途方もない夢
隙間風が入るようなボロボロのアパート。
テーブルの上にはかびたパンが転がり、器に入ったままのスープはとっくに冷めてしまっていた。
たった一室しかないこの古く不衛生な部屋の中、独りの老女が無地のキャンバスを見つめながら泣いていた。
彼女は画家だった。
より正確に言うならば売れない画家だった。
幼いころから絵を描くのが好きだった。
故に画家として生きるのを志し、そして死にゆく今も彼女は間違いなく画家だった。
ただ一つだけ付け加えるのならば誰にも知られていない画家なのだ。
つまり無名。
彼女の周りに積み上げられた絵画は全て値段がつかずに売れ残ったもの。
心血を注いで描き上げたというのに、それを誰にも理解されず受け入れられなかったもの。
一つとして売れることがなかった作品はそのまま彼女を苦しめる傷と変わってしまった。
傷だらけになった彼女はもう直に自らの命の火が消えてしまうのを知って、せめて最後に一つ自分自身だけでも納得出来るような作品を描こうと決心してキャンバスを見つめていたのだ。
しかし、いくらキャンバスを見つめていても何も描けない。
いや。
実際には幾つもの世界が彼女の内にあるものの、それら全てが決して受け入れられなかったという重い現実が幾度も幾度も彼女を苛み、描こうとしたものを何度も何度も打ち消してしまうのだ。
そうして、何も出来なくなり老女は無地のままのキャンバスを見つめて泣くばかり。
もう何も出来ない。
このまま死ぬしかないんだ。
そんな絶望の中で泣き続けていると不意に老女は声をかけられた。
驚きそちらを見つめるとタキシードを身に纏った老紳士が丁寧な動作で一つお辞儀をする。
「進捗はいかがでしょうか」
「見ての通りですよ。何一つ描けてはいません」
彼が何者かも分からなかったのに不思議と恐れはなかった。
「さようでございますか」
そう言うと老紳士は絵画を眺めた後に左手の指を一本立てて言った。
「一つ、提案がございます」
「提案?」
「はい。実はわたくし、しがない悪魔でございまして。今もこうして人間の魂を探し求めているのです」
老紳士は場違いなほどに穏やかに笑っており、あまりにも孤独に生きていた老女は愚かにもその笑顔を見て、人間が本来抱くべき恐れを失ってしまった。
「提案とは何ですか?」
「単純なものでございます。あなたの魂を私に捧げてくださいませ。そうしたなら、残された時間でこのキャンバスに傑作を描ききるだけの力を私はあなたに差し上げます」
「傑作」
「はい。嘘偽りのない傑作です。何せ、多くの人々があなたの作品を見て感嘆の声を漏らし、時にはあなたを称え、時にはあなたが失われたことを嘆くほどに、あなたが描くものは偉大な価値を持つようになります」
老女は思わず唾を飲みこんでいた。
あとどれだけの時間を生きていられるかなんてわからない。
分からないが、長くはない。
そんな確信がある。
「それは本当なの? 死んだあとのことなんて何も分からないじゃないですか」
「はい。その通りです。ですので、サービスとしてあなたの作品が傑作となり褒めたたえられている光景をお見せすることを約束いたします」
老女は少しの間だけ考えて尋ねた。
「もし、あなたに力を借りずに作品を描いたらその作品はどんな扱いになるの?」
「残念ながら見向きもされません。あまりにも残酷なことですが、私が力を貸さない限りはあなたの作品には何の価値もないのです」
ばっさりと言い切られた事実が逆に老女の踏ん切りとなった。
今まで何を描いてもうまくいかなかった故に悪魔の言葉には実感の伴う重みがあった。
「わかった。私の魂をあげる。だから、お願い私に傑作を描く力を頂戴」
そう伝えると同時に悪魔は恐ろしいほどに笑みを深めて言った。
「かしこまりました」
その言葉を聞くと同時に老女の意識はふっと消えた。
老女が目覚めるとそこは美術館だった。
多くの人々が一つの絵画を見るためにとんでもない長さの行列を作っている。
その長さは美術館内を蛇のように蛇行しても足りずに外まで続いていた。
「ごらんください」
あの悪魔が隣にやってきて言った。
「あなたの作品です」
そう言われて老女は思わず駆けだして自らが描いた作品の下へ向かい、そして。
「え?」
思わず老女は声を落とした。
『途方もない夢』
そう題名付けられた作品は、飾られていた絵画は、何も描かれず無地のままだった。
「どういうこと?」
そう言って悪魔へ振り返ると彼はさも愉快だと言わんばかりに一方を指差した。
そこには作品の解説が乗っており、老女が慌てて読み上げると以下のように書かれていた。
『最期の瞬間にまでキャンバスに向かっていた画家の作品。一見すると何も描かれていないが、この画家は最後までこの白い世界に数えきれないほどの作品を思い描き楽しんでいた事だろう』
呆然とする老女の隣に悪魔がやって来るとその肩を軽く叩いて笑った。
「芸術なんてこんなものですよ」
老女は悪魔を睨みつけると悪魔は軽く首を振って言った。
「勘違いなされぬように。私がこう喧伝したわけではありません。あなたの遺体を発見した人間が、あなたの作品が転がる部屋とまっさらなキャンバスを見て金のなる木だとばかりに売り出したのですよ。全く、人間の考えることは実に恐ろしい」
その言葉を受け取った老女の目からぽつり、ぽつりと涙が落ち始める。
それを拭いながら悪魔は再び告げた。
「芸術なんてこんなものですよ」
その言葉が微かに同情に満ちていた物であるのを感じ、それがせめてもの救いだと老女には思えた。
視線を戻し再び自分が『描いた』作品を見つめた。
『途方もない夢』
何も描かれていない無地のキャンバスは白々しくも名画のような荘厳さを湛えていた。