その壱
異類の身へと変貌した李徴と、その唯一無二の親友、袁傪は、奇跡的な再開を果たした。別れの後、袁傪一行は、南嶺への地へと足を進めていた。
日が沈みかけた頃、
「あの李徴がまさか、虎になっていたとはな」
袁傪は、いつに無く哀しそうな目をしながら呟いた。
「はい、あのままもう人には戻れぬと思うと、無念でなりませぬ」
袁傪の背中で老人が答える。
「ああ、なんとかしてやりたいのだか、親友の私にも何も出来ぬ。情けないな」
沈んだ空気に追い打ちをかけるように、ぱらぱらと雨が降り出した。
「雨が降り始めて来たな。張謂、笠は持っているか? お前のは壊れていたはずだ。雨が強くなっては困るだろう。私のを一つ貸してやるぞ」
袁傪は、隣にいる青年に声を掛けた。
「問題はございませぬ。予備を用意しておりましたので」
まだ背丈の低い青年が、笠を取り出しながら言った。
「笠なら、そこの朝天にお貸しくださいませ。涼しい顔をしておりますが、笠を持っていないかと聞かれました。多少強引でしたが」
張謂が笑って答える。
「朝天、笠なら貸すぞ」
と、呼びかけるもすぐに
「要らぬ」
と返ってきた。
「相変わらず冷たいな。お前は」
袁傪は、苦笑した。
すると、ピシャーンと遠くの山の方で雷鳴が聞こえた。見上げると、黒く濁った雲が迫ってきている。
「今日は色々なことがあった上に、この天気だ。本降りにならぬうちに早く宿に入ろう。お前達も、服が濡れると後で大変だろう」
袁傪一行は、漢水辺りの宿に泊まることになった。
夜、先ほどの雨はかなり激しくなり、屋根や窓を痛いほどに叩きつけていた。そんな中、離れの一角にある、老人の部屋に一人の来客がやってきた。
「祖よ、少し話をいいか」
祖と呼ばれた白髪の老人は、戸を開け、袁傪を招き入れた。
「ひどい雨だな、母屋から離れまで少し歩いただけでかなり濡れてしまった」
袁傪は、着物を拭きながら、床に腰を下ろした。
「やはり、李徴の事が気にかかって仕方ない。祖よ、どうにか、李徴を人に戻す方法はないのか?」
袁傪は碁盤に白石を打ちながら尋ねた。
「そもそも、李徴殿が虎になった理由も己が心が元にございます。それ故、人に戻るのも、李徴殿自身の問題でございましょう」
老人、呂祖が答える。
「されど、李徴は、虎になった理由にも気づいている。そなたも見たであろう、李徴が悔やみ、嘆いているところを。私は、旧友が虎のまま一生を終えなければならないと思うと心苦しい。どうだ、医学と易学に通じているお前ならば、何かしてやれるのではないか?」
「そう言われてみると…確かに私も疑問に思うところがあります。虎への変身が、天が与えた罰であるならば、李徴殿はもう許されてもよいのではないのかと。袁傪殿、李徴殿が虎になった本当の理由は、内なる猛獣なるもののほかに何かあるのではないですか。李徴殿はまだそれに気がついていない。それ故、李徴殿は、人に戻れないのではありませぬか?」
「なるほど。そなたの考えは一理あるかもしれぬ。では、その真の理由とやらは、一体何なのであろう…」
袁傪と呂祖は夜が更けるまで、真剣に語り合った。
「祖よ、また李徴のことは明日考えよう。この雨では、明日は出発出来ぬかもしれぬからな」
袁傪は、立ち上がり、自分の部屋へ帰っていった。
日が昇り、家臣一同も起き始めた。昨晩の土砂降りの雨はもうすっかり上がっていた。
「劉暁よ、朝食はまだか?」
袁傪は厨房に向かって呼びかけた。しかし、誰も答えない。心配になって、再度劉暁と大声を出すも、返事は返ってこなかった。
「張謂、居るか?」
と、聞く。はい、と言う声が聞こえた、
「もう日が出てから、結構な時間が経つ。朝一番に起きて、朝食の支度をしているはずの劉暁がいないのはおかしい。すまぬが、劉暁の様子を部屋まで見にいってくれ」
「かしこまりました」
張謂は、離れの方に向かって走っていった。 劉暁は、袁傪の家臣の身でありながら、料理の腕が立ち、旅先での調理係となっていた。毎朝早くに起きる劉暁がいないという事態は異例のことだったのだ。
「袁傪殿! 劉暁殿がどこにもおりませぬ! この屋敷中全て探しましたが、それでも見当たりませぬ…」
しばらくして、息を切らした張謂が走って戻ってきた。
「やはりおかしいな。張謂、劉暁の部屋に置き書きなどなかったか?」
「いえ、ただ部屋の窓が開いていたのが気になります。」
「そうだな、この雨では、部屋の中は濡れてしまうのにな。もしかすると、劉暁は何らかの事情で外に出たのかもしれぬ。皆で手分けして探そう」
「はい!」
劉暁、劉暁とあちこちで消えた男の名を呼ぶ声がする。袁傪とその家臣一同で、周辺の山や、民家を探し回っていた。すると、
「殿―!早う来てくださいませ!」
家臣の一人が、谷底の河岸で必死に彼を呼ぶ。すぐに袁傪と他の家臣らは駆けつけた。
「おい、どうしたそこまで慌てて」
驚きのあまり腰を抜かした家臣は、谷を流れる川のあたりを指差している。
「あああっ!」
そこにあったのは、無惨に傷つけられた、劉暁の死体だった。顔の右半分と、右腕は、引きちぎられていて、無くなっている。体の大部分は抉られ、眼球は飛び出し、白かった彼の服は、鮮血と泥で汚されていた。昨日まで元気だった彼は、目を覆いたくなるような、むごい状態に変わり果ててしまった。
「どうして、こんな事に…」
袁傪は信じられないと言う顔つきで、へたり込んでしまった。
「あああっ。なぜだ、劉暁!」
彼の死体の前で、涙を流しているのは、彼と仲の良かった陳文だった。もう動かぬ友人の遺体を必死に揺さぶっている。劉暁の突然の死に皆が狼狽していた。そんな中、後ろで腕を組んで見ていた朝天が前に出た。服に付いた沢山の泥を払いながら、ぽつりと言った。しかも、鼻で笑うようにして。
「ふん、虎に食い殺された。何てな…」
袁傪の目の色が一瞬で変わった。
すると、その周りで
「そうだ、虎だよ」
「昨日の李徴殿がここまで追ってきたんだ!」
「人に戻れなくなって、その腹いせに食ったに違いない!」
ざわざわと、後ろにいた家臣達が口々に話し出した。祟りだ何だとの勝手な類推が、彼らをもっと騒ぎ立てる。陳文と袁傪は、手を握り締めて耐えていた。
「黙れ!」
二人が叫んだのは同時だった。辺りはしんと静まり返った。そして、袁傪は遺体の元へ歩き、
「祖よ、劉暁の遺体を宿まで運ぶ。手伝ってくれぬか?」
と呂祖に呼びかけた。立ち上がる陳文を支えながら、家臣の方を向いた。
「そなたらも、一旦宿に戻ろう。ここにいては落ち着かぬだろう」
劉暁の遺体は、雨のせいもあり、とても冷え切っていた。すでに硬くなった遺体を、二人掛かりで丁寧に持ち上げると、一同は丘を登って、宿に帰っていった。宿までの何ともない登り坂も、袁傪にはとても苦しく感じられた、
一同は宿で、彼を弔い、別れを告げた。
「本当に劉暁は、李徴殿に食い殺されたのでございますか?」
少しは落ち着いた様子の陳文は、恐る恐る、遺体に向かって手を合わせている呂祖に尋ねた。
「分かりませぬ。ただ、あの傷や無くなった腕から考えると、事故ではない事は明確でございましょう」
「そうでございますな。しかし、私は劉暁がこのなかの誰かに殺されたとは考えたくはありませぬし、もしそうであれば私が納得できませぬ。李徴殿かはともかく、猛獣に襲われたということの方がまだようございます」
「少なくとも、李徴殿ではございませぬ!」
呂祖の後ろに控えていた 張謂が、突然抗議した。
「そうだ、李徴ではない!」
そこにいた袁傪も、声を荒らげた。
「李徴は昨日、自分の過ちに気がづいた。虎になったのは、自分せいだと悔いていた。今更、今になって李徴が我々を襲う訳がない!私は李徴がやったなどとは絶対に信じぬぞ!」
いつもは落ち着いて皆をまとめている袁傪だが、この時ばかりは感情的になって我を忘れていた。昨日別れを告げたばかりの旧友が、殺人を犯したとは思いたくはないのだろう。
「そうにございます、袁傪殿!ましてや、あの李徴殿が人を殺すとは思えませぬ!」
張謂も、同様に必死で声を張り上げた。
「まあ、落ち着きなされ、二人とも」
呂祖が手で袁傪と張謂を制止した。
「そうとも限らないのではないか」
柱に寄りかかって、腕を組んでいた朝天が口を挟む。
「李徴殿は、人間の心が無くなってきていると言っていた。人の心が無い時なら、無意識に人を食い殺す事だって十分あり得る話だろう。虎なら、一晩でこの距離は楽に移動できるしな。まあ、劉暁が雨の夜にあんな所にいたのかは知ったことでは無いがな」
朝天は、冷静に自分の思うところを述べた。
「朝天、もう少し言葉を選ばれた方がいい」
まだ目の赤い陳文は、朝天を睨みつける。そして、
「呂祖殿はどちらだと思いますか?」
と、意見を求めた。
「私もまだ断言できませぬ。襲われたと言っても、李徴殿では無い別の獣の可能性もありますしな。」
呂祖もかなり困っているようだ。
「陳文殿、劉暁殿の遺体を詳しく調べてもよろしいかな?」
そして呂祖は、陳文に向かって尋ねた。
「それで劉暁の死因が分かるのならば、私も手伝います」
棺に入れられていた劉暁の遺体を一旦外に出し、彼らはそれを調べ始めた。
「陳文殿、何か無くなっているものなど分からぬか?例えば、首飾りなどでな」
呂祖は埋葬用の衣服を遺体から脱がして聞いた。
「劉暁は、首飾りはつけぬ人だったな。それ以外も特にないかと。しかし、このようなむごい傷跡をたくさんつけられて、私の心も痛むばかりにございます」
陳文は座って、自分の服を握りしめた。
「確かに、獣に襲われたにしては、傷跡が多い割に、食われた分は頭と腕をだけであるな。あまり釣り合いの取れないような気もするが」
先ほどは動揺していた袁傪も、落ち着いて自分の考えを述べた。
「そうでございます、袁傪殿」
張謂が相槌を打つと、袁傪は何か思いついたような顔をして、
「張謂、劉暁の服を持ってきてくれぬか?劉暁が死んだ時に身につけていたものだ」
「かしこまりました」
張謂は頷くと、奥へ下がった。
「袁傪殿、この傷跡は爪の跡のように見えませぬか?」
陳文が劉暁の背中を見て言った。
「この足の傷もそうだ」
上から覗き込んでいた朝天が、付け加える。
「確かにそう見えなくもないな…」
と、袁傪は考え込むが、呂祖は、
「しかし、この傷は少し直線的過ぎぬか?引っかかれでもしたら、もう少し曲がっていても良さそうなもの」
と、背中の傷を見て言う。
「なるほどな」
袁傪は感心したように言う。そして呂祖は、
「今まで、色々な怪我人の治療をしてきたが、これは爪痕ではなさそうだな、刀傷の可能性もある…」
そう呟いた。
「誰かが劉暁を斬りつけたこいうことか…」
袁傪も考え込んでいる。その時、 張謂が劉暁の服を持って戻ってきた。その服を袁傪は、劉暁の遺体に着せる。
「発見した時は、ほぼこの状態だった。もし、この服の切れ目と、体の傷が一致しなければ、獣以外の誰かが劉暁の死に関与したと言うことになる」
袁傪は説明しながら、遺体全体をよく見る。すると、
「あっ!」
全員がほぼ同時に気がついた。先ほどの背中の傷に対応する布が切れていないのを。
「つまり、これは殺人…」
朝天がぽつりと呟いた。