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「海のむこうに、街があるみたいだ」

 しみじみと呟いた悠馬の言葉に、あたしのお父さんがくわえ煙草でにやりと笑った。

「よし、じゃああそこに飲みに行くか」

「えっ、本当に街なんですか?」

 期待をこめた声で話す悠馬に、あたしは笑いをかみ殺しながら違うと首をふった。

 はじめて漁火を見る人を、お父さんはいつも、こう言ってはからかうのだった。

 海沿いの漁師町の、夏の夜の風物詩。

 それはイカ釣り船の漁火が魅せる、夜の海に点々と浮かぶ小さな街の姿だった。

 月明かりに照らされて浮かぶ深い藍の水平線に、ぽつり、ぽつりと光が灯り。それがどこまでも続いてまるで海の上に街があるかのように見せている。

 なにもないはずの海に灯る明かりの正体は、イカを寄せるために照らす、漁船の漁火だった。

 海のむこうでは漁師たちが汗を流しながら仕事をしているというのに、陸から見ればそれはまるで別世界のようで。あたしは夏にあらわれるこの漁火の街を、海沿いの道からぼんやり眺めるのがとても好きだった。

 昼間は暑くてだるくなってしまうけど、夜の海は涼しくてむしろすこし肌寒い。浜から吹くささやかな潮風に、お父さんの煙草の煙が乗ってあたしの髪をさらっていく。

 小さな田舎町の、小さな夏祭り。花火を見終わって、海沿いの道を歩きながら家に帰るのが、毎年恒例のあたしの『夏』だった。花火だけじゃだめだし、海だけでもいけない。この漁火の街がないと、満足できない。

 娘の彼氏に対する接し方のコツをようやくつかんだお父さんが、悠馬相手にあれこれうんちくをならべ語りはじめている。懸命にそれにあわせながら先を歩く悠馬に、あたしとお母さんは顔を見合わせて笑った。

「――美和子。お母さんたち、まっすぐ帰るけど?」

「あたしたち、もうちょっとぶらぶらしてから帰るわ」

 お母さんが、遅くなりすぎないようにと視線を送ってくる。あたしがそれにうなずきで返すと、お母さんはなにか言いたげながらも、熱弁をふるうお父さんの腕を引いて話をさえぎってくれた。

 お父さんも祭りのビールでだいぶ出来上がっているみたいで、よろめきながら歩くのを支えるふたりの姿はちょっといちゃついてるようにも見える。それがまたなんだか微笑ましてくて、あたしはにやつきながら見送り、ぼんやりと海を眺める悠馬の背を叩いた。

「お父さんと話すの、疲れるでしょ?」

「いや、漁火のこといろいろ教えてもらって、面白かった。漁火って、明るいところに寄ってくるイカの習性を利用してるんだな……」

 悠馬もすっかり漁火の街に惚れ込んでしまったようで、立ち止まって海に釘付けになっている。彼もまたアルコールがはいってるけど、お父さんほどじゃない。あたしはすこし考えてから、悠馬の手を引いてコンクリートの道を外れた。

 防波堤の切れ間から、砂浜に降りる。今日の海は穏やかで、水面に落ちる月明かりがどこまでも続いている。ちょうど引き潮の時間のようで、ちょこちょこと岩が頭をだしているのが見えた。

「おー、すごい……」

 夜の砂浜を歩くのははじめてのようで、悠馬はあたしに手を引かれたまま、スニーカーでしめった砂を蹴っていた。瞳はあいかわらず海に魅せられたままで、あたしが見上げてもこっちなんて見てくれない。

 山とビルに囲まれて育った悠馬にとって、海はやっぱり新鮮なんだと思う。

「すごいな。本当に、あそこに街がある」

 その呆然とした呟きが、あたしはすこし不安だった。

 夜の海は綺麗。

 でも、見つめすぎると呑まれてしまう。

 生活の中に海がなかった悠馬は、それを知らないようだった。

「あのね、悠馬……」

「美和子、あれ」

 悠馬が、ふいに海を指さした。

「あれ。漁火じゃ、ない」

「え……?」

 その指先につられて、あたしも海を見た。

 海の向こうに浮かぶ漁火の街。

 その中で、たしかにひとつだけそれとは違う灯りがあった。

 目を凝らせば、それは漁火の街よりも陸に近く、波の上に浮いているのがわかる。灯りも、他の船よりも強くない。さっきまでまったく気づかなかったけど、悠馬に言われてようやくわかった。

「あれ、なんだろう?」

「船じゃないよね?」

 手をつないだまま、海へと近づく。足に波がかかって濡れそうになって、岩にあがってつま先で立った。

 手でひさしをつくって、あたしはじっと、その灯りを見つめる。悠馬も眼鏡をくいとあげて、これでもかというくらい首を伸ばして見つめていた。

「……屋台?」

「あたしも、そう思う」

 海の上に、ぽつりと、屋台が浮かんでいた。









    1



 一昨年。高校を卒業して、あたしは田舎の漁師町を出て大学に進学した。

 去年。はじめの年の夏休みは、一人の生活にいっぱいいっぱいになってホームシックになりながら実家に帰って、久しぶりに会ったお父さんとお母さんの前で泣かないようにするので精一杯だった。

 今年。二年生の夏。あたしは彼氏を連れて、実家に帰った。

 お父さんもお母さんも、悠馬の存在にとにかく驚き戸惑っていた。けれど、山育ちの彼に海を見せるため、と言ったらしぶしぶ納得してくれた。なにもあたしの帰省期間中ずっといるわけではなくて、悠馬がいるのははじめの二泊三日だけ。その後彼はいったん大学に戻り、用事をすませてから自分の実家に帰る。あたしも残りの日は地元でゆっくりする。お互いのサークルや講習の都合で帰るのがちょうどお盆のお祭り時期と重なってしまったというか、せっかくだからふたりでお祭りに行きたかったというか。

 なにせひとり娘が初めてつれて帰った彼氏だったので、あたしは両親に変な気をつかわせないようにするので必死だった。

「……これ、どうなってるんだろうな?」

 そんなあたしの奮闘を知ってか知らずか、悠馬はのんびりとした口調で足もとを見下ろしている。手はずっとつないだままで、絶え間なく吹く潮風にお互い指先が冷えているけれど、あわさる手のひらはとてもあたたかった。

 海の上に浮かんだ屋台に行くべく、あたしたちは海を渡っていた。

 不思議なことに、ふつうに海の上を歩いていた。屋台へ続く場所だけに、なにか見えない道のようなものができていたのだ。足が海に沈むこともなく、波につま先が濡れることもなく、ただただ見えない道が、屋台へとまっすぐに続いていた。

 海の上に、透明なプラスチックかビニールで、道をつくっているのかもしれない。そう結論づけて、あたしたちはひたすら海の上を歩いていた。

「でもどうして、海の上なんかにあるんだろうな?」

「新しいお店なのかなぁ? お母さんもなにも言ってなかったけど……」

 あの屋台も、この道も、非現実的だということに、あたしも悠馬も気づいていた。なにかおかしい。怪しい。でも、気になる。夏休みの海で起きている、この不思議な出来事に好奇心をかきたてられて、歩くことをどうしてもやめられなかった。

「ま、海に落ちてもお互い泳げるしな」

「海とプールはぜんぜん違うんだよ。ここまで離れちゃったら、泳ぐのもほんとうに大変だし」

 あたしは言って、ふと陸を振り返る。いつの間にか、だいぶ離れてしまっていた。屋台があるのはさほど沖じゃないし、たどりついてもまだ陸が見えるところにあるんだろうけど。万が一海に落ちたら、足なんてぜったい届かないところにいる。

 この、波の下にある海の世界。真っ暗でなにも見えなくて、その中をたくさんの生き物が泳いでいる、空気のない世界。もし海に落ちて、この暗闇の海を泳いでる最中に、なにかが足に触れたとしたら。驚きよりも恐怖が勝るのだと思う。

 もし、落ちたら。海面を見下ろして、あたしの腕にぞっと鳥肌がたった。

 嫌なことを考えてしまった。それをふりほどきたくて、悠馬の手を強く握る。悠馬はそれをあたしの甘えだと思ったのか、目が合うとにやりと笑ってキスをしてきた。


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