくなり、両の眼は眼窩がむきだしになっている。頭髪もほとんど残っておらず、頭皮もはがれ、頭蓋骨が見えて穴まであいていた。
『おれひとりを、残していくなんて!』
開いた口の中は、歯が何本かなくなっている。片方の八重歯は抜け落ちていた。舌はもうなく、上顎にフジツボがはりついていた。
「――離して!」
そうあたしが叫んでも、その声は海中に響かない。ただいたずらに肺の中の空気を無駄にするだけで、意識が遠のきそうになるのを早めるだけだった。
仄暗い海の底に、ひきずりこまれていくあたしの身体。あたしだけではない、悠馬も一緒だ。彼の身体はいぜん影のままで、息をしているのか心臓が動いているのか、抱きかかえていてもさっぱりわからなかった。
「助けて……」
最後の悪あがきに見上げた海面は、月明かりに照らされて残酷にもきらきらと輝いて見える。あとすこし頑張って水をかいて、引きずり込もうとする手を振りほどいて、もがきにもがけば手にはいる世界がすぐそばにあるはずなのに。
人は、海の中では生きていけない。
魚や貝たちとは違う。空気がなければ生きていけない。踏みしめる大地がなければ生きていけない。
深い深い海の底では、けっして、生きていけない。
『――行かないで!』
彼の声は、いつしか懇願に変わっていた。
この深い海の底で、横たわらなければならない、生を失った身体。二度と陸には戻れず、海の一部になるしかない、朽ち果ててゆく身体。
肉片がいかにほかの生き物の血肉に変わろうとも。骨だけは、残される。
そしてそれが砕け、砂となり、広大な海の中に溶け込むしかない、さだめ。
『ひとりにしないで!』
その悲痛な叫びに、あたしはただ、うめくしかできなかった。
彼と一緒に、海に沈むのは嫌だ。
けれどもう、陸に戻る力は残っていない。
最後の息が、尽きそうになる。目に浮かんだ涙は、海に溶けて消えてしまった。
自分の身体も、この涙のように、なくなってしまうんだ。そう思うと、悔しくてまた涙があふれた。そして、まぶたの力が抜けはじめる。
「――美和子!」
閉ざされようとしていたまぶたの動きが、その声に、止まった。
腕の中にいたはずの悠馬が、動いていた。彼はその力強い腕で、沈みゆこうとしているあたしの身体をしっかりと抱きかかえた。
あれほどあたしが求めてやまなかった力が、彼にはまだ残っていた。ひとつふたつと水をかいて、浮上した悠馬はあたしの顔を海から引き上げてくれた。
「――っ、う」
大量に海水を飲んでいて、うまく息を吸うことができない。うめくあたしが海に沈まないよう支え続けながら、悠馬は泳ぎだした。
「泳ぐんだ、美和子。手でかいて。足で蹴って。できるところまで一緒に泳ごう」
呼吸が落ち着かなくて、意識も朦朧としたままで。それでもあたしは、悠馬の声に導かれるまま身体を動かした。
悠馬の姿がどうなったのか。気にする余裕なんてなかった。ただ、声が戻ったことには気づいた。噛みちぎった自分の手がどうなったかなんて、どうでもよかった。
「ありがとう、美和子」
その声に、涙が出た。
悠馬に支えられながら、あたしは海を泳いだ。手で波をかいた。足で水を蹴った。
大丈夫。
自分はまだ、生きている。
●●●
最後のほうはついにあたしも力尽きて、悠馬ひとりで泳いだようなものだった。
それでもどうにか陸が見え、足がつくようになったときは、本当に嬉しかった。
お互い支えあうように肩を組んで、ずるずると重い身体を引きずり。ようやく波の届かない浜辺までたどり着いたとき、糸が切れたように二人で倒れこんだ。
大量の海水を飲んで、喉が焼け付くように熱かった。肺にも大量の水が流れ込んでいて、げほげほと咳き込みながら吐き出していると、悠馬がそっと背中をさすってくれた。彼のほうこそ長い間海中にいたはずなのに、なぜかほとんど水を飲まなかったようだった。
「大丈夫か? 美和子」
「……うん」
気遣う声にも、曖昧にしか返せない。ただただ疲れ切って、あたしはこのまま気を失ってしまいそうだった。
「ゆうま……」
「うん?」
「生きてる?」
「……生きてるよ」
眼鏡こそなくなってしまったけれど。目の前にいる悠馬は、たしかに、生きている悠馬だった。
「ありがとう、美和子」
「うん……」
頭を撫でてくる手は、ちゃんとあたたかい。肌もある。今にも消えたりしない。ちゃんと、ここにいる。
あたしも、悠馬も、ちゃんと生きている。
「よかった……」
抱きしめてくれる悠馬の胸に身体を寄せようとして、あたしはふと、思い出した。
足首に残る感触。それがまだ、消えていない。
悠馬もそれを思い出したようで、はっと二人で顔を見合わせる。お互いひとりで確認する勇気がなくて、目で合図をして一緒に見た。
足首を掴んだ手。それは名残ではない。まだたしかに残っている。
身体を起こし、見た先にいたのは、
彼、だった。
「……よかった」
あたしの口を最初についた言葉は、それだった。
海の中で見た姿のまま。あたしたちが食べたはずのところも、ちゃんともとに戻っている。もちろん失ったところのほうが多いけれど、それでも彼の身体は陸に戻ってきた。
ふと気がついて、自分の手を見てみると。噛みちぎったはずの手の甲は、なにごともなかったかのように綺麗なままだった。
あたしがそっと足を動かすと、彼の手はすぐに離れた。その残された指先は、もう二度と、動くことがなかった。
「……とりあえず」
「警察、呼ばなきゃ」
「救急車も」
「お母さんに、電話……」
「ケータイ、水没してる……」
はっきりしない頭のまま、ふたりでのろのろと動き出す。指一本動かすだけでも大変で、なんとか上半身を起こしたところでふと気づいた。
「……空が」
満天の星が瞬いていたはずの空が、白み始めていた。
海を見れば、漁火の街はもう消えていた。
そして水平線の向こうから、かすかに、輝きが見え始めていた。
「朝日だ……」
呆然と、悠馬が呟く。
その太陽の光は、漁火がかすんでしまうほど強い、すべての命の光だった。