シアワセナセカイ
本作は僕という人間の作家性や作風を理解してもらうのに最適な、短編の心温まる童話的お話です。
文学という物で僕が伝えたい事をかなり圧縮して描いた作品なので、文字数も少ない構成となっております。
ぜひ紅茶とお菓子を片手に、気軽にお読みくださいませ。
あるところに、マリアという五歳の小さな女の子がおりました。
お父さんはお国の為に汗水を流す軍人であり、お母さんは娘であるマリアを己の魂の片割れであるかのように愛してくれる、純美で素敵な水面が秀麗と波打つ女性でした。
マリアは毎日が幸せに満ち満ちていました。
俗世のしがらみは何も無く、お金持ちで、自分の全てを理解してくれる者達に囲まれた理想郷なのです。
マリアは木製のお人形を持っており、リリトという名前を付けて、四六時中肌身離さず持ち歩く程のお気に入りでした。
ある日、軍隊の大佐であったお父さんが、遠い国に出兵を命じられました。
お父さんは聴きました。
「マリア、お土産に何か欲しい物はあるかい?」
すると、マリアはこう答えました。
「それじゃあね、わたしはおーーきいおはなばたけがほしいな」
お父さんは困ったような笑みを浮かべました。
そんな仲睦まじい二人を、お母さんは慈愛の眼と貌でもって眺めていました。
マリアはお父さんの帰りが待ち遠しくてたまりません。
なので今日もまた、お気に入りの木製人形であるリリトとお話をするのです。
「みーーんながやさしくて、わたしはいつもしあわせなの。リリトは、わたしといっしょにいてしあわせ?」
『勿論だよマイフレンド。君の幸せを、僕は誰よりも何よりも願っているのさ』
「うれしい。だーーーーいすき」
マリアは木で出来た軽いリリトの体を、軋むほどに熱く抱きしめました。
――一か月後。出兵した国の暴動を治めようとした際に、お父さんが殺されてしまったのだと、一通の報せが届きました。
その不幸な報せを聞いたお母さんは、日ごとに元気が無くなっていきました。
元からお父さんと比べて、あまりマリアに構わない人ではありましたが、今となっては朝昼夜の食事すら用意しなくなってしまったのです。
――やがて、お母さんは飢餓に悶え苦しむ浮浪者のようにやつれ衰え、ミイラのような姿で息を引き取ってしまいました。
幼い娘一人を残してこの世を去ってしまったお母さんの心の内は、さぞかし娘への後悔に苛まれていたことでしょう。
しかしながら、事実はまったく異なるものなのです。
まだ年端もいかない子供であるマリアは理解していませんでしたが、お母さんにとって我が子は、真に愛すべき夫を飾り立てる装飾品に過ぎなかったのです。
であれば、お母さんがマリアを己の魂の片割れであるかのように愛するのも当然でした。
だってそれは、自分の魂の一部が愛する男を彩る装飾品になる事と同じなのですから。
お母さんとってのシアワセナセカイは、こうして幕を下ろしたのです。
翌日、ただ一人血の繋がった叔父がマリアを引き取ろうとしました。
そうしてマリアの家に向かう最中に、偶然落ちてきた煉瓦に脳天を砕かれ、叔父は死んでしまいました。
大切なお人形以外、天涯孤独の身となってしまったマリアは、一族の弁護士の手に委ねられました。
弁護士はただちに、マリアを寄宿学校に入学させました。
マリアは弁護士の対応に関して、何も意見を言いません。
まだ幼い身の上であることもそうですが、なによりもマリアにとって自分以外の人間は、話さずとも自分の事を全て理解してくれる人達なのだと思っていたからでした。
だって、マリアにとってはお父さんもお母さんもそうした人間だったのです。
外の世界も、きっと幸せに満ちた理想郷に違いないのです。
しかし、世の中は子供の妄想がまかり通るほど簡単ではありません。
そして、寄宿学校に入ったマリアの不幸せな世界が始まりました。
学校でマリアは、してもいない事で先生たちから何度も罰せられていました。
時には一杯の水が入ったバケツを両手に持たされ、時には頭の上に大きく分厚い本を何冊も持たされました。
マリアだけが罰せられてしまう理由は簡単です。
先生も他の生徒も、皆自分の事を理解してくれる人達なのだからという安易な理由だけで、他者との会話はおろか挨拶すらもしていなかったから気味悪がられてしまったのです。
ある時、親友のリリトを他の生徒たちに奪われ揉みくちゃにされた挙句、八つ裂きにされてしまいました。
見るも無残な姿になってしまった人形を抱え、マリアは今にも泣きだしそうな声で問いかけます。
「だい……じょうぶ? いたく……ない……?」
すると、雰囲気の変わったリリトはこう答えました。
『全部お前のせいだよマリア。私がこうなってしまったのも、お前が辛く苦しい目にばかり合うのも、全てお前の選択の結果なのさ。
けど心配しなくていいよ、愚かなマリア。私が責任を持って、いつかお前をシアワセの底なし沼に墜としてあげるから』
無知で幼いマリアは、まるで別人のような声音で話すリリトの言葉を、これっぽちも理解できませんでした。
その夜、マリアは寝れず、しくしくと泣いておりました。
その傍らには、八つ裂きにされたリリトが、歪んだ微笑を浮かべて横たわっていました。
繰り返して繰り返して繰り返して繰り返す、不幸せな世界。
やがて、自分の心から溢れ出しそうになる恐怖と悲哀と孤独感に我慢できなくなり、ある日夜が明けるのを待って、マリアは学校から逃げ出しました。
マリアはじきに気を失い、歩道に倒れ込んでしまいました。
数十分後、一人の薄汚れた物乞いがやってきて、マリアの衣服を剥いで奪っていきました。
数時間後、脂汗まみれの太った男が気を失った裸のマリアを薄暗い路地裏に連れ去り、若く芳醇な柔肌をまさぐりながら、卑しい行為に溺れました。
路地裏の入口に横たわった、白い体液を被る裸の少女を、群衆は気にも留めません。
急ぎ足で街道を行きかう全ての人間に、それぞれの生活があるのです。顔はおろか名前すら知らない、今や捨て猫同然の打ち捨てられたボロ屑一人にかまける余裕はありません。
親や保護者がいない。手足が無い。目や耳や口が不自由――もっと言えば、産まれた瞬間に下水や野山に捨てられてしまう赤子だっているのです。
それらに比べれば、大衆にとってマリアのような不幸は、小石以下の塵芥でしかありませんでした。
そうして夜が更けてくると、飲んだくれのゴロツキが何処からともなく現れ、マリアを連れ去ってしまいました。
ボロ小屋に連れ去られたマリアは、男が残した僅かなパンの切れ端と、下水から垂れる水滴で日々を食い繋ぎました。
飲んだくれの男は毎日毎日、自分とマリアに麻薬を注射しました。
接種した麻薬の影響で、飲んだくれは時おり幻覚に苛まれ、マリアの幼体を貪りました。
しかし、マリアは違いました。
連れ去られた場所は家畜小屋以下のボロ屋である筈なのに、瞳に映る景色はとても煌びやかで、光に満ちていたのです。
妖精のような光源が辺りを飛び交い、虹色のクレヨンで彩られた世界。子供が一度は夢想する理想郷が、マリアを出迎えました。
そうこうする内に、実は一命をとりとめ生きていたお父さんが、帰国しました。
我が家の惨状を知ったお父さんは毎日、車を使って、街中を必死に運転しながらマリアを探して回ります。
一方で、麻薬に心を蝕まれた飲んだくれの男が、とうとう発狂してしまいました。
割れた酒瓶をナイフに見立て、男はマリアを切りつけ始めます。
けれど、マリアに苦痛はありませんでした。
体中を駆け巡るのは、これまで体験した事が無い程の安心感と幸福感。今のマリアには、飲んだくれがお母さん見え、激痛が抱擁に感じられていました。
やがて男は奇声を上げ、自分の首を掻き切り、自殺してしまいました。
マリアはぼうっとした意識と視界の彼方に、悪魔のような翼を生やした美しい小人を見つけました。
『さあ、約束を果たそうマリア。私について来なさい。
君にとってのシアワセナセカイが待っているよ』
小人は翼をはためかせ、外へと飛んでいきます。
マリアはその美しい小人が、生まれ変わったリリトであるのだと思いました。
失ってしまった人形との再会。嬉しさに包まれ、マリアは後を追うようにふらふらと表に飛び出しました。
――そしてたちまち、一台の車に轢かれてしまいました。
お父さんは車を降りて、いま轢いてしまった瀕死の小さな子供を、蒼褪めた顔で見つめます。
車の車輪に踏みつぶされ、割れた風船のように破裂した腹部から赤い絵の具を流し、全身の骨が粉砕してしまった少女を、お父さんは抱きかかえます。
しかし、あまりにも醜い裸体を晒すその子供が自分の一人娘である事には、お父さんは最期まで気付きませんでした。
薄れていく視界は赤一色に染まり、残されたマリアの命はあと数十秒しかありません。
するとどうしたことか、羸弱の死色に濡れたマリアの虹彩が、色彩豊かに色づき始めたのです。
視界だけではありません。鼻に香る匂いも、まるで多種多様な芳香の沼に沈むような艷麗さを帯び始めました。
そう、マリアは今、広大なお花畑の中にいました。
やがて、自分を抱きかかえる人がお父さんである事にも気付きました。
マリアは幸せで胸が一杯です。
だって約束通り、こんなにも素敵なお花畑のお土産を、お父さんは私にくれたんだから。
もう何も怖くない。もう何もいらない。
血は花に、死は温もりに変わったのです。
もう誰も、彼女を傷付けることはありません。
マリアはこの瞬間、確かに世界で一番幸せな少女でした。
お父さんのくれたおぞましい血鮮の底なし沼に抱かれながら、愚かな彼女はシアワセナセカイに旅立ったのでした。