2.二人の暮らし
一週間ぶりに母から電話があった。
「なんかお母さん、元気そうだね」
「あら?分かる?もう毎日忙しくってね!でもすっごく充実してるの!」
電話の向こう側との温度差に、少々疲労感も感じた。
それぐらい母の声は生き生きしていて、娘の私より若々しくてキラキラしてた。
「社長さんも元気にしてる?」
「そりゃもちろん!とっても優しくしてくれるのよ」
「そっか、よかった」
幸せそうな母の声を聞いて、頬がひとりでに綻んだ。
「それより秀平くんと仲良くやってるの?」
「まあまあ・・・ってとこかな」
ハハハ、と私は苦笑いを返した。
「上手くやりなさいよ。じゃっ!明日からまた忙しくなるから、次いつ電話出来るか分からないけど、仕事頑張ってね」
「お母さんこそ、頑張りすぎないようにね。社長さんによろしく」
ふふ、という母の笑い声を最後に、私は電話を切った。
母と社長さんの出逢いは私が高校に入学した春だった。
父が亡くなって一年がたち、私が高校に通うために母の実家を出る事を決めた。
母の実家は田舎にあったため、通学には適していなかったためだ。
もともと両親の反対を押し切って結婚したらしく、父方の親戚とは父の死後から絶縁状態だった。
現在は立派な豪邸に住んでいる社長さんだが、私と母がこのアパートに引っ越して来た頃は、隣の一室に住むお隣さんだった。
引っ越して来た当初、新しい住まいに不安を感じていた母を励ましてくれたのが社長さんだった。
そんな社長さんは駆け出したばかりの起業家で、毎日忙しく走り回っていた。
奥さんとは結婚してからすぐに離婚し、10歳になる息子と二人で暮らしていたのだ。
変な話だが、それまで誰かを好きになった事のなかった私が、引っ越した日の挨拶回りで一目惚れしたのが、とても大人っぽい雰囲気をまとった5歳年下の少年木崎秀平なのだった。
最初「好きだな」程度にしか感じていなかった。
しかしそれが次第に、彼が年齢を重ねるごとに、本物の恋へと変わっていった。
私が高校を卒業し看護士の学校へ進学した頃、社長さん達はアパートを引っ越した。
会社が軌道に乗り、一軒家を建てたからだ。
しかしなぜか私達の住むアパートの隣の空き地を買い取り、そこに家を造ったのだ。
今考えればおかしな話だが、きっとその頃から二人は心通わせていたのだろう。
社長さんと秀平が引っ越しても、お隣さんということに変わりはなく。
私達の付き合いはずっと続いていった。
*
今日は静かな一日を過ごしている。
昨日当直で病院に泊まったため、朝帰りをしたからだ。
午前中いっぱいは睡眠不足のためベットで横になっていたが、ずっと寝ているわけにもいかない。
そう思いながらも、もう夕方の4時近い時間になっていた。
昨晩は秀平が帰宅したかどうかは分からない。
もちろん、今日帰ってくるかも分からない。
ただせっかくの休みなのだから、ちゃんと買い物して美味しい物を作ってあげたかった。
最近秀平は時々家に帰ってこない。
それは私と一緒に居たくないからなのかもしれない、なんてことは考えないようにしているが。
それでも、ほんの少しでも考えずにはいられない。
彼が何をしているのか、それを私が知ることは出来ないし、知る権利もない。
すぐ隣には彼の本当の家である豪邸があるというのに、なぜ彼はこんな狭いアパートで私と一緒に暮らしているのか。
それは、彼の父親である社長さんが「その方が自分も心配しなくてすむ」と彼を説得したからだ。
それが彼の本来の意思とは違ったとしても、彼は必ずこの部屋の戻ってくる。
一日や二日部屋を空けようとも、夜遅くなろうとも、自身の本来の家ではなく、この私の部屋に。
それだけが、今私の心の支えだった。
嫌われてはいない・・・という、あさはかな希望。
「あら、直ちゃん?久しぶりじゃない」
「あっ大家さん」
スーパーマーケットまでの道のりを歩いている途中、私のアパートの大家さんに会った。
規則的ではない私の仕事のせいで、最近は全く顔を合わせていなかった。
「疲れた顔して、お仕事大変なんじゃない?」
「当直明けなもんで。すみません、化粧もしてなくて」
「そんなことはいいのよ!体には気をつけてね。若いからって頑張りすぎちゃダメよ」
軽く会釈して大家さんともすぐ別れた。
今はあまり人と話す気分ではなかった。それほど、私は疲れているのだろうか。
確かに昨晩の当直は忙しくて休む暇もなかった。なにせ事故で緊急手術が行われたのだから。
俯いたまま歩いていると、ふいに声が聞こえてきた。
はっとして顔を上げれば、数人の女の子達とすれ違った。
急に立ち止まった私を怪訝そうに見る学生服の女の子達。
どうやら間違って通学路に来てしまったようだ。しかも、あの学生服は秀平と同じ高校。
「なにしてるの、私」
目指していたスーパーマーケットとは真逆の方向に来ていた。
ぼーっとしている自分にあきれてため息が出た。
仕方ないから、こっちの方角にあるスーパーに行こうと思考を切り替えた。
止まった足をまた動かして、少しずつ秀平の通う高校が近づいてくる。
また何人かの学生とすれ違う。そうすると、なぜか振り返ってしまう。
なんとなく秀平を探してしまうに自分に気づいて、前に向き直るけれど。
秀平の通う高校は、私の母校でもある。
懐かしさから、また立ち止まり校内を見てしまった。
誰かに見つかれば、ただの変質者ではないか。
あれから数年がたった。色々変わったのだろうが、やはり変わっていない。
しかし眺めたのも数秒間で、私はすぐ向き直ってスーパーを目指した。
角を曲がって、また数人の学生とすれ違った。
「直」
誰かに呼ばれた気がして、私は立ち止まって振り返った。
そこには、制服姿の秀平がいた。
「今日はやめとくよ」
一緒にいた友達らしい学生達と軽く挨拶を交わすと、私に近づいてくる。
すると、学生達は手を振りながら反対方向へと歩き去って行った。
私は驚きで思わず身をすくめた。
「なにしてるの」
「買い物・・・かな?」
「仕事は?」
「昨日当直だったから、今日は休み」
力なく微笑んで返すが、秀平はいつだって無表情のままだ。
しかしその端整な顔立ちは、笑わなくたってとても魅力的だった。
「だから昨日いなかったんだ」
呟くように言った秀平の言葉は、昨日秀平が家に帰っていたことを表していた。
「ごめんね」
思わず私は謝ってしまった。
ばたばたしていたため、秀平の夜ご飯を作らないで仕事に行ってしまったからだ。
心の奥底では、秀平はもしかして帰って来ないんじゃないか、と疑っていたのかもしれない。
「なんで」
無表情だが、私を心配するような口調。
「夜ご飯・・・作り忘れちゃったから」
本当の事を言えば、作り忘れたのではないが。
他の事を言っても、なんだか言い訳をしているみたいで嫌だった。
「そんなこと気にしなくていい。買い物行くんでしょ?」
「うん・・・・ごめんね」
再度誤った私を見て、秀平は小さなため息を落とした。
「俺も買い物手伝うから、今日はクリームパスタ作ってよ」
はっとした。
彼と買い物をするなんて小さい頃以来だ。
そして要するに、今日は彼と一緒に夕食をとれるということだ。
しかも、彼の大好物のクリームパスタ。私の得意料理のクリームパスタ。
「うん」
私は満面の笑みを返した。