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王国で会いましょう  作者: 唐木沢みのり
始まりより前に…。
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プロローグ01 新菜

 何の疑問も持たず、環境に適応することが出来るのは、幸せなことです。ほとんどの人が、いつか適応し、置かれた環境で生活して、満足してやっていけるでしょう。

ですが、どんなところにも、黒い羊はいるものなのです。自分が黒いと気づいてしまえば、もう白い羊の群れに紛れて歩いているのがつらくなるものです。外の世界では、違いを受け容れ、過ごしているものだと聞きました。こういう違和感があっても、ちゃんとやっていけるのだそうです。

 みんなちがって、みんないい。そういうところなのだと聞きました。素晴らしい場所なのでしょうね、きっと。

 

 もう顔も思い出せない、やさしい人。あたたかな声と、やさしい表情で、抱き上げてくれた人でした。

 静かにしなくてはいけないときは、唇に指をあて、「しーっ」という仕草を見せてくれたこと。いたずらをすると手をやさしく止められたこと。ベビーカーにのせてもらっての散歩。歌ってくれたいろいろな歌、大好きだったおはなし。おいしいものを食べる時、抱っこされるときに差し出す手が拒否されない確信、そして膝。


 記憶に残るのはどれも柔らかく、うれしく、安心な思い出ばかり。「おかしゃん」と回らぬ舌で呼べば、必ず振り向いてくれるその人は…。


 学園へ来てからはもう、会えなくなってしまったその人を思い出すのはいつも夜でした。見守り、寝かせつけてくれた顔もおぼろげなその人の名前が多分「岡さん」か「丘さん」かだったのだろうと大きくなってから思い当たったときはなんだかその不思議な偶然と、それに全く疑問を抱かず、ただ、大好きな人の名前を呼んでいた私のことを思って、ちょっと笑えてしまいました。


 当時でも自分の母親と区別は出来ていました。誰に言ってもこんな昔の記憶が残っているとは思ってもらえないでしょうが、街中であんなに小さかった自分と、血のつながりのない人がまるっきり親子のように歩いていても人目を惹かなかったのは多分、その名前のせいもあったのでしょう。


 子どもが「お母さん」に世話をされるものだということも知らなかった頃ですから、本人としては全く違和感がありませんでした。この国では自分の親を名字で呼ぶ子どもはいないと思います。いや、多分ほかの国にもいないでしょうけれども。


 いつも一緒にいてくれる、暖かくて優しくて、大好きな人の愛情を独り占めにして育った記憶があることは幸せなことです。たとえそれが短い期間だったにしても。


 学園に入れられたのは、3歳。

「一番ちいさい人たち」と呼ばれる子どもたちは、決まった時期に入学してくることはありません。「ちいさいひとたち」である年少組は入園式に幾人かが入ってくるのですが、それより年が小さい場合は「特殊事情」があることが多く、面接による入園許可が出れば入れることになっています。

「まだ、お預かりするのには早いと思われます」という結果が出てしまったら、次の入園時期は春、通常の入園時期に「ちいさいひとたち」の年齢になってから入園です。


 つまり「一番小さい人たち」は大抵はその年にしては一学年上の子どもたちについていけるような子だと判断されたということです。3つになったかならないかのあたりで首尾よくすべりこまされた私も、そのうちのひとりでした。


 学園は、全寮制。

 こんな学校があることすらほとんどの人に気づかれないような学校です。こういう学校の需要はかなり低いと思います。基本自分の子どもを手許に置きたがらない親は少ないでしょうし、学園の費用はかなりの高額で、寄付も求められます。それなら家にこどもの世話をしてくれる使用人を置く方がまず効率的と思う方の方が多いでしょうね。

 特に小さいうちは…と言われる風潮もあるため、世間体のことも考えればまず、全寮制の学校という選択肢はかなりの珍しさと言っていいでしょう。


 通常は保育に欠ける子どもたちと称される、親が、または親戚が面倒を見ない子どもたちは、養護施設に入るのだと聞きました。親がどのぐらい面倒を見るかにはばらつきがあるでしょうが、つまり養護施設も全寮制のようなものなのでしょう。寝泊りしてご飯を食べさせて、育つのを待ち、ある程度自立できる年代になったら出ていくそういう場所。

 そういう子どもたちと、学園の生徒たちの差はただ一つ。お金がかけられているか、そうでないか、その一点のみと言えると私は思います。学園はつまり豪華な養護施設だということです。


 大体男女が交流を持てば、そのうち子どもが生まれてくるというのは理屈抜きにこの社会に起こることであって、そうして出来た子どもを育てて人間は生き延びてきたのですよね。

 モラルが、結婚が、社会が…と細かいことを抜くならば仕組みは一万年前と大差なく、群居していた時代と違って子育てにお試しがない今の時代、子育てに向いていないことがわかるのは自分の子どもを持ってからでしょう。

疲れ果て、自分を責めても目の前の子どもを絞め殺せば犯罪者になることを思えば、取れる手段はたくさんはありません。


 身内にたよるか、お金がなければ国家のお世話になるか、あればお金を払って外注するか。目の前に自分勝手に生きている小さな生き物を見ているのが嫌だとなればこのあたりが穏当な解決法です。社会人としての自分の責任があることは頭ではわかっているのなら、湧かない愛情の代わり、または罪悪感を軽くするためにお金なら出せる。そういう割り切り方をしたら子どもの行きつく先はこういう学園のような施設になるということです。


 物心つく年頃にもなれば親に捨てられたということがわかるのでしょうが、3歳というのはなんと便利な年齢であることでしょう。一説によれば、小さいころの記憶があまり残らないのは生存本能のせいらしいのです。。親を亡くした小さな子どもが面倒を見てくれる人になつかなければ、あっという間に生存の危機に陥るでしょうから。外国語の習得が生殖可能年齢以下の子どもに特別早いのも、そのせいなのだと言われているそうです。早く拾われた集団になじみ、自分に集団の一員としての価値をつけないと余分な口を食わせることに反対されればあっという間に餓死するとなれば本能も仕事をするというわけです。


 そんなわけで、小さかった私はやさしいシスターになじみ、見たことのない遊びに心を奪われて、そんなに時間が経たないうちに日常が楽しめてしまったのです。きっとすべての保育園の先生や、幼稚園の先生が「そんなものですよ」というような当たり前のことです。神様の園のかわいい子羊たち。それが私たちでした。

 

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