舞台裏 忘れられた蟲毒の祠
舞台裏、所謂蛇足です。読んでも読まなくても話は終わりです。お付き合いありがとうございました!
鈍色の月が、神社を上から照らしている。人気の無いそこは廃墟となって久しいのかもしれない。朽ち果てた回廊には埃がたまり、白くなっている。辺りを満たすのは虫の鳴き声だけだ。だから、この場で聞こえた声は酷い違和感を与えた。
「誰もいないって良いね、静かで」
手に持った瓶をあおぎ、彼はぽつりと呟く。銀糸の髪を風に遊ばせ、誰もが嫉妬する美貌で宵闇を眺める。彼の服は薬師のそれに似ている。
虫の鳴き声に耳を傾けていた青年は、手に持つ瓶を傍らに置き、不意に強く流れた風に目を細めた。鈍色の月が、流れる雲に隠される。
「やぁ、珍しいねぇ。君がここに来るのは久方ぶりだよ。忘れられたと思った」
彼の目線の先には、狐の面を被った巫女が立っている。朧な月明かりのなか、その巫女が纏う服はかなり汚れていた。元は鮮やかであっただろう緋色の袴は色褪せて、白い衣もそこここに褐色がこびりついている。裾や袖口もほつれが目立っているが、巫女も青年もそれらを気にする素振りはみせない。
「え? 頻繁に来てたんだ、ごめんごめん。僕の方が来てなかったね」
一言も発していない巫女に、青年が軽い調子で謝った。誠意を感じぬ謝罪に対しても、巫女はやはり言葉を発することは無い。代わりに、仮面の横に付けられた二つの鈴がチリチリと鳴っただけだった。その音色は、どこか不満げに聞こえる。
「相変わらずだよね、君も。ここの廃墟っぷりも変わらない」
僅かに首をかしげる巫女に笑いかけ、青年は再び瓶の中身をあおる。その様子をじっとみる巫女に、彼は瓶を掲げて見せる。中身はどうやら酒らしい。鈴が揺れて微かな音をたてた。
「そっか、呑めないんだったね。……で、僕の酒に何も言わない君は、何か聞きに来たのかい?」
酒をあおる合間に問われたことに、巫女は僅かに頷いて見せる。鈴を使わずなされた表現に、青年は笑ってまたも酒をあおった。が、どうやら飲み干したらしく、酒瓶からは何も落ちてこない。
「あ~あ、酒無くなっちゃった。仕方ないから、君の聞きたいことに付き合ってあげる。先に言っておくけど、あの出来事の半分は君が悪いからね」
まるで世間話をするように言われた事に、二つの鈴が甲高く鳴る。その音色には抗議の意味合いが強いようだ。声高に鳴った鈴に不快さを煽られ、青年が麗しい顔をしかめて巫女を見る。
「だってそうだろ? アレを封じたのは表の奴らかもしれないけど、管理は君たちの仕事。その管理者が見逃したんだから、統括者にも責任がある。だから、君に抗議される筋合いはない」
強く言われた言葉に、巫女は俯いて僅かに頷いた。揺れた長い髪は手入れされていないようで、ボサボサである。青年は反省の色を見せた巫女に対して満足げに微笑み、埃っぽい回廊から立ち上がった。ぐっと背伸びした彼は、何か言いたそうな巫女を手で制した。言いたいことは分かっている、と言わんばかりに。
「あの蟲はね、物凄い昔に馬鹿な法師が作った蟲毒なのさ。自分の力では扱えない、強い呪いを持った百足さ」
世間話のように軽く言っているが、実際はかなり重大な事だと巫女は把握した。本来呪術は自分の実力で使うのが基本だ。実力を見誤れば、自身の身の破滅を誘う。ましてや蟲毒等という強力な呪いを宿すモノを扱うなら、それ相応の力がなければ危ういのだ。
「蟲毒の作り方は知ってるよね? たくさんの虫を壺に入れて、生き残りを使う呪術。強いけど、力がないと使いこなせない」
『ダから……、封ジた? 表ノ奴らガ?』
嗄れたような老婆の声が、彼の言葉を取り次いだ。その声に青年は微笑んだ。長い間声を出すことがなく声を忘れたような声を発したのは、巫女の肩に乗った鼠。黒い体毛のそれは、正誤を求めるように青年を見やる。
「そうそう、正解。でも、長期に渡り封印の張り替えが行われず、しかも管理者が逃した結果がアレさ」
『そウか……。しテ……、そロソろ……見飽キタ。人のすガ……た……』
「無礼な式だね、それが君の本心かい? どうしようもないね」
答えた青年が肩を竦めるのと、巫女がその身を翻して鼠を肩から落とすのはほぼ同時。落ちた鼠を踏み潰したのは、牛に似た体躯の白い獣。その顔には両の目以外に額に目を持ち、左右にも三対ずつ目を持っている。汚れのない純白の毛並みを月下にさらす獣は、見る者に威厳と神々しさを与える気さえする。
「吉兆ノ聖獣……、白澤……」
『君の声を聞くのも、久しぶりだね』
鈴の鳴る合間に聞こえた、か細い女の声。それは仮面を掛けた巫女のものだった。白澤と呼ばれた獣は三つ目でじっと巫女を見、獣の顔で笑ってみせた。朧月の明かりだけでも、その身の白は、表情はよく分かった。
『百歩譲って君の管理者が悪くないとしても、あの時の契約上、君達がアレを管理しなきゃいけなかったんだよ。……もう、表の子達が覚えてないとしても、ね』
言葉もなく頷いた巫女の鈴が、疑問を投げ掛けるように音をたてた。その音に、白澤は首をかしげる。知らぬ事はないと言われる神獣、白澤でさえ悩ませる問い。暫くのち、返された言葉は巫女にとって全く回答になっていなかった。
「それは単なる偶然さ。いちいち気にする必要はないよ」
神獣は沈む月と昇る太陽とを見つめ、昇る日射しへと駆け昇っていく。残された巫女はその姿を下から見上げ、光に圧されて消える闇の中へと消えていく。
そして今日もまた、変わらぬ日常が幕を開ける。