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その参

皆の視線が陳文に釘付けになった。

「な、何を馬鹿な。先程、私には殺害は無理だと仰っていたではありませぬか」

上ずった声で否定した。

「それは白い服を着た劉暁を見たからであろう?だが、白い服を着ていたから、それは劉暁なのか?」

「仰っている意味がよく分かりませぬ…」

「お前が、劉暁になりすましたのだろう?」

「何を根拠にそのような事を!」

「皆で確認したではないか。劉暁の服と傷が合っていないのを。それは、劉暁から一度服を脱がせた証拠であろう?」

「なら、俺が劉暁をどうやって殺したってんだ!そもそも、俺には、劉暁を殺す理由なんて毛頭ない!」

陳文は、両手を大きく振って弁解した。しかし、劉暁とは仲の良かった陳文に殺す理由があるとは確かに思えない。

「確かにそうにございますな、殿。陳文殿は、どうやって谷まで行ったのでございますか?真夜中で道も見えませぬし、外へ出る途中には、朝天と張謂の部屋がございまする。その二人の目をかすめて、外へ出たと仰るのですか?」

袁傪が犯人を陳文と決めつけたことに、呂祖は少々納得いかないようだ。

「いや、殺す隙ならある」

袁傪は、自信を持って言う。

「俺は部屋から出ていない。いつ殺せるのと言うのだ?」

陳文は、荒い息で、袁傪に突っかかった。

「一回出ただろう。厠へ行きに」

「それは、到着してすぐのことだ、関係ないだろう!」

「死後硬直だよ。私が劉暁の遺体を見つけた時は既に全身が硬くなり始めていた。全身が硬くなるのは、時間がかかると医学書で読んだ事がある。そうだろう、祖よ?」

「はい、死後硬直は、死後一刻程で顎や首に、全身に渡るのは、少なくとも四刻程の後でございます。そうすると、劉暁殿の遺体を見つけたのは、卯の刻でございましたから、劉暁殿が殺されたのは子の刻よりも前という事になりますな。つまり、白い男云々の時間には、関係なく、むしろ殺害時間は、その時刻よりも前だったという事になります。そして、陳文殿は、早い時間に厠へ行っています。その時間に殺しをしたと考えられるということでございましょう」

呂祖が手を顎に当てながら答える。

「では、殿は厠に行く短い時間で、これ程の事ができると仰るのでございますか?」

陳文はまだ否定している。

「予め用意しておけば可能では無いのか?しかし、李徴の仕業に見せかけたのは何故だ?そのことに関しては、親友の私が許してはおけぬ。答えてくれ、陳文よ」

袁傪は怒りを押し殺すようにして言ったが、目は冷たく尖がっていた。すると、陳文は肩を震わせて

「そもそも、私は李徴殿の仕業に見せかけるなど聞いておらぬ!私は何も知らないぞ!」

と、怒鳴り散らした。

「ほう、何も知らぬと?陳文、お前は誰に何を吹き込まれた?」

陳文の失言に袁傪がつけ込んでいく。陳文の顔はみるみるうちに青ざめていった。もう弁解は不可能だろう。

「こいつだよ!こいつが劉暁をこんな酷い目に遭わせたんだよ!」

陳文は隣にいた朝天を指差した。そしてさらに続けて、

「確かに、劉暁は俺が殺してしまった!それは劉暁にも悪いと思っている。ただ、俺は劉暁を傷つけるなんて聞いていない!」

陳文は、取り乱し、朝天の肩を乱暴に掴んだ。

「朝天、お前も何か知っているのか?」

袁傪が調子を落として言い、朝天を睨みつける。朝天はチッ舌打ちし、袁傪を睨み返して、

「馬鹿言え。俺はこいつが劉暁を殺したのを見たが、黙っておいたんだ。逆に感謝してほしいくらいだぜ。お前の失言が無ければ逃げきれていたのかも知れぬ所を」

と、吐き捨てた。

「だからといって、劉暁を傷つけて良いことにはならぬだろう!」

「俺の話に乗ったのはお前の方だろ。ふざけた言いがかりはいい加減にしろ!そもそも殺したのはお前だ。俺が死体に何をしようが勝手だろ。悪いのは殺したお前なんだからな」

と、朝天が畳み掛けたところで、陳文は折れて、床にへたり込んでしまった。

「二人とも、私も信じたくはないが、お前らがやったと言うことで良いのだな?」

袁傪は頭を片手で抑えている。

「はい」

「チッ、俺は手伝っただけだ」

二人は遂に自供した。

「何があったのか本当の事を話してくれ」

袁傪は胡座をかいて座り込んだ。皆も続いて座る。


「私は、李徴を恨んでおりました」

陳文が口を割って話し始めた。

「ちょうど、李徴が虎となった頃の話に遡ります。私は、李徴の侍従として、使えておりました。私はそれまで、李徴殿は少々短気なところはあるが根は良い人で、尊敬する君でございました。しかし、汝水の辺りへ公用で出かけた際、様子が一変したのでございます」


「殿、どうしたのでございますか!」

陳文が主君、李徴を制止しようとする。

「うるさい。黙れ!」

李徴は、陳文をガンと突き飛ばし、他の侍従の方へ迫っていく。鞭と刀を手にして。

「おやめください、殿!」

厨房の奥から切り裂いたような悲鳴が響く。

「うーん!んん!」

隣の侍従は口を縛られ、声も出せぬ状態だ。

パンッ!

李徴は、彼に向かい、思い切り鞭を叩きつけた。

「お前は何を知っている?答えろ!」

そう怒鳴ると、また叩きつけた。

「んんー!うーん!」

侍従は必死で頭を横に振る。が、罰は終わらなかった。何度も、何度も、彼の体には鞭が叩きつけられた。鞭の音と、悲痛の叫び声があたりの空気を引き裂く。そして、声の方が遂に聞こえなくなった。

「チッ、使えないな。まあ、死んだならそれで構わない」

と言い放ち、もう動かなくなった彼の体を蹴り飛ばした。

「おい、お前は何を隠してる?」

李徴は、隣の侍従を手にかけた。


「それから十日ほど、私達への暴行 は続きました。私の番も五日目には来たのです。李徴は、私達が李徴の秘密を知ってしまったと思っていたようで、それが何か聞き出そうとしていました。私は五日間も、暴行に耐え続け、気がついたら、こんな傷跡までくっきりと残ってしまいました」

陳文は、上着を脱いだ。背中には痛々しい傷跡がはっきりと刻まれていた。

「李徴殿の凶行が始まってから、十日後、残った侍従は私ともう一人しかおりませんでした。その日、李徴殿は遂に狂ったように奇声を上げて、走り回り、どこかへ消えてしまったのです。私達は、これを好機と思い、李徴が持っていた財産を、あらかた持って汝水から逃げ帰ったのでございます」

陳文は、「あの日」の事を淡々と語った。袁傪は、静かに彼の話を聞いていたが、信じられないという様子で、呆然としていた。

「嘘だろ。李徴がそのような残虐な真似をする筈がない。何かの間違いだ!」

そして、頭を抱え、苦しそうな顔で俯いた。そして、張謂も同様に、

「そうだ、李徴殿がこんな事をするわけがないだろう!李徴殿はもっとお優しい方なのだ!」

と、叫んだ。李徴と同郷の張謂は、実は李徴の事を慕っていて、地元の英雄として、憧れていたのだ。その英雄が、実は残虐な人殺しだったと知ったら、どんな絶望感に襲われる事だろう。

「私は、もちろんこんな真似をした李徴が許せなかった。汝水から逃げ帰る時、私は見たのです。劉暁の妻が、森の方へ歩いていくのを。ただ、私は話しかける余裕など無かった。こんな、残虐な場所から一時でも早く立ち去りたかったんだ」

陳文は思い出したくない過去を語った。その顔は苦しみで歪んでいる。

「だから私は、李徴に復讐するため、何としてもあの後の李徴の行方を知りたかった。そこで、袁傪殿に頼ったのでございます。袁傪殿が、李徴の友である事は、割と有名でありました故」

「すまなかった。お前がそこまで苦しんでいただなんて。私は友のことも、家臣のことも、本当は何も分かっていなかったのか…」

袁傪は、彼の話を聞いても尚、自分の事を責めている。自分が、李徴の行方を知るための、ただの駒であったに過ぎないと伝えられても。

「ただ、私は袁傪殿の下で働いていくうちに、李徴の事などすっかり忘れるようになった。ただ、昨日、思い出してしまった。しかも、あいつは、自分の内なる猛獣だなんだと訳の分からぬ事を抜かすから、その場で殺そうかと何度も思った。ただ、なんとか踏み止まった。最後には改心してくれるのではないかと少しでも期待した自分が馬鹿だった。結局、あいつは俺に構うどころか、人殺しの罪を一切無視して、己の欲望のせいにした!それが許せなかった!それで、昨晩、思い出したんだ。劉暁なら何か分かるかもしれぬと。劉暁の妻がそこにいたのだからな」

陳文の声がだんだんと感情的になっていく。そして、涙がこぼれ始めた。

「劉暁を殺す気は無かった。劉暁は、あの時、江南尉で汝水に来ていた。だから、李徴について何か絶対に知っている。もしかすると、李徴が虎になった原因は劉暁にあるのではないかと思っていたんだ…」


「おい、李徴が虎になった理由は、己の猛獣などという馬鹿な話じゃない! お前の嫁はあの時、李徴が向かった方向にいた。お前、絶対に何か知っているだろう!」

激しく叩きつける雨の音に負けぬくらいの声で、陳文は、劉暁に怒鳴りつけた。

「私は何も知らないのだ!信じてくれ、陳文。私の妻はあの夜から行方が分からぬのだ!」

「いや、お前は何か隠している。あの夜に汝水なんかの田舎にいて、今は袁傪に仕えてる。偶然にしては出来過ぎていないか?なあ、答えろよ!」

陳文は、劉暁の襟首を掴み上げた。荒い鼻息で、劉暁を睨みつける。劉暁は息苦しい体勢で、辛うじて答えた。

「私は、調査の為に来ていただけだ!袁傪殿に仕えているのも、殿の好意で、妻を無くした私を拾ってもらっただけだ!」

劉暁が抗議するも、陳文は、納得しない。そして、

「おい、言えよ!」

そう言いながら、机に置いてあった硯で殴りかかった。

ドサッ

次の瞬間、劉暁は倒れていた。

「はあっ、はあっ、おい劉暁、嘘だろ?」

陳文は自分が何をしたか信じられぬようだ。

そして突然、部屋の襖が開いた。

「朝天か…?なぜここに?」

見られてはいけない現場を見られてしまった陳文は、呆気にとられて二の句が継げなかった。

「馬鹿か。何やら口喧嘩が聞こえるから、様子を見に来たらこのザマだ。まさか殺しちまうとはな」

「朝天、これは違うんだ!」

冷や汗が吹き出し、呼吸も整わないまま、否定した。

「ふっ。何も違くないだろう。お前が劉暁を殺したんだ。今から俺が、お前を袁傪殿に突き出すこともできるが、どうだ、ここは俺の話に乗ってみないか?」

「な、何の話だ?」

「お前の殺しを隠蔽してやるってんだ」

「何を…」

「お前、李徴を恨んでいるな?俺も同じだ。俺も、昼のあの李徴の態度は許せぬ。よく聞け、陳文。お前も袁傪なら李徴についてまだなに知っていると思っているだろう?」

「ああ…」

「袁傪から理由を聞きだせるようないい種を作ってやる。力を貸せ」


「そう言って、私と朝天ら手を組むことになったのでございます」

「なるほど…つまり、殺したのは陳文で、その後に手を加えたのが朝天ということか」

袁傪は、二人を交互に見た。

「して、朝天、お前は何をしたのだ?」

「まず、俺は劉暁の白い服を脱がせた。あとで、こいつになりすます為だ。そのあと、張謂の部屋に笠を借りに行ったのだ。張謂の部屋で笠を借りる時に多少話をして時間を潰したな。その間に、陳文に死体と共に移動させた。この時、俺は張謂と話をして、目を盗んでおき、陳文と死体は、影にならぬよう這わせて、厠まで運んだ。陳文と共に厠で死体を落とした。陳文に白い服を着させ、劉暁のふりをさせた。祖の目にきちんと焼き付けるように、分かりやすく振舞ってな。部屋に帰る時も、出る時と同じ手口で、張謂には、陳文の存在を気づかれぬようにして戻った。ただ、死体を落とした時に、大きな音がしたは誤算だったな」

「やはり、白い服の男は、陳文であったか」

袁傪は頷いた。

「皆が寝静まったあと、寅の刻くらいか、雨も収まってきたから、俺は仕上げをする事にした。この事は、こいつにも伝えてない。暗い坂をなんとか刀を杖にして、谷まで降りた。その後、刀でなるべく死体を斬って、虎の仕業に見せかける事にした。李徴が、もう一度我らを襲ったとあらば、袁傪が何か吐くに違いないと思ったからな。切り落とした腕はそのまま川に流した。もう結構な下流まで流れてるはずだ。今探しても見つからぬだろう。服に多く泥がついてしまったが、翌日どうせ劉暁を探し回るだろうから、その時に付いたものとすれば良いと思って、そのまま宿に帰った。正直、犯人が陳文だと特定されるとは思っていなかった。ちと、甘すぎたか」

一通り話終わったあと、もう一度舌打ちをした。


その後、

「なぜ、お前は危険を負ってまでも、陳文に協力したのだ?そのまま陳文を突き出せば良かったものを…」

袁傪が、がっかりした様子で尋ねた。

「そもそも俺が、こいつに手を貸したのは、俺も李徴を恨んでいたからだ。あいつは、俺ら一家を殺した。しかも、自分の為だけにしだ。俺の父上は、皇帝史思明の遠縁の軍人だった。まあ、俺は革命の最中に失落し、文官となってしまったがな。今の都での戦で、安禄山殿が優位になってきたであろう。もちろんそこに父上もいた。李徴はそこに漬け込んだ。あの糞野郎は、父に気に入られることで、政界に名を残し、己の詩行を成そうとした。それで、あいつは手始めに、姉上を利用したんだ」

朝天は、いつになく悔しそうに顔を歪め、また舌打ちした。

「お前も、李徴とそんなことが…」

袁傪が言った。

「あいつはまず、姉上に近づいて、交際を始めた。だが、しばらくして、あいつの本心を薄々感じ取った父上は、あいつを史家から追い出そうとした。もうあいつが、姉上に会えなくなった時、あいつは家に火を放った。風の日だった。火はみるみるうちに家を覆って、家族を焼く尽くしたんだ、あいつは。助かったのは、命からがら逃げ出して来た俺だけだ。あいつのせいでみんな死んだ。姉上も、父上も全員だ!こんな事があってたまるか!」

朝天は声を荒らげ、勢いよく小机を蹴飛ばした。

「しかも、あいつは姉上に平然と嘘をついた。あいつが姉上を殺すまでずっとだ。あいつは嫁はいない、俺が愛するのはお前だけだ、妾を取る気は無いと抜かしやがった。姉上を自分の地位を上げるための、ただの道具としてし見ていなかった。それなのに、虎になってしまったから、妻子の面倒を見てくれだ?ふざけるな!」

先程蹴った小机を今度は踏みつけた。脚が一つバキッと折れた。

「それで昨晩、隣で李徴の話が聞こえるから、覗いた。その時、ちょうど陳文が劉暁を殴り殺す所だった。俺はすぐにこいつを脅して、協力させた。袁傪、お前からあの嘘つきの本心を聞き出すためにな」

「それであのような工作を…もう遅いが、私は本当に何も知らないし、お前たちの言う李徴の正体も信じられない。いや、親友として信じたくないのだ。李徴がそんな非道な事を.する人だったなんてな…」

「私も信じませぬ!李徴殿がそんな悪人であるはずがございませぬ…」

袁傪と張謂は、李徴の正体を知って、衝撃を受けた。何せ、普段は多少傲慢なところはあったが、人殺しなどする気配が全く感じられなかったからだ。そのような非道な人物だと誰も思うまい。

「それが、あいつ、李徴の野郎なんだよ。息をするように嘘を吐き、平気で人を騙し、利用する。自分の目的のためなら、殺しだって厭わない。あいつに人を想う心なんてない、そういうやつだ。狂ってる。そうだ、あいつは狂ってるんだよ、心の根元からな」

朝天は、吐き捨てた。

「私は何も知らなかった。親友なら、なぜ李徴の事をもっと考えてやれなかったのだ。友として私は失格だな。李徴が職を退いた後は、彼の事なんか忘れて、私も自分の為に精進していた。本当の李徴に私が気づいてやっていれば、こんな事にはならなかったかも知れぬのにな…」

袁傪は、李徴の事よりも先に、自分が李徴の側にいてやれなかった事を悔いた。そして、

「陳文、朝天、お前らの悩みに気づいてやれなくて、本当にすまないな…」

袁傪は彼らに頭を下げ、そのままへたり込んでしまった。


昼時、嶺南尉の家臣何人かが、殺人犯、陳文と、偽造工作と死体遺棄をした朝天を連行して行った。

「まさか、陳文と朝天がな…」

涙ながらに彼らを見送った袁傪は、呂祖の前で嘆いていた。

「両人とも、李徴殿への恨みから起こしてしまった悲劇にございまするな」

呂祖も俯いたまま答える。

「李徴もだ。陳文と朝天が言っていたように、李徴は本当に狂っていたのか?親友である私でも気がつかなかったのにな…」

「私、医学と易学を学ぶ者として、一つ考えがあるのでございます。医学と易学、どちらも共通するのは、人の心を学ぶという事にございます。私も長く生きてきた中で、様々な人と出会いました。その中にほんのごく僅かだけいるのでございます。彼らが言った李徴殿にそっくりなお方が」

「どんな人なのだ?」

「李徴殿と同じように、傲慢で、人との交わりに興味がないのでございまする。かといって、他人を完全に嫌うのではない。利用するのです。自分の目的の為に人を使い、のし上がっていく。そういう人は一見、器用にものをこなせる秀才で、魅力的な事が多くございまする」

「つまり、李徴は私を本当の友達として見ていないと?」

「恐縮ながら、その可能性が高いでしょう。袁傪殿だと、虎となった李徴殿が気付けたのも恐らくは、袁傪殿が特別な道具だったからに違いありませぬ。袁傪殿ならば、きっと元の姿に戻してくれるに違いない。そう体が反応したのでございましょう」

呂祖は言いにくそうに、顔を歪めながら、考えを述べた。確かに、袁傪のように誰にでも寛容で、他人を自分以上に考えてしまう性格の持ち主は、李徴にとって利用しやすい人なのかも知れない。

「そうなのか…李徴よ、私はただの道具でしかないのか?」

長年の友に裏切られていたと分かり、空しさと悲しさが袁傪を襲う。

「李徴が妻子を私に頼んできた。あれも嘘なのか?」

「恐らくは。李徴殿に友情が持てないのと同じく、愛情も湧かないのでございまする。袁傪殿の力では、自分はどうにもならないと心が勝手に判断し、別れの言葉を述べたのでしょう。一生虎のままだと思い知らされて絶望したのでございましょう」

「なあ、祖よ。私は李徴が根から狂った人間だとは到底思えぬのだ。長年の旧友を狂人だと言って切り捨てる事は、私自身が許せぬ。どうにか、李徴を、誠実な人間に戻すことは出来ぬのか?」

「なんとも言えませぬ。ただ、昨晩私達が話し合ったように、李徴殿が虎になってしまった理由を説明するのに、何かが足りぬと思っております。ただ今になってようやく分かったのですが、そしたら私はその理由というのがもしかすると、この李徴殿の本性なのでございませぬか?李徴殿は、己が冷酷で、残虐な本性を自覚していない。無意識でこのような行為に及んでいるのです」

「つまり、どういうことだ?」

「李徴殿が己が性分を自覚し、それを直していく事が出来れば、人間に戻ることも可能ではないかと申しておるのです」

「なるほど。それでは、私が李徴にまた会わなければならぬな」

袁傪が難しい顔をしている。

「それだけではございませぬ。心の問題を解決するにはかなりの時間が必要であります。李徴殿であれば、自分の本性をしっかりと受け止めるところから始めねばならぬ上、かなり時間がかかるかと思われます」

「そうだな…」


翌朝、公用を張謂ら、優秀な家臣に任せ、袁傪と呂祖は一昨日歩いた道を戻っていた。そして、李徴が詩を読んだあの叢まで来ると、

「李徴、李徴はおらぬか?」

と、大声で虎となった彼の名を呼び、探し始めた。しばらくして、ガルル…という唸り声がどこからか聞こえてきた。

「李徴、そこにいるのか?」

唸り声の方へ歩いていくと、一匹の虎が、兎を食っているではありませぬか。虎は、人間二人を確認すると、容赦なくこちらへ走ってきた。大きく尖った牙を光らせながら。

「李徴、落ち着け!私は袁傪だ、分かるか!お前が人間だった頃の友の袁傪だ!」

袁傪は、腕を大きく振って必死に呼びかけた。虎が袁傪に襲いかかるかと思われた直前、虎は体を翻し、なんとか襲われずに済んだようだ。

「何故…また会いにきた?」

人間の心が戻ったのであろう。虎が人間の言葉で袁傪に尋ねた。その口調は、低く重たいもので、その目は虎らしく袁傪をギッと睨みつけていた。

「李徴よ、よく聞いてくれ。お前を人間に戻す事が出来るかも知れぬ」

李徴の目は大きく見開かれたが、すぐに、

「気休めも大概にしてくれ、袁傪。お前とは一昨日別れを告げたはずだ。ここに戻って来るなとも言った。何故だ?」

また鋭く睨みつける。

「単刀直入だが、李徴よ。昨日、私の家臣が殺人を犯してしまった。その動機は、李徴、お前なんだ。今のお前には、信じられぬかも知れぬが聞いてくれ。殺しをした男によるとだな、お前は残虐な殺人鬼なんだ」

袁傪は、李徴の本性をありのまま伝えようとする。だが、李徴は、袁傪に向かってグガアと吠えたてた。そして、

「馬鹿を言え!俺がそんなことをするはずがないだろう!」

李徴は、自分が殺人鬼だと言われてかなり怒っている。虎になってから、自分が様々な人に向かって行った、残虐な行為を思い出せていないのだろう。兎を食ったことはあれほどまでに悔いていたのに。

「李徴よ、お前が虎になったあの時、あの夜だ。お前は侍従に向かって何をしていた?鞭を持って痛めつけていたのではないか? そして、お前が史家に仕えていた時だ。あの家の女に近づいた。それで、一家全員焼き殺したのではないか?違うか?」

李徴は、目を見開いたまま、あり得ないと思って呆然としている。視線を落として、兎の血がたっぷりとついている自分の前足を見た。


その時、李徴の体の中に電撃が走ったのだ。何もかも思い出した。

血肉が飛び散る悲惨な光景。

辺りをつんざく人々の悲鳴。

骨まで焼き尽くされるような焦げた匂い。

傷だらけの肌を叩きつける鞭の感覚。


そして、

まだ温かい血と臓器の生臭い味。


李徴は思い出したのだ。陳文や朝天に与えた暴力の他にも、自分が様々な残虐な行為を犯していたのを。李徴は虎になってすぐに、一人の女を食い殺した。それは、劉暁の妻だったのだ。

「グアアアア!」

李徴は衝撃のあまり、雄叫びを上げている。

「これが、お前の正体だったんだ、李徴よ。虎となるまで、お前本当の姿に気づいてやれなかった。本当にすまない。李徴、今からでも遅くはない。もう一度、人間に戻りたいとは思わないか?私は何度へでもここへ来る。李徴よ、私はお前がまた人間として暮らせるようになるためになら、何だってやろう。ずっとそばにいてやろう。お前が人間となるその日まで、私はずっとお前のことを待ち続ける。毎日、毎日だ」


それから、毎日日が昇ってから、日が暮れるまで、袁傪は李徴とともに彼のの心を見つめ直した。


それから何年程経ったであろうか。袁傪は、順調に出世街道を進み、御史中丞として都で活躍していた。


大雨の夜、袁傪は書斎に座ると、一冊の詩集を手に取った。

その詩集の題は、「人虎伝」。



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