1.母の再婚と初恋の人
私の名前は雨宮 直。22歳。
ついこの間看護師の国家試験を合格し、看護師として病院に勤務しだしたばかり。
まだ駆け出したばかりの赤ちゃんのような新人である。
そんな私の母が、最近50代にして再婚した。
私の知らぬ間にだが、私も良く知っているお隣さんとだった。
お隣さんと軽がるしく言ってしまった、超ビップな人と、だ。
外国にも名を轟かせる一流ブランドのザリエンス・コーポレーションの社長さんだ。
結婚式にも呼ばれたし、母の着付けすら手伝ったというのに。
私にはその現実味がまだまだわかないでいた。
なぜなら、相手方の社長さんにも母に私がいたように、息子がいたのだから。
義理とはいえど、私に弟ができたのだ。
それも、5歳離れた、私の初恋の相手なのだから。
*
信じられないのは、母が結婚して一週間ほどして外国に行ってしまったことだ。
社長さんにはちゃんと世話係がいるし、部下だって沢山いる。
ただ、母が社長さんの側にいただけだろう。社長さんもそれを望んでいた。
今回の仕事先はフランスで、数ヶ月帰ってこれないなんて、いきなり発つ前日に言われても。
私はすごく困った。
母と2人で住んできたアパートは、一人では広すぎる。
まだ駆け出したばかりの私を、一人にするなんて。娘のことが心配ではないのだろうか。
だが、私には女として輝きを取り戻した母を、止めるなんて出来なかった。
本当に嬉しそうな母の表情を、父の死後久しぶりに見たきがした。
「ただいま」
私は時計の針が10時を回る頃、ひっそりとしている自分の部屋へと帰宅した。
今や母がいないため、暗いし寒いし、大半の時間誰もいない部屋となっていた。
母がフランスへと発って早一ヶ月が過ぎようとしていた。
そのためか、「ただいま」と言ってしまう癖は直らないものの、「おかえり」と返事が返ってこないことには、慣れてしまっていた。
父が他界したのは私が中学生の時だった。ガンだった。
母は一週間ほど泣きはらしたが、一週間が過ぎた次の日からまるで何事もなかったかのように過ごしだした。
笑顔を絶やさず、女手ひとつで私を大学まで行かせてくれたとても強い女性だ。
しかし、そんな母をいつからか支え続けていたのは社長さんだった。
まさか結婚するほどの関係になっていたとは知らなかったが、それでも確かに母にとって社長さんは特別な人になっていった。
私が高校を卒業した時も、大学に受かった時も、社長さんはお祝いしてくれた。
だから、今更反対する気もなければ、違和感を感じることもないのだが。
ただ、私は驚いているだけだ。
どうしてこんなことになったのだろうか。
「秀平・・・は帰ってないよね」
静まり返った部屋の中を見渡しても、人の気配はない。
誰かが一度帰ってきた痕跡もない。
元母が使っていた部屋には、今や違う住人がいる。
慣れっこだが、その住人はなかなかこの部屋の馴染もうとしない。
馴染もうとしないのか、私が嫌いなのか。それとも、元々そういう人間なのか。
ただその住人について知っていることといえば、火遊びが激しいということぐらいだ。
私はキッチンに戻り、自分の食事の準備をした。
もう10時を回っているのだから、体の疲労は限界だ。
なにせ、遊んでいてこんな時間になったわけではないのだから。
看護師といえど新人。覚えることが山のようにあって、この一ヶ月帰りの時間はいつもこんなものだ。
当直などに当たってしまえば、帰宅は翌日になるが。
すぐ出来る料理を作った。それも2人分。ひとつは自分の分。もうひとつはいつ帰ってくるか分からない、住人用。
しかしその住人は二晩と部屋を空けることはない。一晩帰ってこずとも、朝には帰ってくるのだ。
まるで家出犬のようだ、と私はふと思った。犬は絶対に家を忘れないと言うではないか。
ふと、そんなことを考えながら食事をしていると、頭がキンキンしてきた。
元々頭痛持ちで、ストレスがたまると頭痛がおこりやすい体質なのだ。
ハードな病院の仕事が始まってからというもの、頭痛がほぼ日課になっていた。嫌な日課だ。
始めの頃は耐えていたが、しばらくはってもおさまらないことが最近は多くなってきていた。
そのため、市販の頭痛止めを買うことも日課になり始めていた。
すぐさま自分の鞄の中から頭痛止めを探した。
しかし、探し求めたそれはなく、すでに空っぽの頭痛止め薬の箱だけが転がり出た。
「そういえば・・・昨日ので最後だったっけ」
ガックリした。疲れいてる体で今から薬局まで行かなくてはいけないなんて。
覚えていれば帰りに買ってきたのに。そう、うなだれた。
薬局まで、およそ徒歩で30分だ。
私は居間のテーブルの上に突っ伏した。行きたくはないが、頭痛が行けと私を急かす。
どんどん頭痛が酷くなっていき、思わず私は目をつぶって堪えた。
その時フローリングを歩く足音が聞こえた。
はっとして顔を上げれば、母の部屋の新たな住人が私を見下ろしていた。
「なにしてるの」
端整な顔立ちに、どこかまだ幼い面持ち。茶髪に学校のブレザー。
彼こそが、社長さんの息子である木崎 秀平だ。
彼は無表情で、私に手を差し出してきた。その手には頭痛止めがあった。
なんとなくこの一ヶ月間、頭痛のことは隠し通せていると思ってきたのだが。
頭よくて勘のいい彼にはとっくにばれてしまっているようだった。
私が薬を切らしていることでさえ。
「ごめん・・・・ありがとう」
「その言葉おかしくない?」
私の発した言葉に文句をつけつつ、彼は少し口角を上げて笑った。
それからキッチン方に消えていき、水入りのコップを持って再び現れた。
そして、それをテーブルの上に置いた。
「今日は早かったのね」
いつもなら私が眠った真夜中に帰ってくる彼が、日を越す前に帰ってくるのは珍しいことだった。
「そう?」
もう一度キッチンに行った秀平は、ついさっき私の作った秀平分の食事を持って戻ってきた。
彼は必ず私がもうひとり分を作るということを、知っているのだ。
どんなに遅く帰ってきても、彼は必ずそれを食べる。
だから、私は彼の分を忘れず作る。それが、最近はあたりまえのことになっていた。
そんな彼の動作を見ながら、私は薬を口の中へ入れ飲み込んだ。