愛すれば魂が流れるこの世界で、私は彼を救うために空っぽになる
※ハッピーエンドではありません。結末にご注意ください。
三度目の世界で、リリは最初からすべてを知っていた。
目を覚ました瞬間、冷たい雨の匂いとともに、記憶の底から声が蘇る。
一度目の最後に、絶望に満ちた声で彼女の名を呼んだシエルの声。
二度目の最後に、自分の胸に血の滲む手を当てて「もう、止めろ」と泣くように呟いたシエルの声。
(……今度こそ、救う)
この世界の理を、リリは完璧に理解していた。
愛すれば、魂が流れる。
本気で相手を想えば想うほど、自分の「在る」という存在の輪郭そのものが、相手の器へと溶け込んでいく。愛を選んだ瞬間から、不可逆の流出が始まるのだ。
一度目、何も知らなかったリリは、シエルを愛して空っぽになった。魂を喰らわなければ生きられない呪いを抱えたシエルは、彼女の残滓を抱えたまま、最後は自分自身を壊して果てた。
二度目、薄い記憶を抱えて抗おうとしたが、仕組みを理解できぬまま同じ結末を辿った。
だから、三度目。
リリはひとつの狂気的な結論に辿り着いていた。
——私が完全に空っぽになるまで、彼を愛し尽くす。
——私の魂をすべて差し出せば、彼の中に「私」が定着し、彼はもう他者の魂を喰らう必要がなくなる。
それが、彼女の選んだ唯一の救済だった。
――
シエルと再会したのは、人里を離れた朽ちかけた神殿の跡地だった。
黒い外套のフードを深く被り、膝の上で痩せた手を組んでいる男。
他者の魂を奪わねば死に至る呪いと、誰の魂も奪いたくないという拒絶。その狭間で、彼は自らを飢餓に晒し、消え入りそうな命を細々と繋いでいた。
「……何か用か」
警戒に満ちた低い声。見知らぬ女を見る冷たい瞳。
リリは胸の奥が締め付けられるのを押し殺し、静かに微笑んだ。
「雨が降りそうよ。屋根のある場所へ移った方がいい」
魂の流れは、まだ始まらない。愛がなければ、流れない。
リリは焦らなかった。時々果物やパンを携えて訪れ、ただ彼の隣に座った。理由を問われても「ここにいたいだけ」と答え、彼が「生きたい」と「消えたい」の間で揺れる横顔を、静かに見つめ続けた。
転機は、シエルが「魂を狩る者たち」に襲われ、左脇腹を深く抉られた夜だった。
黒い血を流し、壁に背を預けて荒い息を吐くシエル。
その姿を見た瞬間、リリの中で理性が弾け飛んだ。
「動かないで!」
外套を脱ぎ、彼の傷口に強く押し当てる。シエルが反射的に彼女の手首を掴んだ。骨が軋むほどの強い力。だが、リリは逃げなかった。額を彼の肩に預け、激しい鼓動を聞く。
(ああ……やっぱり、ダメだ)
抗えるはずがなかった。知っていても、計算していても、この男を失う恐怖の前ではすべてが吹き飛ぶ。
愛していた。三度目の世界でも、壊れるほどに。
その瞬間、胸の奥で何かが弾け、熱い奔流が生まれた。
ごく僅かな、魂の流出。
指先から、細い光の糸のようなものがシエルの体へ吸い込まれていく。シエルの荒い呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。彼は自分の傷が癒え始めたことに気づいていない。
リリは静かに目を閉じ、訪れた「侵食」の感覚を、うっとりと受け入れた。
――
それからというもの、魂の崩壊と救済は加速していった。
リリは彼の傍を離れなくなった。
触れ合うたびに、魂の奔流が起きた。肩が触れ、指が絡み合い、言葉を交わすたびに、リリの「存在」がシエルへと移っていく。
雨の日の神殿で、初めて唇を重ねたとき。
シエルから求められた乱暴で熱いキスに、リリはしがみつくように応じた。
「……今の、何だ」
息を乱したシエルが、恐怖を孕んだ目でリリを見る。自分の中で、何かが満たされていく感覚への拒絶。
リリは彼の頬に触れた。自分の体温が、少しずつ彼に移っている。
「愛、よ」
「やめろ……お前、何かがおかしい」
「おかしくないわ。……でも、もうやめられないの」
二人の関係は、そこから急速に深い泥濘へと落ちていった。
重ね合わせる肌と肌を通し、魂は絶え間なく移動した。
リリの「彼を救いたい」という狂気的な執着がシエルを侵食し、シエルの長年の「飢えと絶望」がリリの空洞になりかけた器へと逆流する。
夜、シエルが彼女の上に覆い被さり、首筋に歯を立てる。痛みと快楽の混ざり合う暗闇の中で、リリははっきりと自覚していた。
——自分の輪郭が、解けていくのを。
鏡を見ずともわかった。
名前を呼ばれても一瞬反応が遅れる。感情が遠のき、視界の端から色が失われていく。指先は氷のように冷たく、どれだけ着込んでも体温が上がらない。
彼女は、着実に「空っぽ」に向かっていた。
対照的に、シエルは変化していた。
病的なまでに青白かった肌に血色が戻り、その瞳には、かつてなかった生命の光が宿り始めていた。
ある朝、シエルは水面に映る自分の顔を見て息をのんだ。
黒かった彼の瞳の奥に、リリと同じ、鮮やかな色彩が混ざり込んでいる。
無意識に指先を軽く擦り合わせる動作——それは、リリが不安な時に見せる癖そのものだった。
「リリ……お前、痩せたか?」
シエルが彼女の手首を掴む。驚くほど軽くて細い。まるで枯れ枝を掴んでいるかのようだった。
「気のせいよ」
「嘘をつくな! 俺の中に、お前が入ってきている……! 逆に、お前から何かが失われているんだ!」
怒りと恐怖に声を荒げるシエルを、リリは弱々しく抱きしめた。
「大丈夫。……あなたが、残るから」
「何を言っている!? わけのわからないことを言うな!」
「……愛してるわ、シエル。それだけは、本当」
シエルはそれ以上、追及することができなかった。
彼女を失う恐怖から、抱きしめる腕に力を込める。だが、強く抱きしめれば抱きしめるほど、皮肉にも魂の流出は早まっていくのだった。
――
最後の夜は、静寂に包まれていた。
崩れた天井の隙間から、冷たい星の光が降り注いでいる。
石畳の上に並んで横たわる二人。もう、境界線など存在しなかった。リリが息を吐けばシエルの胸が上下し、シエルが瞬きをすればリリの視界が暗転する。
「シエル」
かすれた声。リリの瞳は、もうほとんど光を捉えていなかった。
「……キス、して」
シエルは彼女を覗き込んだ。胸が騒いだ。このキスをしてしまえば、何かが決定的に終わってしまうという予感。
けれど、拒絶できなかった。彼女を愛おしいと思う本能が、彼女の唇を求めていた。
重ね合わせた唇。
最初は、愛を確かめるような静かな触れあい。
だが、一度開いた破片から、凄まじい奔流が溢れ出した。
これまでにない勢いで、リリの魂の「最後の一滴」が音を立てて崩れ、シエルの中へと流れ込んでいく。
記憶。感情。三度の世界を生き抜いた執念。存在の核。
そのすべてがシエルの中へと雪崩れ込み、同時に、シエルの意識の奥底で、すべてのパズルが繋がった。
——流れてきた記憶が、彼の脳裏で鮮明に再生される。
一度目の世界。無知ゆえに壊れた彼女。
二度目の世界。狂気の中で失われた彼女。
そして三度目。最初からすべてを知った上で、自分を殺すためにここへ来た彼女。
彼女の狂気。
彼女の計画。
彼女が自分を完全に「空」にすることで、彼を呪いから解き放とうとしたという、残酷すぎる真実。
「——リリっ……!!」
シエルは悲鳴を上げた。唇を離そうとした。
だが、体動かない。離れない。彼女の溢れた魂が、呪いのように二人を強固に繋ぎ止めていた。
シエルの中で、長年彼を苛んでいた「魂への飢餓」が、完全に消滅していくのがわかった。
彼女の魂が彼を完璧に満たし、彼は「喰らわなくても生きられる存在」へと変貌を遂げたのだ。
その代償として、腕の中の彼女が、羽毛のように軽くなっていく。
『……や、っと……』
キスの隙間から漏れたのは、声にならない唇の動き。
満足気に微かに歪んだ唇。
そして——流れが、止まった。
シエルはゆっくりと顔を離した。
腕の中のリリは、目を開けたまま、静かに横たわっていた。
胸の上下はない。呼吸もない。だが、死んではいない。
ただ、中身が完全に抜け落ちた、美しい「空っぽの器」。
「……嫌だ」
シエルは彼女を強く抱きしめた。
軋むほど、壊れるほど、その冷え切った身体を抱きしめた。
自分の中には、リリのすべてがある。
彼女の記憶、彼女の癖、彼女の愛、彼女の狂気。すべてが自分の魂と一つになり、脈打っている。
もう他人の魂を求める必要はない。自分は救われたのだ。
リリが望んだ通りに。
「戻ってこい……頼むから、戻ってこい……!」
声が壊れたように溢れ出す。
戻ってこい。戻ってこい。戻ってこい。
冷たい神殿の空間に、彼の叫びが虚しく響き渡る。
胸の奥で、何かが致命的にひび割れる音がした。
一度も口にできなかった言葉が、遅すぎる洪水となって溢れ出す。
愛している。愛していた。
最初から、出会った瞬間から、魂が混ざり合うたびに、死ぬほど愛していた。
「愛してるんだ……リリ、目を開けてくれ……!」
どれだけ叫んでも、空っぽの耳に言葉は届かない。
彼女はもう、どこにもいない。
自分という存在の中にしか、彼女は残っていないのだから。
シエルは、二度と動かない彼女の額に自分の額を重ね、静かに目を閉じた。
星の光が、優しく二人を照らしていた。
彼女は、彼を救った。
彼は、彼女を救えなかった。
三度目の世界は、永遠の孤独を残して、静かに幕を閉じた。
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