5.身長差と年齢差は反比例
私は別に、これといって身長が高い方ではないと、自分では思う。
いや、正確には思いたい。
でも。
「直って身長いくつー?モデル体型だよねー」
友達から、よく言われる。
自慢じゃないけど。っていうか、本当に。断じて自慢じゃない。
だってそんな、モデルをやるわけでもないし。背が高いメリットって何?
最近じゃ日本の男子も女子も、平均身長が高くなったとは聞いたけれども。
身長が低いより、高いほうがいい!って色んな人に言われるけれども。
私は別にそうは思わない。
少し高いならいいかもしれない。だが、私は少しではない。
「はい。雨宮さん、169センチ」
可愛い服も入らない確率の方が高いし。
「また少しのびたんじゃないの?」
「そんな、高校生じゃないんですから」
「うーん確かにね。だって顔が疲労で老けて見えるものね」
身長が高いせいか、年齢も年上に見られる事が多い。
夜勤明けの私は、今年度の健康診断を受けていた。
いつも診察してくれる樹先生は、いつも私をからかってくる。
「またー。先生ってば」
老けた、という言葉を軽く笑い飛ばす。
夜勤明けのため、力強く笑う余力すら残っていなかった。
へらへらと笑い、すぐ側にあった鏡で自分の顔を確かめてみる。
あれ?確かに。自分でも少し老けたように感じてしまった。
昨日はこんな顔だったっけ?
昨晩は救急車が何台もこの病院に押し寄せたため、激動の真夜中だった。
そのためか途中記憶が抜けているといった、状態だ。
自分でも一体何をしていたのか、うっすらとしか思い出せないのだ。
目の下に黒いクマができて、結んでいる髪もなんだかぐちゃぐちゃだ。
さらには頬に、紫色の痣ができているではないか。
そのことについては、少々だが記憶がある。
痛みで悶え苦しむ患者さんを抑えようと駆け寄った時、その拳を正面から食らったのだ。
今更だが、思い出した瞬間から頬が鉛のように重く痛み出した気がした。
「頬の痣はちゃんと冷やさないとダメよ?女の子なんだから、顔は大事にしないと」
「あー・・・ハイ」
あきれた風に言う樹先生に素直に頭を下げた。ごもっともだ。
仮にも女の子として、顔は大事にしないと。痕が残ったら大変だ。
「その顔、夜にもはもっと腫れるわよ」
樹先生の言葉に、再度鏡で自分の顔を確認した私は「げー」とため息を漏らした。
なぜなら、私の頬はもうすでになかなかの腫れ様であった。
*
案の定。夜ご飯の買い物などをして、帰宅した私を待ち受けていたのは、見るも無残な己の姿だった。
玄関先にある長鏡に、全身を映したまではよかった。
暗がりの中でも見える、頬の突起。
「あっちゃー・・・」
もっと鏡に近づいてみたところ、とんでもないことになっていた。
赤く腫れ上がり、若干それが紫色に変わり始めていた。
さらに腫れたこともあり、自分の顔に見えなくなってきていた。
頬にガーゼでも貼ってく?と言ってくれた樹先生の忠告を聞けばよかった、と正直思った。
ガーゼなんて貼ったら、余計目立つと思ったのだが、この顔で帰宅してきたと思えば、急に恥ずかしくなってしまった。
そういえば、すれ違う人たちに何度か凝視された気がする。
おそらくは、この顔のせいだろう。
まるで殴り合いをした傷跡みたいではないか。
まぁ、おおよそ嘘ではないが。私は殴ってはいない。
「ただの被害者だっての」
ブツブツと独り言を呟いた。
そうでもしないとやってられない。
まったく、看護師がこんな風に大変な仕事だとは思わなかった。
「治療してやるっていうのに、殴る奴があるか!ったく、なんであの人病院に来たのよ・・・」
自分でそのセリフを言ってから、はっとした。
それは看護師としてどうなのだろう。痛いから来たに決まっているではないか。それを言ったら、失礼だ。
ここは、我慢、我慢。
小声でブツブツとつぶやきながら、心の声を沈める。
そして、胸に手を当てながらキッチンに入る。
買ってきたスーパーの袋を脇に置き、冷蔵庫を開いた。
ヒヤッと一瞬身震いしたくなるほど冷たい冷気が、私の素肌をかすめていった。
7月にもなり、少しずつ気温が上昇してきたせいか、冷蔵庫内との温度差が激しい。
だがすぐに、身震いも心地よさに変わっていく。
気温上昇のせいで、近所を少し歩いただけで汗がにじみ出てくるからだ。
現在もその状態にあり、ワキ汗で服にシミができていないかが、心配どころだった。
「あー・・・気持ちいい」
地球温暖化とかで、冷蔵庫は何度も開けない、開けっ放しにしない。
などと言われるが、真夏にもなれば話は別だ。
クーラーをつければいいじゃないか、と思うだろうが。クーラーだって似たようなものだ。
それに、帰宅したばかりの部屋の中は熱気がこもっていて、外よりも酷い日もある。
「開けっ放しにしないで、早く閉まったら。あと、独り言はやめた方がいいよ」
一気に現実に引き戻されて、私ははっとして振り返った。
しかし、背後には誰もいない。
だが、絶対誰かの声がしたはず。夢ではない。そこまでほおけてはいない。
そこで勢い良く立ち上がった私の目に飛び込んできたのは、台所のカウンター越しにリビングの方からこちら側をのぞき込んでいる秀平の姿。
冷蔵庫の前で座り込んでいた私を、上から見下ろしていたのだろうか。
「なにしてるの!?」
「なにって、そっちこそなにしてるの」
まるで私が何か悪いことをしていたかのように、上から下まで見下ろされた。
そんな風に見られ、違うのに私もそう思わされそうになって、はっと我に返る。
「今帰ってきた所で・・・」
なんで私、こんな言い訳っぽく喋ってるの?
この状況おかしくない?
上手く言葉が出てこない。
しばらく無言でいると、なんだかすごく視線を感じた。
もちろん、この場には私と秀平しかいないのだから、感じたとすれば彼の視線だけど。
「頬」
「え・・・・あ!」
彼はそう言って自分の頬に触れる仕草をした。
そこで私は一気に思い出した。
思い出して、一気に恥ずかしくなった。
この顔は見せられものじゃなかった。
他人に。しかも、好きな人に見せられるような状態じゃなかった。
しかし時すでに遅し。ここで隠せばさらに怪しいではないか。
とっさに片手で頬をおおったが、隠し切れないほど頬は腫れ上がっていた。
手で触れて分かるが、ものすごく熱を持っている。
口角を上げて笑おうとすれば、頬が引きつるほどつっぱってもいる。
しかも腫れ上がっているせいか、輪郭からすでに奇形になっている気がした。
「これはねちょっと、暴れた患者さんの振り回した手が当たっちゃて・・・」
内容的には嘘をつく必要はない。
隠したいのは、この顔だ。
ハハハ、と笑いながら、できるだけ彼の方を見ないように素早く台所から退散する。
「その顔で帰ってきたの」
半笑いでもしていそうなセリフだったが、彼の顔は無表情だった。
台所から寝室に続く廊下に出たところで、目の前に秀平がいる事に気づいた。
まるで瞬間移動したかのように、彼は先回りして、通路を塞いでいた。
顔を見られたくない私は、少しばかり不自然な行動だったが、思いっきり俯いた。
「そうなんだよね。自分でもこんなに酷い顔だとは思わなくって。あはは、だからちょっとマスクでもしてくるから」
地面ばかり見ていたせいで彼の表情は読めなかったが、ふいにその視界に秀平の手が入ってきた。
驚きで、私はその手を軽く払いのけてしまった。
俯いた顔を見られたくなくて、頬を庇うように手を添えた。
そのまま彼と壁の間に空いた小さな隙間を強行突破しようとした。
しかし突如、払いのけたはずの彼の手が、私の頬を捕まえたのだ。
全身に電流が流れたかのように、体中の感覚が消え去った。
踏みしめた汗ばむ廊下の温度も、肌に触れる服との感触も、重々しい頬の痛みさえも。
感じるのは、頬のぬくもりと鼻をかすめる微かなライムの香り。
優しくふれるその手のひらの感触に、どれだけ酔いそうになったことだろう。
どれだけ長い間そうされていただろう、と思うくらい一瞬を長く感じた。
「痛む?」
吐息と共に吐き出された彼の言葉に、私は現実に引き戻された。
それでもまだ手足の感覚が、まるで他人の物のようだった。
俯いていた顔をとっさに上げてしまえば、秀平と正面から視線が絡まった。
いつもの精悍な顔つきの中で、少しだけ光の増えた瞳が不安そうに揺らいでいた。
心配してくれているのだろうか。不本意だが、それがとても嬉しかった。
「大丈夫だよ」
彼の安心した顔が見たくて、私は笑顔を作ってみせた。
ホントは少し痛いけれど、彼が触れているだけで痛みも忘れそうなくらい心踊っていのも、嘘ではない。
しかしそんな私の心の奥を見通したのか、彼の表情に安堵した様子はない。
「熱もあるし。冷やさないと」
秀平の指が私の頬の撫でていく。
彼の視線を一心に受ける頬は、徐々に赤みを増しているだろうか。
いやきっと厚塗りしたファンデーションがカバーしてくれているはず。
「顔も赤い」
彼の言葉に、私はぎょっとしたように目を見開いた。
ずっと間近で彼と向き合っていたというのに。最初から赤面だったのだろうか。
恥ずかしくて居ても立ってもいられず、私は唇を噛み締めた。
「だってあの患者さん、鉄拳だったんだもん」
視線を逸らして、私は呟くように言い訳を並べた。
そうだ。頬が赤いのは頬が腫れているせいだ。言い訳なんかじゃない。
要するには、痛いということを認めてしまったということなのだけれど。
視線を戻せば、秀平は少し満足気な表情をしていた。
なんだか、すべて彼に見透かされているようで、心痒かった。
だから思わず、視線が合った彼の目を睨み返してしまった。
意図せずというよりは、自ら。いっそ彼が私に怯えかえればいいのに。
しかし、秀平は何事もなかったかように、視線を逸らすことすらしなかった。
その瞳は、私への尊敬などという物は持ちあわせてはいないようだった。
「秀平・・・何センチ?」
「171くらい」
ふと向き合っている状態で気づいたことがあった。
彼と私の身長差。あまり変わらぬように感じたのは間違いではなかったようだ。
理想のカップルの身長差にはほど遠い。いや、カップルではないのだからいいのか。
近頃の日本男子は平均身長が上がったと聞くが、その中では秀平は別に高い方ではない。
女の子は皆、理想の身長差というものを持っていると聞くが。
私は、この秀平との見上げもせず見下ろしもしない差が、なんとも心地よかった。
変な言い方なのかもしれないが、安心するのだ。
彼を、とても近くに感じられる。
このほぼ変わらぬ目線くらい、私達の歳が近かったら、もっとこの気持ちに素直になれただろうか。
そんなの関係ないと、言えてしまえればいいのだけど。
ふいにそう考えてしまう、自分が嫌だ。
「まだ伸びるから」
私の考えを、どのようにかして感じ取った秀平が呟いた。
彼の身長を小さいなどと、私が考えたとでも思っているのだろうか。
いや、本当は逆だ。
大きくなんてなって欲しくない。
私達の歳の差ほど、今は合っているこの目線も交わらぬようになるのだろうか。
いつかきっと、私が拒んだって訪れるだろうその日。
今はまだ側にいる秀平が、私の手の届かぬ所に行く日が。