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 漁師は自然を相手に仕事をしている。大学に通うあたしとはまず、違う。陸の上で働く千由紀とも、違う。

 海があれば、どこででも働ける。

 けれどいつも、海の危険と隣り合わせで働いている。

 あたしの家は漁師じゃなくただの公務員だから、お父さんの仕事内容に不安を感じることはまったくなかった。けれど千由紀のように、海で働く家族がいると、やっぱりいつもどこか不安なんだと思う。晴れ渡って凪げた海はとても穏やかだけど、時化た海は本当に危ない。あの高波の中操業する漁船が、いつひっくりかえってしまうかと、見ていて不安になる。

 あの海に落ちたら、人なんてほんとうにちっぽけだ。

 海水浴ができる、足がついて遊べる浜辺なんて実はとても少ない。ダイビングで潜れる綺麗な海も、ほんとうに数えるぐらいしかない。

 海は綺麗で、豊かで、そしてこわい。

 うっかり深みに落ちてしまったら、まず足はつかない。それで頭が混乱しているうちに、波が来て海底に身体をおしこまれる。息をつく暇なんてほとんどなくて、どうにか身体を浮かせようとするだけで精一杯。

 あたしは子供のころ、海で溺れたことがある。だから、よくわかる。

 そのときはまだ浅瀬に近いところだったし、気づいたお父さんがすぐに助けてくれたので命に関わるような大事にはならなかった。トラウマになるほどでもなくて、別に今はふつうに、プールでも海で泳ぐこともできる。

 ただたまに、考えてぞっとすることがある。

 もし、海で溺れたら。

 そのまま死んでしまったら。

 そうしたら自分の身体は、海の底に沈んでしまう。

 救助が来て、身体を早く発見されればまだいいほうだ。

 でも、もし、発見されなかったら。

 あたしの身体はずっと海の底に転がっているわけで。潮の流れにもみくちゃにされて、海底の岩に身体をうちつけてどんどん傷だらけになっていくわけで。

 そして海に住む、貝や魚のえさになるわけで。

 手や足の指先は、真っ先に腐ってそこから食べられていく。でもきっと、身体の中で一番やわらかいのは目玉で。はやいうちにあたしの眼球はなくなって、そのうち眼窩を魚が行き来するようになるんだと思う。

 お腹の皮も食い破られて、内臓を引き出されて。衣服もぼろぼろになって、あちこち骨がむき出しになって。きっと海水を吸った顔はむくんで面影なんて全然わからなくなってしまって、身体のあちこちに貝やイソギンチャクがはりついて侵食されていくに違いない。

 そしてそのまま、海の一部になっていくしか、ない。

 けれどもし、その状態でも誰かに発見されたとしたら。

 漁船がごくまれに、海で亡くなった人の遺体を水揚げすることがある。それは不吉なことではなく、漁師の間では幸運なことだといわれている。

 けれどその遺体は、きっと腐敗して今にも崩れそうになっていてるわけで。腕をつかんだだけでもげてしまうかもしれない。むしろ、腕がなくなっている可能性だってある。

 そんな状態で発見された自分。

 でも家族は、その姿がどんなに無残であろうとも、遺体が見つかったことを喜ぶに違いなかった。

「……千由紀?」

 涙がとまらないようで、千由紀の涙があたしのジーンズを濡らしていく。そうとう溜め込んでいたのが見て取れて、泣かせてあげようと思い、あたしはただ頭を撫で続けた。

 千由紀はこわいんだ。もし、彼がそうなってしまったときのことを考えたら。

 悠馬は、海の楽しいことばかりしか知らない。

 でもあたしたちは、こわいことも知っている。

 だから、あの屋台に行くのがとてもこわかった。もし道が崩れて落ちてしまったら、あの暗い海に呑みこまれてしまったから。

 落ちなくても。ただ見つめるだけでも。夜の海には、引き込む力がある。だからそっと、浜辺から、ぼんやりとながめるぐらいがちょうどいい。

「だいじょうぶ、千由紀。こわくないよ」

 なかば自分に言い聞かせるかのように、あたしはずっと、千由紀の頭を撫で続けた。



 千由紀が落ち着くまでそばにいると、帰る時間がすっかり遅くなってしまった。

 泊まってもいいよと彼女は言ってくれたのだけど、翌朝から家族で買い物に行く約束をしている。すっぽかしたら絶対怒られるし、なによりそれを楽しみにしている両親に申し訳なかった。

 だからあたしは、深夜の海沿いの道を、ひとりで歩いていた。

 いちおう外灯はあるけれど、蛾の飛び交う電球は今にも消えてしまいそうなぐらい点滅しているのがほとんどで。夏の時期の漁師の家はみんな早くに寝てしまうから、カーテンのすき間から漏れる明かりも少なくて。

 夏祭りのときとは、ぜんぜん雰囲気が違う。ひとりで歩くのはとても心細かった。

 とにかく明かりがほしくて、あたしはケータイを開いて、液晶の明かりで道を照らして歩いた。夜が更けすぎたのか、虫の鳴き声もほとんど聞こえなくて、穏やかな波の音が響いて逆に不気味だった。

 明かりなら、海にもある。今晩もまた、イカ釣り漁船がでて、星空と海の間を漁火が点々とともっていた。

 でも、あの街は遠すぎる。あたしはあの街には行けない。

 あの街はにせものだ。深い闇の海の上で、命をはりながら働く漁師たちの、命の輝きだ。

 あの深い海の中に住む、魚や貝やたくさんの生き物と、その死骸が眠る深い深い世界の上で、ちっぽけな人間が懸命に生きている証の輝きだ。

「……?」

 じっと海を見据えていたあたしは、ふと、漁火とは違う明かりを海面に見つけた。

 屋台だった。

 あの屋台が、また、ある。それも千由紀の家のすぐそばに。なのに千由紀は会話の最中、屋台についてなにひとつ触れようとしなかった。

 なにより、時間帯が違う。悠馬と行ったときは、まだ日付が変わっていなかった。でも今は、そんな時刻もとうに過ぎていて、店を開けるような時間であるわけもない。客なんてはいるわけがない。

「……やっぱり、変だよ」

 あたしが呟くと、ざっと風がふいた。

 海から来る、冷たい風ではなかった。人肌に近いような、生ぬるい風がまとわりつくように吹きつける。その風にはっとして、あたしはシャツから出る腕をぎゅっとにぎりしめた。

 ――また、いる。

 ここ最近、あたしは誰かにつけられていた。

 それは決して、人ではない。気配でわかる。なにか黒い、影のようなものが、終始あたしのそばにいて離れようとしない。

 誰かといるときは気にならない。けれどひとりになると、必ずあらわれる。

 振り向くのが怖い。もしあの、外灯の下にいたらどうしよう。もし顔が見えたら。目があったら、どうしよう。

 ――こわい。

「違う。だれも、いない」

 あたしは自分に言い聞かせながら、走り出した。

 屋台の光が、沖でぼんやりとともっている。

 あそこに逃げるという手もある。でも、夜の海をひとりで渡る勇気はない。

「違う、違う、違う」

 ぶつぶつと呪文を唱えながら、あたしは家までの道を、ずっと走り、逃げ続けた。

 影はその後ろをついてきた。





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