11 誰も月に来ない
種の分岐前に日本が転移魔法を教授した勢力がいくつもあってその技術を発展させていれば月に来る勢力がいてもおかしくはないのだが……
種の分岐までに死んだ日本人は当然いて、旧人類の魔素生命の記録情報は同種として全人類が共有していたから他の勢力でも日本の魔法の情報を入手可能であった。
情報の解析力と応用力がないと利用が困難ではあるけど解析に充分な時間が有った筈だ。
魔法の情報を入手したら修練を積む必要はあるけど月に来るレベルの魔法使いには誰でもなれる。
現に日本の外宇宙探査に関しては宇宙艇を使ってではあるけど魔法の修練を積んだ人々が進めている。
だから潜水艇程度の密閉空間を造る技術が有れば転移魔法なしでも月や火星に来ることは可能な筈だ。
有人宇宙船に関してはアメリカ合衆国やロシアには充分な技術の蓄積が有るから魔法なしでも月までなら人を送り込むことが可能だろう。
種の分岐の前に日本社会では植物の魔法を利用することが社会全体に普及していたから植物の生体魔法回路を利用するための情報が入手可能だった。
実際に植物は国外に持ち出されて他国が研究を進めているとの情報も入っていた。
その後、火星に移植した植物が転移魔法ゲートを使う様になったからそれを利用して月や火星に乗り込む者がいてもおかしくはないのだが。
月に人を送り込む勢力が有っても良さそうなのになぁ……
「健ちゃん、地球で日本人以外の勢力が月に来る兆候は出ていないの?」
「月の変化に気が付いている勢力は有るみたいですけど状勢がそれを許さないみたいな感じです」
「ヨーロッパやロシアは自称メシア達の聖地争奪戦の余波が有るから分かるけどアメリカやオーストラリアはどうして?」
「アメリカ合衆国は軍が国を何とか纏めている状態であることと難民と宗教対策で手一杯みたいですね。独立した例の宗教勢力が何をしでかすか分からないから優秀な軍人は張り付いて動けない様です。軍上層部は国を纏めるのを優先しているから動けない訳です」
シナ人を排除したのとは違ってキリスト教関係は信者も多いから潜在する同調者も多くて動き難い様だ。
シナ人になりたい人はかなり限られていたけど独立して国となった宗教勢力に靡きそうなアメリカ人はかなりいる。
新人類の分岐は未だに不安定で眷族は他の新人類に移ることは可能だからそうなる。
種が取り敢えず固定化するのは元旧人類の世代がいなくなった後と考えられている。
そうすると勢力争いの過渡期がしばらく続いて種が固定化するのは真世歴百二十年以降となるから当面は不安定な状況だな。
その後も異種交配は可能だから新人類間の勢力争い自体は続く可能性が大きい。
少なくともシナの覇権争いやエルサレム等の聖地を巡る争いは続くと見た方がよいな。
「軍以外にも魔法研究者はいるだろう?修練を積んだ者も居る筈だ」
「軍人のマスターが有能で他のマスターの動きを抑え込んでいるんですよ。これ以上の分裂を阻止する為ですかね。軍の抑えが無ければ今頃は新人類ごとの勢力に分裂して勢力争いをしていたでしょうね」
「ふ~ん。国として纏める事を優先している訳だな。オーストラリアは如何なの?ヨーロッパから移民が流れ込んでいて一緒に資本も来て経済的にも潤ったはずだ。余裕が有る筈だけど」
「移民の中にマスターが数人いてその内の一人がキリスト教系の原理主義者で今揉めている所です」
「あそこの真祖はキリスト教徒だったけど寛容で日本とも上手く遣っていた筈だけど?」
「寛容なのが裏目に出たみたいで……あそこはシナ人や半島人がコロニーを造って揉めていたでしょう?そのコロニーを移民の原理主義者のマスターと眷族が中心になって潰したんですよ。それで支持者が増えて今では彼の眷族が人口の2割ぐらいを占めています」
「ニュージーランドは大丈夫なの?」
「あそこのマスターは元軍人の愛国者で原理主義者という訳でもないですから大丈夫な筈です。外から成体の新人類のマスターを受け入れていませんし、シナ人と半島人のコロニーも自力で潰しました」
「それでオーストラリアが揉めているのはどんな感じな訳?」
「それがですね。その原理主義者のマスターがエルサレムを偽メシアから取り戻せとか言い始めて、それから国内のイスラム教徒を潰そうとしてインドネシアとも揉め始めて、ヨーロッパ程はイスラム教徒とは揉めていなかったから対抗勢力が出来て……」
「……例によってその原理主義者の新人類は他種は認めない自種中心主義の群れな訳だ」
「そうです。元々はヨーロッパから追い出されてオーストラリアに移民した口です。初めの内は穏健だったようですよ。修道院を造ってそれを中心に布教活動をしていたそうです。近隣の住人は気にしていなかったようですね。それがシナ人や半島人のコロニーと揉め始めてそれらを潰してからは一気に勢力を拡大して今に至る訳です」
今迄ではオセアニアは落ち着いていると聞いていたから揉め始めたのは最近の筈だ。
それも私の耳に届いていないと言う事はごく最近の。
「それは上手く遣ったと言うかなんと言うか。初めはエルサレム奪還とかの話は無かったんだよね」
「最近ヨーロッパでも原理主義者が台頭し始めているんですがそれと対抗しているようです。何故か言っている事が似ているんですよ。連中はヨーロッパから追い出されてきた訳でしょう?過去に何かあったのかもしれませんね」
「似た者同士でいがみ合っていたのかな?ん~対抗している?ヨーロッパから十字軍みたいな勢力が出てきたってことかい?」
「そうです。勢力拡大中です。ヨーロッパは内側から瓦解するかもしれません」
「イスラム教徒と揉めているのは当然だけど、エルサレムを取り戻せか。連中の頭の中は如何なっているんだろうね?そうするとアメリカから独立した奴等も何かしていそうだな」
「そこの情報は無いです。独立後は他の勢力との接触を断っています。鎖国ですね」
「そうなんだ。それにしてもヨーロッパの原理主義者もエルサレム争奪戦に参加か。ヨーロッパはともかくオーストラリアは何とかしたいけどな。内戦に発展しそうな感じなの?」
「現状は原理主義者側が軍を引き込めていないから内戦は無いと思います」
「エルサレムの奪還については本気だと思うかい?」
「本気では有るでしょうね。眷族に嘘は付けませんから。ただいつ奪還するかは言っていませんから如何にでもなると思いますよ」
未来に対する発言は発言者の思考と言動が明らかに違わない限りは嘘にはならない。
その思考も未来の状況次第で修正可能だからどうにでもなるのだ。
確定した過去の事象とは異なり未来の事象は未確定だからそんなものだ。
同じ魔素生命に繋がっている者同士では嘘が付けないとは言っても未来に対する言動は状況次第で変動するものなのだ。
あとは信用の問題で過去の未来に対する言動と現在が合致する人ほど信用される。
かと言って状況に合わせて言動を替えれない者は非常時には対応できないからそれが良い事とは限らない。
結局は良い結果を出した者が一番信用される。
あくまでもそこに至る過程が法や倫理の許容範囲であればの話だけど。
「そんなところだろうなぁ。でも発言している以上は現時点では本気と言うことだ。エルサレムで揉めているなら放置でも良いけどオーストラリアで揉めるのは不味いだろう?資源の供給拠点だから東南アジアにも影響が出る。シナの封じ込めにも影響が出るってことだよ」
「でも今の所はあちらの国内問題ですからあからさまな手出しは出来ません。内戦が始まるか。国外に干渉を始めない限り無理ですね。あとはオーストラリア政府が日本政府に救援要請でも出せば動けますけどまず無いでしょうね」
「人口の2割を眷族にしているんだろう?救援要請が有るにしても内戦が始まってからかな?でもその内戦が嫌なんだろう?いっそのことアメリカから独立した奴等みたいに独立してくれた方が対処がし易い」
「アメリカとは事情が違いますからね。オーストラリアは人口も多くないから本来ならマスターは一人で充分なんですよ」
実際は移民国家だからもう少し複雑で原住民のアボリジニは明らかに文化が違うから種が分岐してもおかしくはない、ただ種が分岐しても少数過ぎて他勢力に飲み込まれる可能性が高いけど。
シナ人があからさまな異分子であったことと紛争地からは海で隔たっていることから国として分裂に至る様な問題が少ないだけだな。
「それは今更な話だな。ん~今の状勢ではオーストラリアも月に来そうにないって事だな。修練を積めば魔法だけでも来れる筈だから予想外の勢力が来てもおかしくないんだけどその兆候もないの?」
「今の所は有りませんね。あるとしたら以前お話に出た植物を利用する新人類が現れた場合ですがその情報を掴むのは困難です。それに仮に月や火星に来る能力が有ったとして月や火星に来る意思が有るか疑問ですね」
「仮にいるにしても植物が同種でないと転移には利用できない筈だから馴染んでいる植物次第かな?同種の植物がいる所になら何処にでも転移可能だよ」
植物は転移魔法で蜂や蝶を月や火星に送っているから当然の事ながら人も送ることが可能だ。
「そうするとあまり意識もせずに月や火星に来る可能性も有りますね」
「あぁ、そうだな。蜂や蝶に月や火星に来る意思が有ったとは思えないから人の場合も同じだろう。まぁ、シナの奴等やメシア騒動の奴等は使えない手だからあまり用心する必要はないよ。自種以外の生物を奴隷扱いして上手く植物と馴染めるとは思えないだろう?」
虫と違って人の同意がないと植物は人を送れない筈だ。
そしてこの方法で転移するには人と植物が馴染んでいる必要もある。
「シナ人の中にも植物と馴染める人はいると思いますよ。ただ人の転移は無理でしょう。日本人でも植物のゲートを利用して転移する人はいませんよ」
「火星の居住者なら自分で転移出来るから態々植物のゲートを利用する人もいないさ。それに植物のゲートはまだ研究段階で信頼性も低くて物を送って試している所だからね」
「シナなら人命を軽視して試しそうですね。ただ成功するにしても用途は限定されるかな。植物に馴染んでいない人が植物のゲートを利用する事は不可能だから物資の輸送に利用するぐらいですか」
「そこまで魔法が使える熟練者はシナではそれなりの魔法教育を受けたかなりのエリートの筈だろ。彼らは人に命令する側だから物資の輸送なんかは手下に遣らせるんだ」
「植物を使えない人に命令しても植物を使った転移は出来ませんよ?」
「でも彼らの文化圏では自身では何も遣らずに命令して他人に遣らせるのが権威の証で自分で遣ると舐められるんだよ。命令するだけの文官の方が武官より偉そうにしているだろう?」
「……そうすると転移魔法を使わずに物資の輸送を行っているんですか?」
「少なくとも普段は転移魔法が普及する前の日本みたいに輸送していると思うよ。魔法をそこまで使える人自体が少ないんだから。非常時にでも勿体ぶって転移魔法を使った方が権威も上がるしね。流石にアイテムボックスぐらいは常時使用しているとは思うけど……」
「……社会の在り方が日本とは全然違いますね」
「シナ周辺で独立した勢力もその傾向が有るんだよ。シナ辺境に当たる満州や台湾はましなんだけどね」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。それでシナだと私みたいな真祖は舐められて眷族が付いてこないんだ。命令するだけで踏ん反り返っていないと駄目みたいだな」
「日本にもそういった輩は居ますよね。でもシナの社会の在り方は日本とは違う。何が違うんだろう?分かりますか?」
「さあ?シナ人は今の覇権争いを始める前からそんな感じだからなぁ。これは人が長い年月をかけて文化を育んできた結果だからね。今だけを見ても分からないよ。ただシナでは二千年以上も同様の覇権争いを繰り返しているからこれからも同じではないかなぁ」
「そうなんですか?実を言うとシナの事はこれまで深く考えたことがないんですよ。私にとってシナはシナ人同士が覇権争いで殺し合っているだけの地域で関心が有るのは封じ込めが上手く行っているかどうかだけなんです」
生まれる前からシナが内戦状態の世代はシナには関心がない。
種の分岐によって別種の新人類に分かれたこともこれに拍車をかけた。
彼等にとってシナ人は必要もないのに殺し合いをして物資を消費する馬鹿なお得意様である。
シナに対しては日本政府すらも難民が厄介とは考えているが軍事的な脅威とは既に考えていないのでこれは仕方のない事かもしれない。
彼等にとっては日本人がシナ人や半島人と揉めていた事も授業で学んだ旧人類の歴史の話で実感がないのだ。
シナ大陸では未だに「日本人が──」とか「日本人は──」とか喚いているのになぁ。
「シナは封じ込めが上手く行っている間は気にしなくて良い。日本が巻き込まれないことが何よりも優先する。何かあるとしてもシナの覇権の趨勢が決まってから逃げて来るぐらいじゃないかな」
「他に月に来れそうなのはヨーロッパとロシアぐらいですか。アジア諸国はシナの封じ込めが優先していてそこまでの余裕がないと思います」
「ヨーロッパとロシアは聖地争奪戦の余波があって無理ではないのか?」
「原理主義者の台頭に伴ってEUや国の枠組みが弱くなって各新人類勢力がバラバラに動く可能性が高まりました。そうすると逃げるならアメリカかロシアに向かうと考えていましたが月に向かう新人類も中にはいるかもしれません」
「確かに能力的には可能な者もいるかもしれないな。でもヨーロッパの状勢次第ではこちらの手には負えなくなるよ」
「どういうことですか?」
「ヨーロッパが平常なら月に来ると言っても偵察の限られた人数だろうし火星側主導で動いても時間的には余裕があって調整出来ると思うよ。だけどヨーロッパ状勢が混沌としてからだと地球側主導で動かないと無理だ。難民みたいな形で大量に押し寄せたら月で戦闘が始まってもおかしくはないんだから」
地球で日本がしている様に難民は基本的に排除して良いなら問答無用で排除するけど現状はそこまで話を詰めてはいない。
今は月に偵察に来る勢力は受け入れるのが基本で相手が敵対して戦闘になったら排除となっている。
非戦闘員が大挙して月に押し寄せることを想定してはいない。
「それはいくら何でもないと思いますよ。月には表向きは空気もないし不毛ですから」
「パニックになったら如何動くか分からないだろう?日本が月で何かしていることは相手も掴んでいるんだ。とにかく政治絡みの緊急な話はこちらでは対処不能だ。美里に報告して非常時にどうしたら良いか決めといてよ」
「了解しました。マスターには報告しておきます。いつもの様に沃土さんや映美さんと相談して進めておけば良いですよね」
「それで良いよ。いつもの様に映美には家で聞くから。今の話も映美には家で話しておくよ」
この件は既に地球側は動いている可能性が大きいかな?
経験上、私が気付いた頃には話は進んでいて既に対策済みの事も多い。
それにしても何故月にすら来る勢力がないのかな?
月は望遠鏡を使用すれば鮮明に目視できるから転移する者がいてもおかしくはない。
空気の問題は昔の不格好な宇宙服でも着れば別にバリアを使えなくても何とかなる。
一人だけでも月に送り込めば後は日本が遣った様に転移を繰り返せばいくらでも人を送り込める。
望遠鏡を使えば衛星軌道上から地球上の何処へでも転移魔法で乗り込むことが可能ではある。
ただその方法では大軍を一挙に送り込むのは難しいのでスパイに利用するのが精々かな。
日本なら転移陣が有るからもう少しましだけどいずれにせよ大軍を一挙に送り込むのは難しい。
転移魔法では妨害されたら敵に近づくのはまず無理だから大軍を送り込む様な目立つ方法は使えない。
転移魔法は転移先に生物がいるだけで上手く発動しないから攻撃魔法に次いで発動を妨害するのが楽な魔法なのだ。
便利だけど残念ながら戦時に敵地に乗り込むのには向かないかな。
だけど平時に月に乗り込むのには支障がないから能力が有れば月には来れる筈なんだよ。
…………何で月に来ないんだろう?




