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電話がかかってきたのは、家族との買い物から帰って、お風呂あがりにぼんやりとベッドでうたた寝していたころだった。
『――美和子さん、今、電話しても大丈夫ですか?』
「彩ちゃん?」
電話の主は、悠馬の妹、彩ちゃんだった。
彩ちゃんとは、以前会ったときに連絡先を交換していた。それでもいつもはメールのやりとりだけで、電話がかかってくるのはとてもめずらしい。
「どうしたの? なにかあった?」
『お兄ちゃん、予定どおりに、先週美和子さんのところから大学に戻ったんですよね?』
「悠馬?」
電話越しにも伝わる、重い雰囲気。それにはっとして、あたしは彼女の小さな声を聞き逃すまいと耳をそばだてた。
『お兄ちゃん、昨日には帰ってくるはずだったのに、夜になっても今日になっても連絡ひとつないんです。ケータイにかけてもつながらなくて……それで美和子さんに聞いてみたんですけど』
「悠馬は、たしかに大学に戻ったはずだけど……?」
『連絡もなしに、帰りが遅くなるのはいつものことなんです。だから親もあまり心配してないんですけど、なんかわたし、心配で』
前に会ったときの彩ちゃんは、もっとはつらつとした話しかたをする子だった。けれど今は、消え入りそうな声で細々と話している。その不安そうな声色がなんだか今の自分と似ているような気がして、あたしは放っておけなかった。
『……あの、美和子さん』
「なに?」
『お兄ちゃんと、おでん、食べたんですよね?』
「うん、食べたよ?」
悠馬からメールがいったから、彩ちゃんも知っているんだ。そうだとわかっていても、屋台の話題が出てきたことに、あたしはなぜかまたあの吐き気が蘇りそうになった。
「彩ちゃんに送ったの、たしかたまごの写メじゃなかった?」
『たまご……?』
「違うの?」
言いよどむ彩ちゃんに、あたしは自分の鼓動がはやくなっていくのがわかる。どうか、自分が恐れていることになりませんように。そう祈るのだけど、無情にも彼女の声には届かなかった。
『送られてきたの、そんなんじゃなかったです……』
「どんなの、だったの?」
『なんか、あまり、言いたくなくて……すいません』
このままでは、本当に彩ちゃんの声が消えてしまう。そのかすれ声に、あたしはあわてて無理しないでと言った。
「まだその写メ、残ってる? よかったら、あとであたしのほうに送ってもらえないかな?」
『……いいんですか?』
「悠馬のことはさ、心配いらないよ。おとつい電話したとき、大学のほうでいろいろ用事できたようなこと言ってたしね。そのうちひょっこり帰るかもしれないしさ」
『そう……ですよね』
「うん。だから、彩ちゃんもあまり思いつめないで。メール送ってくれたら、その写メも消しちゃっていいからね。悠馬にはあたしからちゃんと言っておくから」
下手に話せば、自分も何を喋るかわからない。すこし乱暴だったけれど、あたしはそこで通話を切った。
電話を終えても、胸騒ぎがおさまらない。胸の鼓動は早くて、息もすこし乱れているけど自分でとめられない。ぐっと唇を噛みしめて、あたしは半乾きの頭をふった。
彩ちゃんには嘘を言った。
これ以上心配させないほうがいいと思った。ほんとうは悠馬と電話もしていないし、連絡がとれていないのはあたしも一緒だった。
――悠馬が、行方不明。
最後に悠馬を見送ったのはお父さんだったけど、バスに乗り込むところまで一緒にはいなかったらしい。ほとんど初対面のようなものなんだから、一緒にいても気をつかうだけだし。最後まで見送らなかったお父さんを責めるつもりはない。むしろ行かなかったあたしが悪い。
悠馬はバスに乗った。
そう、思いたかった。
「……来た」
ややあってから、約束どおり彩ちゃんからメールが届いた。件名も本文もなにもなくて、ただ、お願いしていた写真だけが添付されていた。
悠馬と一緒に行った夜の海。
あの夢幻のような空間が現実にあったと、たしかに証明するこの写真。
「――っ……」
あたしはそれを見て、こみあげてくるものをこらえるので精一杯だった。
●●●
親には友達に呼ばれたと嘘をついた。
あたしはサンダルをはくのももどかしく家を飛び出し、一目散にあの海沿いの道へと走り出していた。
ひとりになれば、あの影が必ず追ってくる。今晩もまた、あたしの後ろから気配がする。いつもはそれから逃げていたけれど、今は違う。心の中で、影がついてくるのを願っていた。
走れば、家から数分もかからずにあの道にはいることができる。あいかわらず誰もいなくて、虫の声と波の音だけがする、外灯の明かり今にも切れそうな薄暗く細い道だった。
あたしが帰ってから、地元の海はずっと穏やかだった。耳をすませば、寄せては返す波の音が静かに鼓膜を震わせてくる。磯の香りが強く鼻腔をくすぐって、潮まじりの風が髪をしめらせた。
走るのをやめ、あたしは外灯の下で、荒い息をつきながらうずくまった。
頭上では、蛾が何匹もはばたいている。あたしの肩にぶつかってくるのもいる。しじみのように地味で小さなものから、手のひらほどもあるペパーミントグリーンの蛾までが、消えかけの明かりの周りをぐるぐるぐるぐるとまわりつづけている。
海には今日も、漁火がともっていた。水平線の上に、街ができていた。その先に陸があるのかと思うぐらい、にぎやかな街が、うずくまるあたしをじっと見つめているような気がした。
だいぶ呼吸が落ち着いてきても、あたしは顔をあげなかった。食べたものを道端に吐瀉したときのように、じっと外灯の下でうずくまり、さも自分が無防備であるかのように見せかけた。
――さぁ、来い。
心の中で、そう呼びかける。あたしの後ろばかりをつけてくる、あの影に向かって呼びかける。
いつも一定の距離を置いて、決して近づいてこようとしない影。あたしが逃げるとあわてて追いかけてきて、けれど立ち止まると怖気づいて動かなくなる、その黒い姿。
近づいてくるのを、あたしはじっと待った。
磯の香りのまじった生あたたかい風が、膝に顔をうずめるあたしの髪をさらっていく。あれほどうるさかったはずの虫の声が、遠ざかり、小さくなる。波の音だけは規則正しく、ざわめきのように砂をかいて静かに響いていた。
――来い。
なかなか動かない影に、あたしは心の中で何度も念じる。はたして影はためらっているのか、それとも焦らしているのか。いっそ自分から動いてしまいたくなるけど、そうしたら影はきっと、逃げてしまうに違いない。
動きたくなる衝動をこらえるのに、あたしは自分の呼吸を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつと、数えてみてまだ自分の息が早いことに気づく。
疲れて早いわけじゃない。緊張して、呼吸が浅くなってしまっている。
数をどんなに数えようとも、影は動く気配を見せない。しゃがんだ足が、すこしずつしびれはじめてくる。顔をうずめているから空気も薄くなってきて、それでもあたしは決して動かなかった。
――お願いだから、来て。
唇を噛みしめて、口の中にそれが伝ってきて。ようやくあたしは、自分が泣いていることに気がついた。頬を、涙がいくつもいくつも伝ってくる。泣いていることに気づいたら、肩がふるえて、嗚咽まで漏れた。
その涙がどうして流れたものなのか、自分でもよくわからない。こわいのかもしれないし、悲しいのかもしれない。こうしてうずくまっていると、波の音がどんどん近づいてくる気がして、自分が海のすぐそばにいるような錯覚に襲われる。いつかそのまま、飲み込まれてしまうのではと思ってしまう。
夜の海が、こわい。
あたしの目から、またひとつ、涙があふれたとき。ようやく影が動いた。
「…………」
ひた、ひた、と。耳をすませばかすかにそんな足音が聞こえてくる。影はまだ、夜闇に隠れて姿を現さない。けれどあたしに近づいてくれば、この外灯の下にくれば、その姿が見えるかもしれない。