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王国で会いましょう  作者: 唐木沢みのり
始まりより前に…。
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プロローグ04 わたくしのおかあさまはせいぼさま

 あまりにも小さいころに家族と別れて入ってくるので、ほとんどの子どもにとっては両親なり、祖父母なりというのは、両親そろった家庭の人にとっての「遠くの親戚」ぐらいの扱いになることも結構あります。

 長期休み中に呼び返してもらえる子たちはどうだったかは知りませんが、長期休暇も学校で過ごす私たちにとっては「いるのは知っているけれども、それが何か?」というようなものになってしまうのです。


 大体親との間にちゃんとした絆が形成されているのなら、学園に休暇にも滞在するというようなことにはなりません。環境が許す限り遠くに、そして間遠に会いたい(または会いたくない)というような間柄に、私が寂しい思いをしたとすればそれは実在の親との関係が対象なのではなくて、理想の、架空の、私が頭の中で作り出した優しく私一人をかわいがってくれる両親がいないことに対してだったのです。

 最初から持っていないものはそれほど残念には思えないものだといえばわかりやすいでしょうか。


 5歳ぐらいの時だったでしょうか。

「あなた方に、もし、お母さまがいらっしゃらなくても、聖母様はみんなのやさしいおかあさまでいてくださいます」

「救世主様は、みんなの素晴らしいおとうさまです」

――と聞いた私は、シスターに確認に行った覚えがあります。


「おうちにお母さまがいても、聖母様は私のおかあさまになってくださるのですか」

そう聞いた私に、シスターは

「もちろんですとも、聖母様はみんなのお母さまなのですよ」

と請け合ってくださったので、私はお御堂に飾られた聖母様の御絵を見て、やさしいお母さまのことを想像したのでした。


 赤ちゃんの救世主様を抱いた聖母様のお顔のやさしかったこと。赤ちゃんじゃなくて、私を見てくださるのならいいのにとあこがれながら飽きず眺めた聖母様の御絵と同じで、サイズ違いのものを誕生日にいただいたときは本当にうれしかったものです。

 額に入った小さな御絵を私はどこへも持ち歩きました。誰もいない場所まで行っては取り出して、今日あったことなどを御絵の聖母様に話しかける子どもは相当奇妙な眺めだったに違いありませんが、そのあたりは多分、シスターたちはご存じでもそっとしておいてくださったのでしょう。


 「わたくしのおかあさまはせいぼさま」という子どもは信心深い子どもに見えるだけで、学園の文化的には正常の範囲におさまっていると判断されましたから、声を出さずに御絵の聖母様に話しかける癖はかなり長く残りました。だから私にとっての母親は聖母様のお顔をしています。


 慈愛に満ちたやわらかな笑みで腕の中の救世主様を抱くそのお顔に、自分だけを慈しみ、見守ってくださるのだと幻想にひたるのは、独り占めは欲張りでよくないことです。と教えられることと相容れず、どことなく後ろめたく思えるようになってからは「誰でも」見てくださるのだと思うようにしましたが、それでもそれが慰めになったのは間違いがありません。


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