20.飛翔『アヤメ……さん?』
一度浮き上がることに成功したら、その後は着々と上達していった。さながら初めて補助輪を外して自転車に乗れた時のように。
一度でも『飛べた』のなら、それは『事実』や『経験』へと変わり、再度強く思い込んだり信じたりする必要もなくなる。さほど意識せずとも、自然と扱えるようになる。そうやってこの世界での魔法は上達をしていくのだろう。
ここにきてようやくそれが実感できました、辛く苦しく長い道のりでした。
地上から二メートル程度での飛行を幾度となく繰り返し……バランス感覚を養い、地に足がつかない不安感や恐怖心を和らげていく。
万が一墜落しそうになってしまった際を想定してのイメージトレーニングと共に、エアバッグ的な魔法も散々練習した。
なぜそんな必要があったかと言うと――『より高高度までの到達』を試みようとしていたからだ。
移動手段としての飛行ならば、高度は五メートルもあれば十分だろう。
しかし、私にはそれよりも遥かに高く飛ばなければならない理由があるのです。今後を左右する死活問題なのです。
そう、その理由とは――!
やっぱり! どうせなら! 思いっきり高くまで飛び上がってみたいじゃないですかっ!?
そんな熾烈なまでの衝動を押し殺して、この先生きのこって行くことなど不可能に近いと思うんですよ! ……今の文を区切る部分には注意してね。
けれど……もしそれでしくじって、地面に激突したりしたら……たぶん、死んじゃうんだろうなぁ……。
そんな最期だけはほんと御免です。師匠にも顔向けができません。
でもやってみたいんだもん! そこに浪漫があるのだから!
――とくん、とくん。心地よいリズムを刻む心臓の音。
元々高いところに対する恐怖心も薄い方で、これから行おうとしてる命の賭かった無謀な挑戦にも、期待に胸を膨らませる一方だ。
「……よっし!」
頬をぺちんっと叩いて自身に活を入れ、徐々に上昇を始めた。
――……三……五メートル。…………十メートル……――。
……そろそろ……現実世界における、一番高いビルぐらいになっただろうか。有名な電波塔の展望台ぐらいになっただろうか。
現実世界では到底望めそうもない、その身一つでこの領域に到達する。それは想像していたよりも、遥かに贅沢な眺望を魅せてくれた――。
「あはっ、すっごぉ……!」
雲が、空が近い。燦々《さんさん》と降り注ぐ日差しが、いつもより眩しく感じる。地上にいた時よりも遼遠まで見渡せ、雄大な自然が一面に広がっている。
この景色は何とも筆舌に尽くし難いが……一言で表すなら――爽快、だ。
幸い滞りなく成功してくれたことにホっとする。そしてやっぱりやってみて良かったと、とってもご満悦な私。
「――おぉっ? あれはー……」
ふと、ぽつんとした人口の建造物群を……街の存在を認めた。控えめな速度で、ゆっくりと近づいて行く。
まるでミニチュアの模型のように街が小さく見えて……その全容が一望できた。
見ろ、人がゴミのよう――などとついつい叫びたくなる衝動に駆られるが、大分語弊があるのでやめておこう。
『ティファレシア』――それがこの街の……かつて国だった場所の名前。
周囲は歩いて超えるにはなかなか厳しいであろう急峻な山々。これだけ高く飛び上がって見渡しても海らしき影は見えない。陸路・水路のどちらもほぼ機能していないのだろう。これでは発展も望めないと、この地を見限ってしまうのも仕方がないことかもしれない。
移民により人口も減衰していき、衰退の道を辿る一方だった。それでも命じられたり絆されたりした訳でもなく、自らの意思でここに残った人たち……もしかしたら、ここと共に滅ぶ覚悟すらあったのかもしれない。
――この場所を……愛した故郷を、守りたかったんだろうなぁ……。
この美しい光景を目の当たりにしては、決して愚かなことだとは思えない。それどころか共感すらしてしまう。
『師匠に託されたから』――今はもう、それだけじゃない。
私も、ここを――この世界を、守りたい。その想いが心に刻まれた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
翼での飛行による、街周辺の散策も慣れてきた。
しかし行けども行けども……草原、森、山……ときどき川。自然の他には何もない。危険な魔物なんて影も形もない。
更に付け加えて言うならば――
――動物すらも、いない……。
酒場で聞いたことがある。『街の人は魔法を使うのか』、と。
確かに誰でも使うことができるが、日常生活に役立つ程度のものだそうな。火を熾したり、農作物に水をやったり。そういったものしか扱えず……否、扱おうとすらしていないみたい。
その例に漏れるのは、便利な道具などを作ったりする専門職さんや、街の秩序を担う衛兵さんぐらいだと言っていた。
特に衛兵さんは日々訓練をしているらしいが、自然災害を始めとする突発的な事故を解消するのが主な目的だ。住民同士のトラブルを治める警察的な役割も一応あるにはあるが、あの治安の良い街ではそういった出番もあまり来ない。酔っ払った者のいざこざや痴話喧嘩が、ごくごく稀にあるぐらいだそうで。
誰でも自由に魔法を使える世界でありながら、多くの人間が魔法を必要としていない。
それはつまり、何かとの争いがない世界――戦う必要がない世界、ということではなかろうか。
以前に私は、こう思った。『こんなにも長閑そうな世界なのに』、と。
ここに来てまた、同様の感想を抱いてしまう。甘い考えが頭を過ってしまう。
『本当にこの世界が脅威にさらされているのか』、と――。
しかし直後にその頭を振り、強引に掻き消した。
あの時は――師匠の最期は、予期なんて全く出来なかった。
それを……突如現れた、たった一匹の魔獣により――平和だった日々が、見るも無残に瓦解させられた。
同じことがこの先に起こらない保証なんて一切無い。たった一匹、同等以上の魔獣が現れるだけでも――あまり想像したくない事態を招きかねない。
いつ、どこで、何が起こるか。それがわからないからこそ、脅威なんだよね――。
◇
探索中の森の中で、つい先日お世話になったお花さんを見つけ、傍にしゃがみ込んだ。
――アヤメさん、アヤメさんや。今一度そのお力を貸しては頂けませぬか
心の中でとはいえ、お花に話しかけ始めるとか相当疲れてるなぁ……などと他人事のように思う。
――あれっ? これ、本当にアヤメかな……?
唐突に湧き上がってきた疑問に、私は首を傾げた。こうして近くで見てみると、どんどん自信がなくなってくる。
そういえば、よくごっちゃになってしまった覚えがあるんだよね。見た目がよく似た花として、ハナショウブ、カキツバタ、ジャーマンアイリス……とか色々あって。
……ううーん。眺めれば眺めるほど、考えれば考えるほど、不安だけが募っていきます。
ただ、どれも花言葉は素敵だった気がするんだ。たしか――
アヤメは……『信じる者の幸福』の他に、『よい便り』。
ハナショウブは……『嬉しい知らせ』、『あなたを信じる』。
カキツバタは……『忍耐』、『幸福は必ずくる』。
ジャーマンアイリスは……『使者』、『素晴らしい出会い』。
――……とかとか、えとせとら。
うん。現状は特に、是非とも授かりたいお言葉がいっぱいです。
どうかお願いします、お花様。後であなたの見分け方をちゃんと調べ直しておきますので……。