序章 契約
少年はベッドで寝ていた。傍らには右手を握りしめて祈る母親、その横で静かにたたずむ父親、白衣の医師と看護師、そしてたくさんの医療機器があった。その中の一つである心電図の脈拍が小さくリズムを刻んでいる。そしてそれは少しずつ少しずつ回数を減らし、
|ピーーーーーーー|
「残念ながら、ご臨終です」
医師は淡々と、しかし感情を押し殺すような声で言った。
「そんな・・・」
泣き崩れる母親の肩に父親がそっと手を置いた。その手に力が入るのが解る。医師は自分の無力さを呪うように全身に力をこめて涙を堪えている。この少年、彼の死因は交通事故だった。
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僕は目が覚めた。すると辺りは真っ暗で、手足の感覚は薄く動かすこともできない。微かに、ほんの微かに右手に熱を感じた。僕は自分に何が起きたのかを思い出した。学校へ向かう途中だった。今日は確か雨の日で、スリップした車の交通事故に巻き込まれたのだった。
「ということは僕は死んじゃったのかな?いや、まだギリギリ生きてるか」
昔からこうだ。どうにもいつも物事を冷静に処理して受け入れようとしてしまう。ほんとは自分がこんな状態なことに慌てていてもいいだろう。しかし昔からどうにもなにか状況に逆らおうとしないのだ。流行りに無頓着なせいもあって、友達と呼べる友達は数人くらいだ。等とかんがえていると、ふっと右手の温もりが消えた。手足の感覚が遠ざかっていく。
「ああ。僕、死んじゃうんだなぁ。親不孝だな。どうやって詫びよう」
身体に冷気が侵入するような感覚に襲われ、自分と言う存在が引き裂かれていく。ふと一つの感情が芽生えた。それは、恐怖。反射的に口からこぼれた。
「い・・・やだ。死にた・・くない」
遅すぎる恐れが僕の意識を支配していく。しかし、その思考すら少しずつ、霧散し始めていく。
「あ・・・あ、怖いよ。どうなっちゃうの?」
背伸びした大人ぶった冷静な態度の仮面が剥がれ、年相応と言った感じの幼い面が姿を表す。意識の最後の一欠片が消えかけたその時、ふっと目の前が真っ白になった。
「あ、天・・・国?」
そして眼前に一つの炎が浮かんだ。反射的に聞いた。
「君は?」
「そなた、生きたいかや?」
生きたいか・・・。この炎はそう聞いたのか?
「当たり前だよ」
僕は藁にもすがる思いで言った。
「生きたいよ。だから、助けて!」
「一つだけ手がある。」
炎は言った。
「方法?」
「そうじゃ。わっちと契約するんじゃ。わっちも身体が無い身での、このままで消えてしまう。お主の魂の半分とわっちの魂の半分を合わせればなんとか生き永らえることができるじゃろ」
契約。それは僕には漠然としたものだった。その結果どうなるのかなんて解らない。それでも一縷の望みがあるのならそれにかけてしまうのもいいかもしれないと思った。それが、もしも悪魔との契約だろうとなんだろうと。
「わかったよ。契約する。」
僕は決意を胸にそう返した。
「そうか。契約成立じゃ」
そう言うと炎は僕の胸のなかに入ってきた。
「っ!熱い・・・。体が、焼ける‼」
体の内側から燃やされるような熱さに耐えながら、僕は目を見開いた。ふっと目の前が更に真っ白に染まった。
視界が戻ると、僕はなにもない草原に立っていた。いや、1つだけある。一本の桜の木。その木から、耐えず花びらが舞い続けている。上の方からあの炎が降りてきた。その炎は、僕の正面で一度とくんっと脈打つと、少女のような姿となりこう言った。
「これでわっちらは一つじゃ。決して切っても切れぬ」
その言葉に僕はただ無言で頷くだけだった。そしてそれを合図にするかのように意識の浮上が始まった。青色の空がこちらに向かって近づいてくる。そしてそのまま全てを振りきるように上へ上へと・・・。どこまでもどこまでも・・・。
眠りから醒めるような、水中から水面へと浮上していくようなそんな感覚。光が段々と近づいてくる。僕は薄目を開けた。なにか白いものが視界を遮っていた。どけてみると、どうやら白い布のようだ。僕は、自分が何やら白色の装束に着替えさせられていることにも気が付いた。見回すと、白い壁に複雑な機械。どうやら病院のようだ。モニターを見ると、心拍数正常を意味するかのように、ピッピと一定のリズムを刻む緑色の線が映っていた。ドアが開く音がする。入ってきた医者は、僕の顔を見るなり、手に持っていたファイルのようなものを落とした。そして素早く駆け出すと、電話と叫びながらどこかへと走っていった。
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病室にさっきの夫婦が涙目で駆け込んでくる。二人は、ベッドで上体を起こしている少年を見ると、涙を浮かべて喜んだ。どこか痛まないか、辛くないか等々。それに対して少年は、大丈夫とただ笑顔を浮かべるだけだった。さて、この少年はやがてとてつもなく大きな運命の歯車に巻き込まれていくのだが、
「それはまだ君たちにとっては未来のお話。そう遠くない、ね」