清き水に恋をした。
次男坊というのは楽なものだ。
期待もされなければ、しがらみもない。
しかしそれは、なんの力も持たないということを君と会って痛感した。
~清き水に恋をした。~
ジェッタ・ウィンチェスター。12歳。
騎族と呼ばれる騎士の家系のひとつ、ウィンチェスター家の次男坊だ。騎族、といったところで、ぶっちゃけ、ウィンチェスターは墜ちた騎族であって、そこの次男坊である俺だって落ちこぼれなわけ。
それでもやっぱり騎族には違いないから、騎士になりたいって入門してくる奴は後が絶たず、今では現役を退いたじぃさんが指導している。ちなみに親父は、騎士なんかじゃ食っていけんとかで、俺が10の時に女連れて出ていった。まじ糞親父だわ。
兄貴?
あぁ、兄貴は一応騎士やってる。他の騎族が団長やってる騎士団の、隊長補佐とか言ってた。でもそれって雑用じゃねぇの?って言いたくなることばっかやってたけど。
次の団長候補の、なんとかっておっさんに変わったら何か変わんのかな?ま、俺には関係ないか。所詮、次男坊にはそんな話は回ってすらこないし。
だから、面倒い仕事は大抵俺らウィンチェスターに回ってくる。今回のこれもそれ。
水の村ってとこがあるんだけど。
そこで祭があって、その祭の間村を守ってほしいんだと。しかも1週間。衣食住は面倒見てもらえるらしいし、俺と兄貴の2人が向かうことになった。
守るんだからもっと人手必要だろって抗議したら、次男坊の提案はなかったことにされた。兄貴はこんな時、何も言わない。だから墜ちた騎族って言われるんだよ、ったく。
「うわ、まじでただの村じゃん……」
着いたその村は、中心に湖があって、その周囲をぽつりぽつりと家が囲むように建っていた。少し歩けば海岸に出られるとかで、そこから見る夕焼けは綺麗らしい。
流石に1人で見ようとは思わないけど。
「ジェッタ。兄さんは少し長殿と話してくるから、余り遠くへ行くなよ」
「へいへい」
こういう時だけ兄貴ヅラされても困る。団長になろうとすら思っていないくせに。家のことも、王家のことも、何も考えていないくせに。
「あれ。なんだあの女……」
それは、流れ行く水のような人だった。彼女が歩けば、そこは川が流れるかの如く道が出来る。
左右に避ける村人たちが、彼女を見てすらいないことにも俺は疑問を持って、つい近づいてその腕を掴んだ。
「何……?」
振り返った彼女は、俺より身長が高くて、つい俺はむっとして自分から掴んだ腕を乱暴に離した。
「……わりぃ。でもアンタ、生きてんのか不思議だったからさ」
「そう」
それだけ答えて、彼女は村人の合間を器用に縫って消えていった。もちろん俺はそれを見送って、しばしの後、それとなく偉そうな村人からお叱りを受けた。
それが俺、ジェッタ12歳。
そして彼女、ヴァッサ・アリア15歳の出来事だ。
※
祭と言っても、この水の村はどうやら水の術によって守られているらしく、厳密に言えば、その術者を護衛してくれればいいとのこと。ちなみにその術者――神使は、昨日見た彼女のことらしく、俺は兄貴と一緒にお迎えに馳せ参じたわけだが。
「は?いない?」
「え、えぇ、アリア様なら朝どこかに出かけてしまって……。術は解かれていないようなので、近くにはいるはずなんですが……」
困り顔の村人に詰め寄っても仕方なし、俺と兄貴は手分けして探すことにした。
余り村に詳しいわけでもなく、さらに村人は、部外者の俺と関わりたくないと言わんばかりに避けていくので、俺は気づけば村外れの森の中にいた。ちなみに迷子ではない。12にもなって迷子はまじでない。
「ちょっと疲れた……」
慣れない獣道に足はヘトヘトだ。こんなことなら、真面目に訓練受けとくんだった。どこかで休んでもバレはしないだろうと、休める場所を探していた俺は、いきなり視界が開け、そして目の前に広がる海に驚いた。
「え、え?なんで海……」
後ろには歩いてきた森が確かにあって、でも目の前に広がる青い空と、そして砂浜に戸惑いを隠せずにいると、砂浜にぽつんと佇む青髪が見えて俺は思わず駆け寄った。
「おい!」
「……?」
呼びかけた俺にちらりと目をやって、しかし興味がないと言いたげにまた視線を海へと戻され、俺はイラつきを隠そうともせずにその肩を掴んだ。
「なぁ、アンタ、俺を誰だと思ってんだ」
「誰……?子供」
「ガキ!?俺はなぁ、アンタの護衛をしに……!」
来たんだ、と言いかけて、俺は自分が水滴の中にいるのに気づいた。息が出来ず、つい苦しさで水を飲んでしまうが、それで楽になれるわけはない。
特に合図をするわけでもなく、その水滴は急激に消えていき、やっと解放された俺は酸素を求めて大きく咳き込んだ。
「うっ、ごほ……っ、あ、アンタなぁ……!」
涙目になりながらも彼女を睨みつけると、彼女はため息と共に俺を冷たく見下ろしてきた。その氷のような視線に、俺はそれ以上を言えずに固まってしまう。
「私より弱いのに、貴方は何を守るつもりなの?自分の威厳と、お家の尊厳かしら?」
「……」
「わかったら早く帰りなさい。貴方の意味は、ここにない」
「……んなの」
「え?」
悔しくて涙が出てきた。鼻もずるずるしてるし。
でもなんでだ、悔しくて悔しくて。女に負けたとか思いたくなくて。
「そんなのわかってるよ!弱っちい俺がいたって、なんの意味もないことくらい!なんだよ、なんなんだよ!」
地団駄を踏んで泣き喚いた。彼女はそんな俺を、まるで汚物でも見るような目を送ってきて、ただ一言。
「え。八つ当たりとか、うざ……」
先にすたすたと帰っていく彼女を慌てて追いかけて、俺は情けなくも「置いてくなよ!」とまた泣き声を上げた。
※
毎年。
欠かさずにその祭は行われ、そしてウィンチェスターが毎年護衛の任についた。その度に俺はアリアから子供扱いされ、弱いと言われ続けては祭の期間を終えて帰るという、なんとも情けない醜態を晒していた。
俺、ジェッタ、18歳。
彼女、アリア、21歳。
6年も通っていれば、大抵の村人とは顔見知りになっていて、それなりに挨拶程度ならしてくれるようになった。だからその日、いつもの海岸にアリアを迎えに行く前に、俺はそれを聞いてしまった。
「やぁ、ウィンチェスターの次男坊。今年もアリア様にやられに来たのかい?」
「ちっげぇし。護衛だよ、ご、え、い!」
「はははっ、今年も元気がいいなぁ。でもそうするとあれだね、来年が最後かなー」
村人の何気ない一言に違いないそれは、俺を食いつかせるにはとても十分過ぎて。掴みかかる勢いで、俺は村人に問いただした。
「それ、どういう、こと!?」
「アリア様は身体が強くないからね、神柱になってもすぐに身体が失くなるだろうから、早く跡継ぎを作ってもらうんだよ。どっかの王族の人との間にね」
神柱。軽くなら俺だって知っている。
神様に、これからも水という元素を絶えず使わせて下さいっていう為の、言わば生贄のことだ。
それにアリアがなる?てか、子供作らせて、しかもその子供は神柱の為に生まれてくる?
そんなの、意味のある人生って言えんのかな。
俺は村人の話も途中に、毎年待っている海岸へ急いだ。
「アリア……」
寄せてくる波に足を遊ばせながら、アリアはどこか遠く、いやそれは俺の故郷の国があるほうを静かに見つめていた。
「あら。また貴方が来たの?」
「いい加減、名前覚えろよ……ったく」
俺も靴を脱いで波と遊ぶ。聞きたいことはあるのに、アリアの横顔を見ていると、不思議と言葉は何も出てこなくて。待ちそびれたように、アリアがため息をついた。
「……ねぇ、知ってる?」
「あん?何が」
「アリアって、別に私だけじゃないのよ?」
その意味はすぐにわかった。
彼女たちの名は、他の、例えば風を司る村にもアリアという人物がいて、区別をつけるために水のアリアという呼び方をする。
だからなんだ、何が言いたいのだアリアは。
「で?」
「アリアは私じゃない。私の意味なんて、最初から無かったのよ。名前にすら、ね」
「……俺の知ってるアリアは、ヴァッサ・アリアだけだし、俺が好きになったアリアは、アリアだし」
駄目だ、後半部分が小さくなった。
波の音で聞き取れなかったのか、アリアは首を傾げて俺をただ見つめている。今では俺のほうが身長が高くなって、だからこそ、見上げられると赤い顔が見られそうで怖い。
「貴方、物好きね」
「聞こえてたんじゃねぇか!」
「ふふふ」
柔らかく笑うアリアが、まるで海に溶けていきそうで、俺は堪らずその腕を掴んでしっかりと抱きしめた。華奢な身体が折れてしまいそうで、それでも俺は離したくなくて、その肩口に顔を埋めた。
「子供ね」
困ったように彼女は言う。しかし抱き返してこないアリアは、多分俺の手を掴む気はないのだ。
「なぁ、アリア。神柱なんか、なるなよ……。王族との間に子供なんか作るなよ……」
「無理」
「はやっ」
「だって」
優しく俺を押し返すアリアの顔は、俺からは全く見えない。
「言ったじゃない。弱い人には興味がないって」
なぁ、アリア。声震えてるの、気づいてる?
「せめて俺のこと、嫌いでいいから興味持ってほしいんだけど」
「嫌」
そう言ってさらに離れようとしたアリアを、俺は離すまいとまた強く抱き締める。離したらきっと、もう返ってこない気がして。
「アリア。俺は、アリアが好きだ、好きだよ。だから君の望みを叶えたい。それがどんな小さなことでも」
「じゃ、嫌いになって」
「それは君に、興味を持ち続けても構わないってことか?」
「いつからそんな返しを覚えたの?」
そう言いつつも、彼女の手がおずおずと回される。そうして見上げたきたアリアの小さな唇に口づけをひとつ落として、俺は自分からアリアを離してやった。
「逃げよう」
「何言ってるの。貴方は私を守りに来たんでしょう?」
「じゃ、せめてどこか出かけよう」
「センスのない妥協案ね」
男だらけの中にいてセンスも糞もあるかと思ったが、苦笑するアリアを見ていたら、それを言う気すら失せてしまって、俺は困ったように頬を掻いた。そうだ、別にセンスが無くたっていいじゃないか。
愛ならあるし?と考えていると、どうやら顔に出ていたようで、アリアから「うわぁ……」と心底嫌そうな顔をされた。
「どこか遠くに行くわけじゃないし、ちょっとくらいなら大丈夫だって。そうだ、ここに来る途中、行商人がいたんだ。少し村から離れるけど、なんか見に行こう!」
「ちょっと、だけ……なら」
躊躇いがちに答えてくれたアリアの手を取って、俺は村の中を通らないようにして村の外へアリアを連れ出した。
行商人の元で色々見て、アリアがその中で特に見ていた青色の正八面体のイヤリングを買ってやる。今年帰る時に渡してやろう、さぞ驚くに違いない。それをポケットに突っ込んで、帰りのことで胸を踊らせていた俺は、それに気づくことが出来なかった。
野盗だ。身軽そうな服と、乱れた髪、そいつらは行商人を襲おうとしていたらしく、すぐに俺たちを取り囲んできた。俺は剣を抜くと構えるが、生憎あまり戦いが得意ではなく、切っ先がふるふると自分でも震えているのがわかった。
なんて情けないのだろう。
「女だ、上等な女だ!」
「あれ水の女だ!村から出るなんて珍しいじゃねぇか!」
アリアが小さくため息をつく。
「加護すら受けていない貴方たちも、ここではさぞ珍しい人よ」
加護。
それはアリアのように水や風に愛された者の呼び方で、ちなみに俺は当たり前だが受けていない。この茶髪がその証だ。
自慢にもならんが。
アリアが、す……と手を上げ周囲の何人かを凍らせる。その上げた手をまた下ろすと、今度は凍ったそれらが粉々になっていった。もちろん中の人間は生きていないだろう。
「行商人さん、早く逃げて」
行商人はこくこくと頷くと、荷物を持つのも疎かにして足早に逃げていく。それを見送り、アリアは再び何かする為にその手を払おうとして。
「アリア、駄目だ!」
その手を掴んで止めてしまった。
何、と言いたげな瞳が俺を射抜く。
「こ、殺す、とか……駄目だ……!」
「貴方は何言って……っ、危ない!」
アリアが俺を後ろに突き飛ばす。尻餅をついて、しかし俺は羽交い締めにされたアリアの姿を見て冷静でいられなくなって。
「アリア……!」
咄嗟に駆け寄ろうとした俺は、頭に強い衝撃を受け、そのまま意識を手放してしまった。
※
その後、目を覚ました俺はどこかの小屋の柱に括りつけられていた。肌寒い。それもそうだ、俺は何も着ていなかった。
どういうことだと辺りに目を配り、嫌な光景が目に入る。
先程の野盗たちが囲むその中心に、あられもない姿の彼女が倒れていて。下衆な笑いをしている野盗たちの様子から、俺が気を失っている間に何があったのか察するには十分だった。
「アリア!アリアぁぁあああ!やめろ、離れろ!」
動かせる足だけをばたつかせるが、もちろんそれはなんの意味も成すわけではない。野盗たちはアリアから目を離し俺を見ると、気味悪くにやりと笑った。
「やっとお目覚めか、僕ちゃん?」
「おい女ぁ、大好きな大好きな僕ちゃんが起きたぞぉ?おめぇも起きなぁ」
アリアの両手を左右から1人ずつ持つようにして乱暴に立たせ、アリアはふらふらと俺の前にやって来た。俺が見ていることに気づいたのか、アリアは気丈にも涙ひとつ見せることもせず、いつも通り凛とした表情を俺に向ける。
「さぁ、女。早くやんな!やり方はしこたま身体に教え込んだはずだぜ!」
何を、と聞かなくてもそれはわかった。野盗たちはアリアを俺の身体に無理矢理跨がらせ、その虚しい行為を強制的にやり続けた。俺は情けなくも何度も欲に溺れ、その度にただただアリアに謝った。
それでも頭の片隅で、これでアリアとの間に繋がりが出来ればいいと考えてしまう俺が、俺自身1番殺したくて堪らなかった。
どれくらいだろうか。
小屋の扉がけたたましい音と共に壊されて、黒髪の20代程の男が入ってきた。その男は動揺する野盗を殴り、壁へと叩きつけていく。聞いたことのない破裂音を響かせ潰れていく野盗たち。俺は虚ろな瞳を男に向けた。
「よう、無事だったか?許嫁殿。と……なんだその餓鬼は」
その男はアリアに自分の着ている羽織を被せてやり、そして優しく横抱きにすると、次に訝しむような視線を俺に投げかけてくる。真っ裸だし見ないでほしい。
「ルド、少しは落ち着いて行動をしろ。君が通った道はわかりやすいが、あれは余り褒められたものじゃねぇぞ」
「阿呆、素が出ているぞ」
「ここでは構わねぇだろうよ」
蹴破られた扉からさらに入ってきたのは、同じく20代程の黒髪の男。しかし、アリアを抱いている奴よりも、幾分か落ち着きがあり、何故か見る者を安心させるような雰囲気を出している。
その男は、ルドと呼んだアリアを抱いている男と、次に俺に視線をやると、全く困ったものだと俺に自分の羽織を被せてくれた。そして、腕に括りつけられたままの鎖を見て少し唸り、
「少し我慢してくれ」
「は?何を……いでぇ!」
鎖を素手で引きちぎりやがった。その際に少し腕に痛みが走ったけれど、まぁこの際我慢だ。
男は「すまんな」と苦笑すると、俺に背を向けて屈んでくれた。その意味はわかる、が、18にもなっておんぶは抵抗がある。
「いや、俺立てるんで……」
「ならいい。少し遠いが、馬車を待たせている。そこまで頑張ってくれ」
ふわりと笑った男は、ルドに「行こう」と告げて小屋を出ていく。俺も追いかけようとして、人ですら無くなった壁や床のそれらに、何かが込み上げてきて堪えられず吐き出してしまった。
慌てて戻ってきた男は俺の背中を撫でて、やっぱり背負うよと屈んでくれた。ただ黙って甘えて、俺は、悔しさでずっと泣いていた。
馬車の周囲には厳重に兵士がついていた。そいつらの立ち振る舞いと、そして馬車での話で、この2人が例の王族だということもわかった。
ルド、正式にはルドベキア殿下はアリアの噂の相手で、この一緒にいるのはグロリオサ殿下。2人はアリアに会う為、そして神柱について話しに来たのだという。余り公な訪問ではない為、ついている兵士も数人だ。
向かう途中、あの逃げた行商人がたまたま2人に会い助けを求めたらしい。ルドベキアは話を聞くと、それがアリアだとわかり、なんでもアリアの力を辿ってここまで来たのだとか。
そんなことが出来るとか、やっぱり王族ってのは俺とは違うんだな……。渡してくれた、ホットミルクの入ったカップをただじっと見つめて、俺はただ黙って何か言ってくれるのを待った。
「さて少年、ジェッタとか言ったか。残念ながら君はもう村には入れない」
「な、なんでだよ、ですか……」
「話したいように話してくれて構わん。君はアリア殿を危険に晒してしまった上、関係を持ってしまった。そんな君を、村人が憎んでいないとは言い切れん」
「それ、は……」
そうかもしれない。けど、このままアリアと会えなくなるなんて嫌だ。それにもしアリアに子供が出来たら?それって俺の子かもしれない。神柱にさせたくない。
俺が黙ってカップを強く握りしめていると、反対に座っているルドベキアが、深いため息と共に俺の額を軽く指先で弾いてきた。軽く、とは言ったものの結構痛い。
「俺様たちは神柱を無くしたいと考えている。しかし時間が足りん。だからアリアに神柱になり、時間を稼いでくれないかと頼みに来た。ま、頼むのはそこの阿呆の仕事だが。子供が出来たとしても、俺様なら権力で取り上げて、無理矢理にでも俺様の子として育てられるしな」
額を押さえたまま、俺はただ呆然とそれを聞いているしかなかった。
「だが餓鬼、貴様は違う。ウィンチェスターの次男坊になんの力がある?次期団長候補でもない。父親は逃げ、墜ちた騎族の、たかが次男坊に」
「お、俺、は……。でもアリアを、好きで」
「好きだからどうした!貴様、その感情だけで行動した結果がこれだろう!力もない、弱い奴が口だけ立派なことを……!」
「ルド。もういいだろう、彼はわかっている」
俺はどうやら泣いていたらしく、隣に座るグロリオサがハンカチを渡してくれた。それに遠慮なく鼻を噛むと、いくばか頭がすっきりしていく。
「ジェッタ。その気持ちはとても大事だ。それがないと、人はなんの為に動くのか、目指す光が無くなってしまう。だから君はそれを大事にするといい」
優しく頭を撫でられて、俺はただ頷くしか出来なかった。ルドベキアに寄りかかるアリアに目をやったけれど、彼女の顔を見ることは叶わなかった。
俺たちを乗せた馬車はすぐに村へ着き、そして当たり前のようにしてルドベキアがアリアをエスコートして降りていく。俺もそれに続こうとするが、グロリオサがそれを制し首を振った。
「ジェッタ」
「……っ、わかってる、わがっで、る、よぉぉ……」
また情けなく泣き出した俺に、きっとルドベキアは苛ついたに違いない。小さく舌打ちされ、それでも俺はどうしようもなく泣いていると、アリアが控えめに馬車を振り返った。
「私、信じてる。だからこの子を迎えに来てね、ジェッタ……」
「アリ」
手を伸ばして名前を呼ぼうとしたけれど、無情にも扉は閉められてしまい。
そして俺はそのまま、村を後にするしか出来なかった。
※
「え?兄貴が死んだ……?」
それは、あれから1か月が過ぎた頃。
あれからアリアとは1度も会うことなく、俺は自分の家に戻った。もちろん兄貴も最後までいることなく戻り、さらにウィンチェスターの評判は悪くなり始めていた時。
他の騎族、それから水の村人からの弾圧により、責任を取れと言われ、最初は俺がその責任を取って処刑されるはずだった。しかし兄貴は自分が長兄だからと押し通し、そして見せしめと言わんばかりに、水責めされることになった。いや、されてしまった。
俺は何も聞いていない。
手元にある、兄貴からの最後の手紙を握りしめて、帰ってきた兄貴の遺品を眺めていた。
ーーー弟、ジェッタへ
これを読む頃、もう兄さんはいないだろう。
情けない兄が兄らしく出来る最後のことだ、悔いはないよ。
いいかい、ジェッタ。
兄さんもジェッタも、戦いのセンスは全くない。
でもジェッタには兄さんにはないものがある。
努力だよ。
磨けばそれは武器になり、そしてジェッタを守る盾にもなってくれる。
我々ウィンチェスターが出来る最大の力は、騎族としてまた地位を築くこと。
そして団長になることだ。
ジェッタなら出来るよ、自分を自分が信じてあげるんだ。
では元気で。
出来の悪い兄さんよりーーー
何が出来の悪い兄さんだ。本当最悪だ。
俺は唇を強く、血が出るのも構わずに噛みしめる。
やるしか、ない。
その手紙をまた広げ、俺は目に焼き付けるように、どれくらいか黙って読み、そして手紙をゴミ箱へ捨てる。これは誰にも見せない、明かせない決意だと自分に戒めをつけて。
鏡に映る自分の顔が酷くやつれており、前の自分とは全くの別人に見える。それに自嘲し、いや若くして団長を目指すのだから、これぐらい老けて見えるほうがいいじゃないかと無理矢理にでも自分を納得させた。
俺、ジェッタ・ウィンチェスターが団長候補となり、そして団長に就任するのは、あと7年後となる。
※
彼女との約束。
俺はただそれだけを道標にして、家同士の結び付きもしたし、2人の子をもうけた。その2人が大事ではないのかと問われると、もちろんそんなことはないと言い切れる。
それでも俺には、いや私にはやるべきことがある。
情報通り、私は再び彼女と会い、そして息子を受け取ってきた。
彼女とよく似た空色の髪の息子は、最初、本当に自分の息子なのかと疑ったのは事実だ。あの時の野盗の息子かもしれないと、何度も寝ている息子の首に手をやったこともある。
しかし、自分を父と信じて疑わずに努力を続ける息子を目にする内、かつての自分を写し、あぁこの子は自分の子なのだと信じていくようになった。ひたむきに、ただ真っ直ぐ。
だから自分もまだ歩き続けよう。
息子が、息子の愛する人と一緒にいれるように、と。
~清き水に恋をした。完~