第十六話 「人に夢と書いて墓無い」
第十六話「人に夢と書いて墓無い」
可笑しい。この状況はどう考えたって可笑しい。
たまらなく、嫌な予感がする。むしろ嫌な予感しかしねー。
今日は日曜日。
今の時刻は午前11時を少し回ったところ。
休日のそんな気だるい空気の中、あたしは、リビングの時計を眺めながら大きな溜息を漏らした。
ガキってのは、どういうわけか休日はいつもより早く起きたりする。
言わずもがな、びーこもその一人。ご多分に漏れずその一人なのだ。
いつもなら、二日酔いでグロッキーなあたしをお構い無しで朝の6時あたりに叩き起こしたりするびーこ。
早起きは三文の得だと喚きながら、あたしをベッドから引きずり落とす筈なのだ。
むしろ三文くらいの得なら、あたしは一秒でも長く寝ていたい。
つーか、あいつは知らないのさ。
その諺は元々、早起きしたって三文ぽっちの得にしかならねーから大人しく寝てろ、って意味だと言うことを。
少々話が脱線しちまったが、今、あたしはリビングにいる。
いつもの喧騒からは想像も出来ねーくらいに静まり返ったマンション内。
びーこが未だに起きて来ない。
たったそれだけの事実が、この平穏と静寂を生み出している。
平穏、静寂。
あたしたちの生活にはまるで縁のないその言葉。
手を伸ばしても決して届かぬその言葉。
それが、今、あたしの手の中にある。
………… おっと、感傷に浸ってる場合じゃねーな。
柄じゃねーんだよ。こんなのはさ。
それに、そろそろ偽りの静寂ってやつにも飽きてきた頃合だ。
やっぱりあたし達にお似合いなのは、こんな静寂よりも、誰かさんの笑い声や騒ぎ声に溢れた、賑やかな日常ってやつらしい。
ったく、しょーがねーな。
あたしは、我らが眠り姫を叩き起すため、彼女の部屋へと向かった。
こうして実際部屋の前に立ってみても、やはり物音や生活音の類は聞こえてこない。
と、なると、やはりそういうことなのだろう。
あたしは躊躇することなくびーこの部屋のドアを開けた。勿論、ノックなどしない。
そんなあたしの目に飛び込んできたのは、ベッドの上で眠るびーこと……… 一匹のおぞましい獏だった。
獏。そう、人のユメを食うっていうアレだ。
何だよ、身構えた割には何ともちんけな相手じゃねーか。
… いや、待て、果たして本当にそうか?
獏程度の下級の魍魎の類なら、あたしは何度も葬ってきた。
だからこそ、その存在を、気配を感じ取れなかったというのがまず可笑しい。
そして、何より可笑しいのが、獏は普通あんなに禍々しい雰囲気をまとってはいないという点だ。
あれは獏というより、何か全く別の存在… なのかもしれない。
何はともあれ、一先ずあたしは彼女の隣にぴったりと居座っている獏モドキと、びーこを引き離す事にした。
やっぱり、念のためにこいつを持ってきてよかったぜ。
あたしは右手に携えた金属バッドに精神を集中させた。
「月は村雲花に風、月夜に提灯夏火鉢。… 今宵の我が月は、半月」
青白い光に包まれたバッドを掲げながら、あたしは一気に獏モドキに詰め寄る。
「うぉら、獏だがバグだが知らねーが、とっととびーこから離れやがれ!」
直後、あたしのバッドから逃れるように、身を翻し、部屋の隅へと飛んだ獏。
はぁ? 飛んだだと? あの獏が、こんなにも身軽で俊敏な動きをするなんて聞いた事がない。
が、今はそれよりびーこだ。
これがただの獏なら、多少悪夢を見せられるくらいで済むが、残念な事にこいつはただの獏じゃない。
あたしは慎重にびーこを起す事にした。
「おい、びーこ。起きろ。目を覚ませ。何をされた? あいつに何をされた?」
そう叫びながら、あたしはびーこの頬をぺちぺちと叩く。
それでもびーこは目を覚まさない。覚まそうとしない。
「お前、びーこの何を喰いやがった?」
糞ッ。こんなことなら、もっと早く起きるべきだった。もっと早く様子を見るべきだった。何がお守だ。何がボディーガードだ。
結局、成長してないのはびーこじゃなくてあたしの方じゃねーか。
あたしが、そんな後悔の念に押し潰されそうになったその時、びーこがゆっくりとその目を開けた。
「びーこ! 良かった。おい、大丈夫なんだな? あたしのことが分かるか?」
「英子ちゃん…」
あたしの目を見ながらぽつりとそう呟いたびーこ。
思わず安堵するあたし。
だが、その安堵感も次のびーこの一言で、完膚なきまでに叩き潰される事になる。
「英子ちゃん、私を… 私を、殺してください」
その言葉を聞いたとき、あいつが何を喰ったのか? あたしはそれを唐突に理解した。
あれは獏でなくバグ。
あいつは、性質の悪い残留思念、怨念の類だ。夢の果て。そんな人間のバグ。負の感情の塊。
あれはユメを食うのではなく、夢を喰らう。
あいつは、英子の夢、つまりは、志、目標、指針、生きる希望を喰ったのだ。
人は脆い生き物だ。
夢を失った瞬間、人は人で無くなる。
その夢が大きく、困難であるほどに、その反動は大きい。
あいつは、あの糞野郎は、びーこにこの世で一番言わせちゃならねーセリフを言わせた。
あたしの中で、何かが音を立てて崩れたような、そんな気がした。
「色即是空、空即是色…… 死ね、この我楽多が」
気がつくとあたしは、そんなセリフを吐き捨てながら、右手に件の妖刀、秋艶を携えてバグを見下ろしていた。
そして…。
「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せかえせええええええ!!!」
四肢をぶった切り、腹を裂き、腸を引きずり出し、顔を潰し、その体を微塵に切り刻む。
あたしは、バグを十六の肉塊へと変えた。
「はぁ、はぁ、はぁ、ぁあ、返せ、びーこの、あたしの、夢を、返せ。返してくれ」
あたしの眼の前の黒い肉塊は、その断末魔を上げる間もなく、あたしの前から粉微塵になって消えた。消滅した。
それと同時にあたしの意識も遠ざかり、やがて、びーこのベッドに寄りかかるようにして、その意識を完全に手放した。
◆
「起きて下さい! 英子ちゃん、英子ちゃんってば。ほら、今何時だと思っているんですか!」
いつもの、誰かさんのやかましい声があたしの脳内に響き渡る。
何だ、びーこか。
ってことは、もう朝か? やれやれ、相変わらず起こすの早すぎんだよ……… ん?
次の瞬間、あたしの脳が一気に覚醒する。
「びーこ! おま、お前、大丈夫か? 気をしっかり持つんだぞ? 頼むから、殺してくれなんて言わないでくれ」
涙目でそう訴えかけるあたしに対して、びーこが一言。
「はい? 英子ちゃん、やっぱりお酒はもう少し控えましょう」
「あ?」
「そもそも時計を見てください英子ちゃん。13時ですよ? 13時。いくら何でもお寝坊がすぎます。もう、英子ちゃんが昨日、無理やりお酒なんて飲ませるから、私までお寝坊さんになっちゃったじゃないですかー。ぷんぷん」
ああ、この緊張感のないツラ。いつものびーこだ。間違いない。
「よ、良かったぜぇえ。本当に良かった」
そう言って、柄にも無くびーこに抱きつくあたし。
「ふぇ?」
まぁ、たまにはこういう逆パターンもアリってことで。
それにしても、とんだ悪夢だった。こりゃ絶対今夜ユメに出るな。
…… あっ、おい、そこの獏。あたしのこのユメ、ちゃっちゃと食っちまってくれよ。… え? 駄目? 駄目なの?
まったく、やれやれだぜ。
END