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 違う、と思ったけど、嫌ではない。ほんのりアルコールの残る唇を噛みながら、あたしは恐怖なんてすぐに消えて笑ってしまいそうになるのをぐっとこらえる。しっかりと手をつなぎながら歩き続けると、ようやく屋台が間近に迫ってきた。

 あたしも悠馬も、船の上に屋台が乗っているものだと思っていた。

 けれどそこにある屋台は、船でもなんでもなかった。

 漂ってくる香りでわかる。これはおでん屋台だ。よくテレビドラマなんかに出てくる、夜の駅前で赤い暖簾を下げた、車輪で移動できるリヤカーみたいな屋台だった。

 海の上であるはずなのに。船に乗っていないというのに。屋台は沈むこともなく、車輪を水面の上にしっかりと立たせていた。波の動きに屋台を揺れさせながらも、沈む気配もまったくなく。暖簾の間から見え隠れする客用の椅子までもが、海の上に乗っていて。

 不思議だった。

 その不思議さを、あたしたちはあっさりと受け入れてしまっていた。

「――いらっしゃい」

 屋台に近づくと、中から声が聞こえた。若い男性の声に、あたしと悠馬は顔を見合わせ、こくりとうなずいて暖簾をくぐった。

「ずいぶん、若い客がきたな」

 くぐるなり、照明の明るさが目に染みた。外からだと暖簾に隠れてぼんやりはかない明かりだけど、屋台の狭い空間では、裸電球ひとつの輝きがとても強く感じる。湯気がたちのぼって、すこし蒸し暑かった。

「あの、ここって……?」

「普通の屋台だよ。最近ぜんぜん客が来なくて閑古鳥が鳴いてたんだ。遠慮しないで座りな」

 屋台の店主は声のとおり若い男性で、もちろんあたしたちよりは年上だけど、まだ三十路には達してないようだった。白いタオルをバンダナのように頭に巻き、目深すぎて目がほとんど見えない。すっと通った鼻筋や薄い唇と、茶色く染めた髪だけはちゃんと見えた。

 一瞬、こわい人かなと思った。けれどその屈託のない話しかたと、唇からのぞく八重歯に愛嬌があって、それにすこしほっと安心してあたしは椅子に座った。

 悠馬はもう先に座ってしまっていた。そしてあたしが座ったのを見て、つないでいた手を離してしまう。それがちょっと心もとなくて、あたしは椅子を近づけて悠馬の隣にぴったり寄り添った。

 悠馬はすっかり、屋台に夢中になってしまっていた。そもそも発見したのは彼だし、行こうと言ったのも彼だった。身体からわくわくと楽しそうな空気がにじみ出ていて、屋台のお兄さんを興味深そうに見つめていた。

「なににする?」

「たまごがいいな」

「酒は?」

「飲みます」

「……ちょっと、悠馬」

 さくさくとすすんでいく話に、あたしは思わず彼の膝を叩く。カウンターの上にお皿を出され、箸を置かれ、注文まで始まって。いつの間にか飲むことにもなってしまっている。

 屋台に来たんだからそういうつもりではあったけど。でも、なんだか軽率すぎる気がした。

「いいじゃん、おいしそうだろ?」

「そりゃ、そうだけど……」

 目の前で湯気をあげるおでんの鍋に、あたしもかなり誘惑されている。四角い鍋は鉄板で仕切られていて、たまごやがんもや、はんぺんやちくわが行儀よくぐつぐつ煮込まれている。あたしはおでんなら大根が好きだった。

「おふたり、名前は?」

「悠馬です」

「美和子、です……」

 つい、お兄さんの雰囲気にのまれてしまう。ユウマとミワコか、と呟くお兄さんは、長い菜箸であたしと悠馬のお皿に大根を取り分けてくれた。

「ミワコ、酒は?」

「いえ、あたしは……」

 悠馬はすでに日本酒をいただいて、嬉しそうに口をつけている。いちおうあたしたちはまだ十代なのだけど、大学のサークルだなんだで、飲みにはすっかり慣れてしまっていた。

 別にお兄さんに言わなければ未成年だってばれないだろうし。どうせ今年で二十歳だし。悠馬は堂々と飲んでいるけれど、あたしはなんだかお酒を飲む気分になれなくて、お兄さんがくれたオレンジジュースをちびりと舌でなめた。

「じゃんじゃん食べてけよ。お代はいらないからさ」

「えっ……」

「本当ですか? やった!」

 それって怪しくないだろうか。あたしはそう思うのだけど、悠馬は違うらしい。ぼったくられるのではとか、後々なにかが起きるのではないかとあたしは警戒してしまうけど、表情が顔に出ていたのかお兄さんは八重歯を見せて笑った。

「どうせ今日はもう客こないだろうしさ。材料あまって捨てるのももったいないだろ? 未成年に酒飲ませちゃってる時点で、こっちも仕事じゃなくなってるしな」

「あ……」

 ばれていた。お兄さんの目には、大人ぶっているあたしたちのことなんてお見通しだったのだろう。

「だから、遠慮なく食べてけって。ミワコの好きな大根はいっぱいあるしさ」

「……はい」

 あいかわらず目から上は隠れてしまっているけど、にやりと笑う唇に、悪いものは感じられない。すこしの間ためらったあと。あたしはおずおずと箸を伸ばした。

 見るからに味が染みていそうな茶色い大根は、箸でつつくとすぐにほろりと崩れた。一口ぶんだけ切り分けて、口に運ぶ。隣ではもう、悠馬がひとつ完食していた。

「……おいしい」

「だろ?」

 お兄さんと悠馬と、ふたりの声が重なる。ふたりそろってにやにや面白そうな表情を浮かべて、なんだかくやしいけれど、あたしは食べることをやめられなかった。

 お母さんの味とも、コンビニの味とも違う、屋台の味。こんなにおいしいおでん、今まで食べたことがない。

 箸がとまらなくて、切り分ける一口も大きくなって。あたしはあっという間にぺろりとたいらげてしまった。

「次は、たまごかい?」

「うん。染みてるやつがいい」

 悠馬のリクエストで、今度はお皿にたまごを乗せてもらう。すぐに箸をつきたてるかと思っていたら、彼はいったん箸を置いて、おもむろにジーンズのポケットからケータイを取り出した。

「彩ちゃんに?」

「うん、そう」

 ぱしゃり、とケータイが鳴る。たまごの写メをとり、いそいそとメールを打ち始めた悠馬には、地元の高校に通うふたつ年下の可愛い妹がいた。

 彩ちゃんには、あたしも会ったことがある。おしゃべり好きで、悠馬と同じ二重まぶたの、可愛らしい子だった。よく彩ちゃんから何気ない日常をおさめた写真つきのメールが届くので、悠馬もこうしてたまにメールを送るのだった。

 きっと、『このおでんうまいぞ』という、簡潔な文章を書くのだと思う。悠馬のそんな様子を、お兄さんはものめずらしげに見ていた。

「……おし、送った」

 言って、悠馬はケータイをポケットにしまう。そしてあらためて「いただきます」と手をあわせて、たまごに箸をいれた。

「やっぱ、うまいわ」

 一口食べるなり、ほんとうに嬉しそうに、黒縁眼鏡の奥の目を細める。一度食べるととまらないようで、息つく間もなくあっという間に食べ終えてしまう。次のはんぺんをもらうと、それもまたほんの三口で胃の中におさめた。

「ミワコも食べろよ」

「食べてるよ」

 あたしだって食べている。ただ、悠馬のペースについていけないだけ。たまごは黄身がほくほくでおいしいし、味もよく染みている。濃すぎず薄すぎない味付けは飽きないし、喉を潤すオレンジジュースもまた新鮮でおいしかった。

 それぞれ違うものを食べていると、悠馬が「それ、なに?」と訊いてくる。あたしがこんにゃくの最後の一口食べさせると、見かねたお兄さんが同じものを悠馬に取り分けた。

「遠慮しないで食えよ。腹いっぱいになって帰ってくれな」

 そう言って、お兄さんはあたしたちの皿を空にしない。そんなにお腹がすいていたわけでもないのに次から次へとたくさん口に運べて、酔いのまわった悠馬とお兄さんの会話を聞いているのがとても面白かった。

 はじめの警戒心は、いつしか薄れつつあった。

「でもほんと、この屋台、不思議ですよね……」

 あたしがしみじみ呟くと、お兄さんが「だろ?」と笑った。

「なんで、海の上に浮いてるんでしょう? 海の上も歩けたし、なんか板みたいなの浮かべてるんですか?」

「それは企業秘密だから言えないんだな」

 笑って流しながら、お兄さんがジュースのおかわりをくれる。悠馬の顔はすっかり赤くなって、目もとろんとしはじめた。あたしの肩におでこをのせて、じゃれついてくる。


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