7
動き出したくなる衝動を、あたしは腕に爪を立ててまでこらえる。足の感覚はもうなくなっていた。そして早かった呼吸は、影が動き始めたときに、自ら止めた。
あとすこし。あと、すこし。見えなくても、心で感じる。影が近づいてくる。そして、うずくまるあたしを見下ろしている。
微動だにしないあたしを心配して、そっと、手をのばしてくる。
「……っ!」
あたしは顔をあげ、その手をしかと掴んだ。
おどろいて逃げようとする影を、渾身の力で引き寄せる。外灯の光を浴びてもその姿は黒いままで、あたしは両手でその顔を包み込んだ。
「動かないで!」
狼狽して逃げようとする影が、あたしの一喝でおとなしくなる。背の高い影は、あたしに顔をまさぐられて、困ったように両手を胸の前でさ迷わせていた。
うっすらと無精ひげの生えたあごに、かわいてささくれた薄い唇。鼻梁の上に乗っているのは、きっと、眼鏡。
剛毛で、指に刺さる短い髪。厚い耳たぶ。たくましいうなじ。
確信して、あたしは影を抱きしめた。
「悠馬……」
影は、悠馬だった。
顔も服もわからないぐらい、すべて真っ黒になってしまっているけど。墨を全身にこぼしたわけではなく、身体の内側から影がにじみ出たようで、完全に色を失ってしまっているけれど。
指で触れればわかる。この姿かたちは、悠馬以外他ならない。
「気づかなくて、ごめんね」
抱きしめても、その身体から体温は伝わってこなかった。冷たいわけでもなく、むしろ生あたたかくはある。けれど、それはあたしと同じように、身体が発する熱ではない。どんなに強く抱きしめても、伝わってくる鼓動は弱々しいままだった。
影――悠馬が、おずおずと腕をまわしてくる。耳元に唇を寄せてなにか動かしているけれど、その口から声は出なかった。
――どうしてこうなっちゃったの?
そう訊こうとして、やめた。答えは自分の目で確かめたかった。
「……行こう、悠馬」
身体を離して、あたしは悠馬の手をとった。
お互いしっかりと手をつないで。あたしは悠馬を引っ張るように、道を外れて防波堤へと歩いた。
夏祭りの日と同じ、夜の砂浜におりる。
虫の声が聞こえない。生あたたかい風ばかりがふいている。磯の香りが強くて、けれど波はおだやかに寄せては返して岩の頭を撫でている。
海の向こうに浮かぶ、漁火の街。
その街から、ぽつりと離れたひとつの灯り。
あの屋台に、あたしたちはもう一度、行かなければならなかった。
4
どんなにつなぐ力をこめても、悠馬の指先からは温度を感じなかった。
その肌ですら、あたしと違う。指をうずめると、そのままやぶれて突き抜けてしまいそうなぐらい、もろい。存在までもが不確かで、何度も振り返らないと、いつか消えてしまいそうでこわかった。
あたしたちは再び、屋台への道を歩いていた。
陸にいたときはなんともなかったのに。海を渡りだしたとたん、あたりに霧が立ち込め始めた。
急に視界が悪くなって、足元ですらおぼつかなくなる。あの日と同じように、低い波の上を、目には見えない何かが道を作っている。海面の揺れが足に伝わり、まるで不安定な平均台の上を歩いているような気分だった。
いなくなっていないかと悠馬を振り向くたびに、陸がどんどん離れていくのがわかる。やがて陸の明かりは濃霧にかき消されて、そしてあたしたちが歩く道もまた、後ろから崩れ去っていくのが、踵に迫る波しぶきでわかった。
もう、戻れない。
でも、あたしたちは行かなければならない。
道の先に、ぼんやりと明かりがともっている。霧に隠れて姿こそ曖昧だけど、暖簾のすき間から漏れる光はたしかにわかる。自分たちが屋台に近づいているとわかると、自然とつなぐ手にも力がこもった。
夏祭りの日と同じなのに。同じように手をつないで歩いているのに。
いま、心の中にあるのは好奇心でも期待でもなくて。不安と恐怖ばかりで、なかなか足が前にすすんでくれなくて。
それでもお互いの手の感触だけを頼りに、前をすすんだ。もう、ふりむいても悠馬の影は霧に隠れてほとんどわからなかった。
暗闇に霧がたちこめて、視界は前よりも、すこしだけ明るい。霧をかきわけ海を渡って、ようやくたどりついた屋台はやっぱりなんの変哲もないおでん屋台だった。
暖簾を手で広げて、中をのぞく。やっぱりお兄さんがいた。
白いタオルをバンダナがわりに、目深に巻いたお兄さんは、あたしと悠馬の影を見て、その大きな唇をにやりと歪めた。
「――いらっしゃい」
まずはじめに、においが鼻をついた。
つんと刺すような刺激臭に、果物が熟れたような甘い香りも混じっている。けれどなによりも、ひどくすえた臭いが屋台の中にたちこめていた。
「今日は、なんにする?」
席につくのをためらうあたしたちなど知らぬ顔で、お兄さんは鍋の具をすすめてくる。鼻で息をするのをやめたあたしは、目を背けたくなるのこらえて中をのぞきこんだ。
この前来たときは、おいしそうなおでんだったはずなのに。
いま、あたしたちの目の前にあるのは、決して食べ物といえるものではなかった。
鍋からのぼる湯気はない。ぐつぐつと煮えるあぶくもない。ただそこにあるのは、切り刻まれて、汁に浸された具材のみ。
大根だと思っていたのは輪切りの手首足首で。
しらたきだと思っていたのは束ねられた頭髪で。
はんぺんだと思っていたのはどこかもわからない肉片で。
巾着だと思っていたのは内蔵の一部分で。
かまぼこは耳で。
牛すじは指先で。
こんにゃくは、舌で。
ちくわは――。
「――うっ」
腐敗し、悪臭を放つ男性器に、あたしはたえられず口を覆った。
彩ちゃんから送られてきたたまごの写真は、まぎれもなく、腐りかけた人間の眼球だった。
「ミワコ、どうかしたか?」
お兄さんに話しかけられたけど、それどころではない。あたしはその場に嘔吐してしまいそうになるのをこらえるのに必死で、悠馬とつないだ手も離して両手で顔を覆った。
「具合が悪いのか? なんか飲むか?」
親切で渡してくれたコップ。けれどその中にあるのは決して水ではなく。どす黒く変色して、腐敗した何かがまだらに浮かぶ、血液だった。
「……だめだ」
呟き、あたしは悠馬を引きずり暖簾を出た。
今にも吐いてしまいそうになるのを懸命にこらえて、あたしは悠馬の頭を乱暴につかんで引き寄せる。そのまま海面に手をつかせて、口の中に無理やり指をねじ込んだ。
あたしは、あのあと全部吐いた。だからもう身体にはほとんど残っていない。
けれど悠馬は食べて、そのまま身体に残った。だからきっと、こうなってしまったんだ。
抵抗しようともがく舌をおしのけ、口内をまさぐり喉を探す。そして指をありったけ奥におしやって、悠馬の身体がふるえるのを待った。
「――っ!」
彼の吐き出すものまでもが、真っ黒な影に変わってしまっていた。げえげえと吐く声ですら聞こえなくて、ただ淡々と、悠馬の口から液体が吐き出されていた。
あたしたちが食べたのは、死んだ人間の身体だった。
腐敗して、死の影を強くまとった、人であったはずの肉片だった。
「……ユウマ、ミワコ、大丈夫か?」
お兄さんの声が聞こえる。でも、あたしたちはこたえる余裕がなかった。
海の道は消えてしまっている。屋台のこのわずかなスペースだけが、あたしたちの立っていられる場所。このままここに残っていても、きっと潮の流れに乗って沖まで流されてしまうに違いない。
「聞いてるか?」
暖簾ごしに話していたはずの声が、急に近くなった。
お兄さんがこちらに来たわけではない。暖簾が消えたのだった。
嘔吐を続ける悠馬の背をさすりながら振り向けば、屋台の姿は跡形なく消えていた。
屋台の向こうにいるはずだったお兄さんは、ただその場に立ち尽くして。鍋は消え、切り刻まれた肉片がぐしゃりと嫌な音を立てて足元に落ちる。海の底に沈むわけではなく、あたしたちと同様、その遺体も海の上に浮いていた。