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「こんなところにお店があるなんて、あたしぜんぜん知りませんでした」
「そんなに宣伝とかしてないからな。道行く人が見つけてくれるだけでいいんだよ」
「でも、こんなにおいしいのにもったいない……」
「ミワコがそう思ってくれるだけで十分だ」
ほんのり頬を染めて、お兄さんが言う。照れ隠しか、お皿にしらたきを乗せてくれた。
「夜の海って、あたし、なんか怖いイメージがあったんです。遠くから漁火を見るのはとても好きなんですけど、近くに行くと暗くてなんか、呑み込まれそうで」
「だから美和子、さっきすこしためらってたのか?」
顔をあげた悠馬は、ようやく気づいたようで、目を軽く見開いていた。でもその目も赤くなっていて、だいぶ眠いであろうことが伝わってくる。
「俺は海、好きだぞ? 地球の半分以上は海なんだ。地球は青いんだぞ?」
だいぶ呂律もまわらなくなっている。けれど彼は話すのをやめず、あたしの肩を抱いてはははと大きな声で笑った。
「俺、海に憧れてたんだ。ずっと山ばっかり見てたからさ、海のあるところに住んでた美和子がすごいうらやましかったんだよな」
「そんなに?」
「海は綺麗だし、魚はおいしいし。晴れた海なんてさ、太陽の光が反射してきらきら輝いてるんだぞ? 夕陽が沈むときは海まで真っ赤に染まるんだ。海の中には魚が泳いで、海草がゆらゆら揺れてて、イソギンチャクが触手をにゅるにゅる出しててさ。俺、将来絶対ダイビングやりたいんだよな」
一息でそう熱く語る悠馬に、あたしとお兄さんはそろって笑った。
海が身近にあるあたしたちにとって、海を見て受ける感動なんてたかがしれている。むしろ潮風に肌や髪が傷んで、車も錆びやすくなることのほうが心配で。嵐がきたら高波が危なくて、地震があれば津波の危険がある、やっかいな一面のほうが身に染みていた。
「夜の海とか、すごい綺麗なんだな。月の光がさ、海から浜辺までずっと広がってるんだよ。そんなの俺テレビとか写真でしか見たことなかったのに、今日は漁火まで見れたし!」
最高じゃん! 悠馬が叫ぶ。上機嫌に身体を揺らして、絡まれたあたしは苦笑を隠せなかった。
「でもね、悠馬。夜の海は、けっこう危ないんだよ?」
昼間の青く輝く海と、夜の深い闇を溶かした海は違う。夜に海面をじっと見つめていると、海に呑みこまれてしまうとあたしは小さいころからお父さんに言われていた。だから夜の海は、けっして深くまで近づこうとせず、一定の距離をおいて眺めるのが一番だと思っていた。もちろん、今もそう思っている。
「夜の海も、近づきかたを知れば、こわくないさ」
お兄さんは、ただそう言って笑うだけだった。
最後の最後でぼったくられるかと思っていたのに。本当にお代はただだった。
来た道と同じように、海の上を渡って、浜に戻った。帰り道ではもう、なんで海の上を歩けるんだろうとか、そういうことはほとんど気にしなくなっていた。
「悠馬、大丈夫?」
「へーき、へぇき」
足取りのおぼつかない悠馬は、あたしとつないだ手をぶんぶんとふって、まるで子供みたいに歌までうたって歩いていた。
「うまかったな、おでん」
「そうだね」
「花火も綺麗だったし、漁火も綺麗だったし。俺、来てよかったわ」
「ほんと?」
砂浜からあがって、もとの道路に戻る。海沿いの道は民家が転々と続いているから、悠馬の歌声が近所迷惑になるのではないかとあたしはちょっと心配だった。
海から離れて、遠くから眺めると。屋台の中では存在をすっかり忘れていた漁火が、沖で再びきらめいていた。
遠目に見ると、屋台がまたまぎれてしまってよくわからなくなる。屋台とお兄さんがどうやって浜に戻るのか、ちょっと考えてみたけどやっぱりよくわからなかった。
「悠馬、明日ちゃんと帰れる?」
「だいじょーぶ」
悠馬は今晩一泊して、明日になったらバスで大学に戻る予定でいる。バスの時間は早朝の一便目だから、これから寝てもほとんど時間がないはずで、これだけ酔っている悠馬がちゃんと復活できるのか不安になる。
「もし無理だったら、バスの時間遅くして寝てってもうちは大丈夫だからね?」
「いや、でも、美和子のお父さんが落ち着かないだろ」
さすが悠馬、酔っていてもあのぎこちない空気だけは覚えているらしい。彼は人当たりがいいからさっとお父さんの懐に入り込んでなじんだけど、それでも彼女の実家に来るということだけでそうとう神経をつかったと思う。
自然と、つなぐ手に力がこもる。悠馬を見上げて目が合うと、お互い笑みがこぼれる。海にばっかり気をとられていた彼が、ようやくあたしのもとに戻ってきたような気がした。
ああ、よかった。そう安堵の息をつこうとして、あたしの胃が急に痙攣した。
「――うっ」
つないだ手を離して、とっさに両手で口を覆う。それでも喉もとをこみあげてくるなにかはおさまらなくて、たまらずあたしは道端に逃げこんだ。
「……美和子?」
胃が暴れでもしているかのように、ひどい吐き気がする。身体がなにかを必死に吐き出そうとしているようで、こらえようとしてもえづくだけでまったく意味がない。
喉をせりあがってくる酸味に負けて、あたしは草むらに嘔吐した。
げほ、げほ、と時おり咳き込んで、食べたもの飲んだものを次から次へと吐いていく。その苦しさに涙まで出てきて、嗚咽のような声を漏らすあたしの背中を、悠馬がそっとさすってくれた。
「大丈夫か? めずらしいな美和子が」
あたしはお酒に酔っても、吐いたことがなかった。むしろいつもこうして吐くのは悠馬のほうで、介抱するのあたしの役目だったはずなのに。
ましてや今日は、お酒もほとんど飲んでいない。屋台にいる間に波に揺られて、船酔いのような感じになっていたのかもしれない。
吐き気にくわえて頭痛までしてきて、あたしは落ち着くのにしばらく時間がかかった。
その間ずっと背中をさすって声をかけてくれた悠馬は、だいぶ酔いがさめてしまったようで。胃から吐くものがなくなったのを確認すると、あたしを軽々と背中に乗せて家までの帰り道を歩いてくれた。
悠馬の広い背中から、あたしはぼんやりと海を眺める。漁火のつくりだす海の街は、まだまだ消えることなく輝き続けていた。
漁火は好き。
でも、夜の海はこわい。
ずっと見ているとまた具合が悪くなりそうで、あたしは悠馬の背中に額をうずめた。
●●●
「――美和子、いい加減起きなさい」
お母さんに部屋のカーテンを勢いよく開けられて、あたしはまぶたをさす太陽の光に思わず顔を覆った。
「二日酔いになるまで飲むんじゃないの」
「……そもそもあたし飲んでないもん」
まだかすかに痛みの残る頭をおさえて、あたしは布団から出る。枕もとの目覚まし時計を見ると、もう十一時をまわっていた。
昨日、お風呂に入らず服のまま寝たから、身体に潮の香りが残ってしまっている。それにまた具合が悪くなりそうで、あたしはすぐにTシャツを脱いだ。
「悠馬、は……?」
「ちゃんとお父さんが駅まで送ってったから。あとでちゃんと連絡いれときなさいよ」
結局昨晩、あたしは悠馬に背負われたまま家に帰って、意識をなくすようにぱたりと眠ってしまった。昏々と眠り続けた間に、何度か悠馬や親と話した記憶もあるのだけど、夢と現実がまざってしまってどれが本当のことなのかさっぱりわからない。
悠馬の見送りはできなかった。布団から動けないあたしのかわりに、お父さんが悠馬を駅まで送ってくれた。いや、いちおう動こうとは思ったのだけど、よほどあたしがひどい様子だったのか悠馬から『寝てなさい』と言われたから甘えたわけでもあって。
彼もかなり飲んでいたはずだから、ちゃんと見送って二日酔いになっていないか確認したかったのに。
「今日は高校に顔出しに行くんじゃないの?」
「うん……行くよ」
この身体の鈍さは、昨日の体調不良の余韻なのか、それともただの寝すぎなのか。ギシギシときしむ身体を動かして服を脱ぎ、あたしはひとまずシャワーを浴びることにした。
久しぶりの里帰り。毎日家でぐうたらするかと思いきや、けっこう予定がはいっている。今日は母校に行って担任だった先生のところに顔を出す約束をしているし、地元の友達から遊ぼうと誘いのメールがいくつも入っている。お母さんたちとしては娘を家においておきたいようだけど、あたしだって久しぶりに友達に会いたかった。
半裸の状態で家の中をうろついて、行儀が悪いとお母さんに怒られる。バスタオルを肩にかけてお風呂場に行き、痛む頭をふらつかせながら下着を脱ぎ、いざ浴室にはいろうとして、あたしは足をとめた。
「……?」
なにかが、背中に触れた気がした。
ぞろりと、冷たい感触。それは肩にかけたタオルの感触では、決して、ない。
なにか、指のようなものが肌を伝ったような。体温とは違う生あたたかさが、肩甲骨のあたりにかすかに残っている。
後ろには、誰もいない。いるわけが、ない。
「――お母さん、先生から連絡きたら言ってね!」
あたしは決して後ろを振り返るまいと浴室にとびこみ、蛇口をひねって冷たいシャワーを頭から浴びた。