第2話 これは推敲であって、まだ好きじゃない
「雪解けの街を一人の男が歩いていた。残雪に照り映える陽光を遮りながら、何かを探すようにゆっくりと。雪解け水を踏み続けた靴は、歩くたびにグジュグジュと音を立て、冷え切った男のつま先をさらに冷たくふやかしていた」
一体、この書き出しをボクは何回読み直せばいいのだろう。
答えなんか出るはずのない疑問。だけど、自分でも不思議なくらい、ボクはこの文章から目を離すことができずにいた。
だって、この短い文章だけで、いくつもの情景が想像できるじゃないか。
陽光が残雪を照らしているということは、この話の舞台が冬の終わりの朝だと分かる。靴がグジュグジュと音を立てて、つま先がふやけているということは、男がもう長い時間、歩き続けていることを意味している。彼は何を探しているのか? 彼はどうして、歩き続けているのか? そんな疑問と興味をかき立てるじゃないか。
ボクなら、こうは書けない。
ボクは一人称視点で話を書くことが多くて、まあそれはそれで主人公の内面に自分自身を投影しながら書けるから、結構踏み込んだところまで描写できるという利点はあるんだけど、第三者の視点からの情景描写は苦手。だから、こういう文章を書ける人を尊敬する。
うん。これは「尊敬」なんだ。同じ文芸部で、創作活動をしている仲間に対するリスペクトであって、これを書いたのがサトミだからという点はまったくもって考慮の範疇に入っていない。いや、うん、多少考慮しているところはあるにはあるのだけど、それはまあ、仕方ないというか、何と言うか。
だって、仕方ないじゃないか。
「佐竹が好きそうな話を書いてみた」
なんて言われて、原稿を手渡されてしまったら。
いや、もちろん、ボクの好きなロバート・ラドラムみたいに冒頭から一瞬たりと目が離せないような大事件が立て続けに起こって謎が謎を呼ぶ展開にはほど遠いし、フレデリック・フォーサイスのように舞台となる時代の国際情勢や組織の状況説明を、複数の登場人物の視点で描いているわけでもない。だけど、主人公の探偵が、楽器ケースに隠された麻薬を発見したことから犯罪組織の陰謀に巻き込まれ、謎を解きながら組織との対決を繰り広げるなんて、洋の東西を問わず似たような題材の物語はたくさん存在するかもしれないけれど、いかにも心躍るストーリーじゃないか。
確かに、ラドラムやフォーサイスのような大家の作品とこの原稿は、まさに月とすっぽんだ。だけど、こっちはプロでもなんでもない。ただの、どこにでもいる、一人の地味な女子高生だからね? ほんのちょっと本を読むのが好きで、部活で小説を書いているだけの素人だからね? それを「プロと比べてここはどうだ、こうだ」なんて言うのは、おこがましいってものじゃないか。
そんなわけで、ボクは「とても面白かった」と素直な感想を書いたところで、手が止まってしまったのだった。それには、
「佐竹が好きそうな話を書いてみた」
という彼女のひと言も影響していた。
あ、もちろん、
「佐竹が好き」
という部分だけを都合よく抜き出して拡大解釈してドギマギしているわけじゃない。サトミにそう言われたとき、ちょっとだけドキッとしたのは事実だったけど。でも、あくまでサトミの発言の主語は省略されている「(私が)」であって、述語は「書いてみた」。何を→「話を」、どんな?→「佐竹が好きそうな」という文脈の中で発せられただけの言葉なのだ。
それにサトミは、
「佐竹のために書いてみた」
なんて言ったわけじゃない。あくまでボクが好きそうな話を書いたというだけの話なのだ。勘違いしてはいけない。勘違いしてはいけないのだけれど……。
普段、もっとコミカルでライトな恋愛ものばかり読んでるサトミがこんなハードな話を書いて、しかも冒頭の数行でグッと心をわしづかみにしてくるなんて、想像もつかないじゃないか。ボクのために書いてくれたといっても過言じゃないって思ってしまうじゃないか。
あと、この原稿がいまどき珍しい400字詰め原稿用紙に手書きという、古風なスタイルで手渡されたことも、ボクの心をかき乱していた。
文豪の記念館で見る手書き原稿でも、推敲の跡があちこちに残っていると、そこから作者の迷いや試行錯誤が伝わってくるような気がする。それは、作品が生まれるまでの思考の道筋、作者の「思いの足跡」と言ってもいいような気がする。
消しゴムで消した跡や、誤字をぐしゃっと塗りつぶした跡――どことなくハートマークに似た形なのは、ラブコメ好きの女子高生らしいポイントなのかもしれない――などを見れば、サトミがどこでどんなふうに悩んだのかが伝わってくる。
そうでなくても、手書きの生原稿なのだ。サトミの手がここに触れて、シャーペンで一文字ずつ埋めていったのだ。そう考えたら、なんだかこの原稿用紙を挟んで、間接的にサトミの手に触れてるような気がしちゃうじゃないか。
……とまあ、いろいろ考えてしまって、肝心のストーリーに対する感想、評価のほうが置いてきぼりになってしまっているのだった。
ほかの人が書いた作品への批評の際、一番簡単な方法は、「同じテーマを、自分ならどう書くか」を述べることだ。
だけど「自分には書けない作品」に対して「自分ならどう書くか」を述べるなんていうのは、プロ野球中継を見ながら「自分ならここで代打を送る」とか「ここでピッチャーを交代させるなんて、監督は何を考えてるんだ」なんてボヤくオジサンみたいで、ボクはあんまり好きじゃない。じゃあ、どうすればいいのかというと……、どうすればいいんだろう?
「とても面白かった」という感想を、どうしてそう感じたのか、「面白ポイント」を挙げて解説することはできる。だけど、似たような話がいくつもあるなかで、この話ならではのポイントは? オリジナリティは?「サトミが書いた話」というフィルターを取り払って、純粋に一つの作品としての感想を書こうと思えば思うほど、彼女への思いが足かせのようにボクの心を絡めとってしまうのだった。
好き、なのか?
ボクは、サトミのことを?
いやいやいやいや、一緒の部活だし、話も合うしね? だからまあちょっと意識はするけれど、それはあくまでリスペクトする仲間としてだしね?
彼女の書いた文章を何度も何度も読み返して、自分の感想を何度も何度も書き直して。さっきからもう本当に同じことを繰り返し続けているように思うけれど、これは推敲であって、まだ好きじゃない。
原稿用紙の上に散りばめられたいくつものハートマークみたいな塗りつぶし跡を見ながら、ボク自身もひたすら見つからない答えを探し続けるのだった。




