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 食べるために切られたものはほんの一部分だったようで、まだ人の姿の残るものが多くあった。ぞっと寒気がしたのは左腕と思われるもので、ところどころ骨がむき出しになり、皮膚は変色して黒く縮み、えもいわれぬ液体がその切り口から流れ出していた。

 大きな肉の塊から、長い縄のようなものが出ている。それが一体何なのかを考えたくなくて、あたしは血がにじむほど唇を噛んだ。

「……どうして、ですか?」

「なにがだい? ミワコ」

 水面に膝をつくあたしたちを、お兄さんがあざ笑うかのように見下ろしてくる。あいかわらず、目が見えない。だから、くわしい表情がわからない。

「なんで、こんなこと……」

 どうしてあたしたちが、人の亡骸を食べなければならないのか。

 目の前にいる、この男性が、かつて生きていた証をなぜ口にしなければならないのか。

「――蘇るためだよ」

 彼の口から出た言葉は、ぞっとするほど冷たかった。

「生きた人間に、死んだ自分の身体を食べさせたら。そうしたら、おれは蘇れるんだ」

 彼はきっと、千由紀が話していた、この海で行方不明になった乗組員に違いない。地元の人ではなく、仕事のためにやってきたほかの地域の人だ。

「生きた人間が、死んだ人間の肉を食うとな。肉がそいつの『生』を吸いとってこっちに運んでくれるんだ。だから見てみろ、ユウマはもう、ほとんど生きちゃいない」

 嘔吐と空咳を繰り返す悠馬を見て、彼は笑った。

「ミワコはだめだったみたいだけど、そいつは簡単だった。夜明けのバスに乗るときに、ちょっと沖から声をかけてみたんだ。そうしたらまたのこのことやってきて、ひとりでうまいうまいってたらふく食っていったさ」

 やっぱり。悠馬はバスに乗らずに、この町に残ったんだ。この屋台に来て、たくさん、お兄さんの身体を食べたんだ。

「そのうち自分が影になって、ようやく気づいたころにゃあもう遅かった。身体もなくなって、声も失って、困ってミワコのそばに行って、でもどうしていいかわからなくて後をつけることしかできなかった。……違うか、ミワコまで屋台に行かないよう見張ってたのか?」

 訊かれても、悠馬はこたえられない。悠馬が失った生も、声も、すべては彼に奪われてしまったのだから。

「ユウマがたらふく食ってくれたおかげでな。おれの身体もあと少しで戻れるようになる。お前らがあとひとくちふたくち食ってくれりゃあ、お前らの命と引き換えに、おれが陸に戻れるのさ」

 低い笑い声をもらして、彼はおもむろに足元の腕を拾い上げた。

「――さぁ、食え」

 腐敗して関節までもが変色して、今にももげ落ちてしまいそうな腕を、彼はあたしの口元につきだしてくる。たしかにその顔色は、前に会ったときよりも数段よくなっている。それは悠馬の生を吸ったからに違いない。

「食え。そしてお前たちが海に消えればいい」

 唇に触れそうになる指先。もう、何本かの指はなくなってしまっている。指が落ちてむき出しになった関節の上を、ミミズのような岩虫が這っている。

 これが、海に沈んだ人の姿。

「――ぜったい、嫌!」

 あたしはその腕を力いっぱいはねのけた。

 手に、力ない肉の感触が残る。硬くはない。死後硬直も終えて、弛緩してしまった身体。海水を吸い、ぶよぶよにふやけてしまった身体。体温もすべて失い、ただ、冷たくなってしまった身体の一部分の、肉片。

 それは彼の手から抜けて、海へと落ちていった。ぼちゃんと鈍い音がして、あっというまに深みに沈んでいった。

 あの腕はもう、海の上には戻らない。また海の底に転がって、魚や貝たちの餌になっていく。残った骨もいずれは砕け、砂となり、海の一部になっていく。

「お前……!」

 激昂した男性が、あたしを強く睨みつける。負けじとあたしも睨み返した。

 どうしよう。どうしたらいい。

 見えない瞳を睨み続けながら、あたしは考える。逃げなければ、と、それだけはわかっていた。

 でも、どうやったら悠馬がもとに戻れるのかわからない。

 きっと彼は教えてくれやしない。今ここで逃げたとしても、解決法がわからなければ悠馬はもとに戻らない。一生影のまま、あたしのそばにいる運命だけには、絶対にさせちゃいけない。

「もう、逃げられない。あきらめろ」

「ぜったい、嫌」

 悠馬は死んだ身体を食べて、彼に自分の生を吸い取られてしまった。もうこの影の身体には、ほとんど生が残っていないのだ。

「逃げても、ユウマはもとに戻らないぞ」

「ぜったい、もとに戻すもの」

 じゃあ悠馬も、生を吸収すればいいんだ。

 気づいた瞬間、あたしは迷いなく、自分の右手に歯をたてた。

「! お前――」

 彼の焦る声が聞こえる。でもそんなの気にしない。ためらってはいけないと思い、あたしは手の甲の弾力ある皮膚を、力いっぱい噛みちぎった。

 口の中に残った肉はすぐに吐き出した。歯形どおりにえぐれた手の甲からはすぐに血があふれ出し、あたしはこぼれ落ちる前に傷口を悠馬の口元につきつける。事態を飲み込めていない悠馬の唇を無理やり開いて、問答無用であたしの血を流し込んだ。

「悠馬、飲んで!」

 吐き出そうとするのを、怒鳴ってやめさせる。次から次へとあふれる血潮のすべてを悠馬の口に流し込み、あたしは吐き出させないようあごをつかんで上向かせる。

「やめろ……!」

 彼が、阻止しようと動くのは遅く。悠馬の喉仏が、ごくりとあたしの血を嚥下した。

 あたしは今、生きている。この血にはあたしの『生』が宿っている。悠馬の身体だってまだ完全に死んだわけじゃないから、なにかきっかけさえあれば、化学反応のように生を取り戻してくれるに違いない。

 崩れ落ちる悠馬の身体を抱きとめ。不思議と痛みを感じない右手を、あたしは左手で包み込む。そしてもう一度、彼を見上げた。

「あたしたちは、あなたの身代わりにはならない!」

「……お前ら!」

 彼が怒りの雄叫びを上げた瞬間、足元の海が崩れた。

 あたしたちは、海に落ちた。


      ●●●


 気を失ったのか、力のない悠馬の身体を抱き、あたしは海から顔を出した。

「――っは!」

 口の中に残る海水を吐き出し、新しい息を吸おうにも身体がすぐに沈んでしまいそうになる。悠馬の顔まであげさせる余裕なんてなかった。自分の息をつぐのですらむずかしくて、あたしは沈みそうになる身体でもがいて懸命に浮上させた。

 屋台も、男性も、消えてしまっていた。深い霧のたちこめる海のど真ん中で、あたしは自分がどこに向かって泳げばいいのかまったくわからなかった。

 陸に行かなければ。

 でも、陸がどっちかわからない。

 下手に泳いで、もし沖へと行ってしまったら。戻ってくるぶんだけ体力を消耗して、陸まで泳げなくなってしまう。

 陸はどっち。

 陸の明かりが見えない。

 このままでは、あたしたちは溺れ死んでしまう。

「誰か……!」

 くるはずもない助けを求めるあたしの頭上を、冷たい風が吹いた。

「だれか……!」

 生ぬるくは、ない。冷たい、海の潮風。それがあたしの濡れた髪を撫で、そして霧をさらっていく。

 星空が見えた。視界が晴れた。

「あぁ……!」

 あたしはこれほど、あの灯かりに感謝したことがなかった。

 霧が晴れたおかげで、沖の漁火が見えはじめる。点々と灯る、白や橙の熱く燃えるような輝き。海で汗を流す、漁師たちの命の灯が、今またあたしの目の前に蘇ってくる。

 あの街は、にせものだ。

 にせものの街に背を向けて泳げば、ほんものの街に戻ることができるに違いない。

 あたしは悠馬の身体を抱えなおし、力をふりしぼって波をかいた。




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