第10話 これは打ち上げであって、やっぱりまだデートじゃない……はず
なぜ、こんなことになってしまったんだ。というか、一体、何が起きたんだ。
揺れる電車の中で、ボクは焦りと混乱と戸惑いと緊張に襲われて体をプルプル震わせていた。
ボクはただ、ほんの少しの時間、居眠りをしてただけのはずなのに。
ボクの頬に伝わる、柔らかい感触。そして頭の上にのしかかる、心地よい重み。どこからか上ってくる、香水なのか制汗剤なのかよく分からないけど、甘い香り。
えーと、状況を整理しよう。
ボクはいま、電車に乗っている。左隣にはサトミが座っている。そして、つい数秒前まで、ボクはうたた寝をしていた。
寝ていた時間は、そんなに長くなかったはずだ。数分から、どんなに長く見積もっても十数分程度だろう。
問題は、その寝方だった。
ボクはサトミの右肩を枕にして寝ていた。いや、別に最初からサトミのほうに寄りかかって寝ていたわけじゃない……、はず。だけど、気が付いたらボクはサトミにもたれかかっていたのだ。これは事故であって、決して故意ではないのだ。それだけは誤解のないように強く主張しておきたい。
そして、ボクの頭に寄りかかるようにして、サトミが寝ている。ボクの頭は、ちょうどサトミの肩と頭でサンドイッチされたようになっていた。
すぐ目の前に、サトミの胸元が見える。首筋から鎖骨にかけての肌が白くて、呼吸のたびにボクの目の前で胸が上下している。
そして一番の問題は、ボクの左手だった。
ボクの左手は、サトミの右手と重なり合って、サトミの右ひざの上にあった。
ただ重なり合ってるだけじゃない。指を交互に絡ませ合う、いわゆる恋人つなぎになっている。
サトミのほうからつないできたのか? いや、でもボクの手が上にある。ということは、ボクのほうから手をつないだのか? いやいやいやいや、自分からそんなことできるワケがない。それに、恋人つなぎなんて恋愛偏差値極高、SSRクラスの技を寝ぼけて無意識のうちに発動させていた、なんていうのは言い訳としても無理筋すぎる。じゃあ、やっぱりサトミのほうから手をつないできたっていうのか……!? こんなの、誰がどう見ても「デートで遊び疲れた仲良しカップルが、お手々つないで電車で帰るところ」にしか見えないじゃないか!
ボクは自分の置かれている状況が理解できないまま、眠気なんて百億光年の彼方まで吹っ飛んでしまっているにもかかわらず、寝たふりを続けることしかできなかった。
そもそもの始まりは、ボクが文化祭の打ち上げをしないかとサトミに提案したことだった。
まあ打ち上げと言っても、ボクが想定していたのは、いつも行ってる古書店街よりちょっと遠くの町まで電車で行って古本屋巡りをしてお昼を食べて帰ってくる、といった程度のもので、だから決してデートなどといった特別なものではなく、誘うことにもそんなに緊張する必要なんてないはずなのに、ボクは不必要なまでに緊張してしまい、「ふ、二人で文化祭の打ち上げでもやらない?」と上ずった声を出してしまったのだった。
対するサトミのリアクションは、喜んでいるようでもあり、照れているのを隠しているようでもあり、困っているようでもあり、戸惑っているようでもあり、混乱しているようでもあり、その全てのようでもあり、その表情からは感情がまったく読み取れないという、実に困ったものだった。彼女の返事を待っている間、ボクは緊張のあまり全身がプルプル震えだし、学生服の内側がにじみ出る汗でしっとりと湿るのを感じていた。
「……いいよ」
ようやく返ってきたのは、そのひと言。それは「OK」の「いいよ」なのか、「そんなことしなくてもいいよ」の「いいよ」なのか、一体どっちなんだ。
「……楽しみにしてるから」
そう続けてくれたことで、彼女の「いいよ」がOKの意味だったと理解できたボクは、コクコクと首を縦に振って同意を示したのだった。
その後、ボクたちは帰宅してからメッセージのやり取りで、いつ、どこへ行くか、何をするかを決めた。
部室で面と向かって話せばいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。しかし、ミジンコ並みの恋愛偏差値しか持ち合わせていないボクに、そんなレベルの高いことを要求するのは、幼稚園児に向かって「大谷翔平の全力投球をホームランしろ」と言うのに等しい暴論だと理解していただきたい。まあ、文字だけのやり取りは、相手の顔が見えないから、返事が届くまでの間、「あー、いまのメッセージ、書き方がマズかったかな……」「機嫌損ねちゃったかな……」などとウダウダ考えてしまうのが難点といえば難点なんだけれど。
そんなこんなで、デート、じゃなくて打ち上げの前日を迎えたボクは、ふと困ったことに気づいた。
何を着ていけばいいんだろう。
これまでサトミと出かけるときは、いつも学校の放課後で、必然的に着ているのは制服ばかりだった。私服で出かけたことなんて、なかったのだ。いやまあ、コミケの時や、作家の記念館を見学に行ったときなど、私服で出かける機会そのものはあった。だけど、そういうときは先輩など、ボクたち以外にも人がいたし、オシャレしていくような雰囲気なんてまったくなかった。コミケに着ていく服なんかは特に、動きやすさと快適性が最重要で、オシャレとはかけ離れたものだったしね。
そんなわけでボクは、サトミとの打ち上げに何を着ていけばいいか、困り果てていたのだった。
普段、何も気にせずに家の中で着ている服は、中学の頃からずっと着ているものばかりで、襟首の周囲が伸びてヨレヨレになっていたり、ところどころ擦り切れていたりする。さすがにそんな服を着て外出するのが恥ずかしいことぐらいは、ボクでも理解できた。
結局、悩み抜いたボクが選んだのは、無地のカジュアルシャツと上着、ジーンズという、無難を絵に描いたような組み合わせだった。これが一番、まともに見えるというか、ボクが持っている中で比較的新しくて、傷みの少ない服だったのだ。
服選びだけで何時間もかかってしまい、気がつけば既に時間は午前1時を過ぎていた。ヤバい、早く寝ないと。だけど、そんなふうに思うときほど気持ちが高ぶって寝つくことができず、結局、ボクが寝たのは午前3時を過ぎてからだった。
待ち合わせは午前9時に駅前。身支度や、駅に行くまでの所要時間を考えると、起きる時間は7時過ぎ。だからボクは、ちょっとウトウトしたと思った途端、スマホのアラームに叩き起こされてしまったのだった。
冷水での洗顔と、いつも以上に濃く作ったインスタントコーヒーで果てしなく襲ってくる眠気を何とか撃退し、30分以上早く到着するよう、待ち合わせ場所に向かった。家でまったりしていると、そのままうたた寝してしまい、寝過ごしてしまうかもしれない。そんなことになるぐらいなら、ちょっと早めに駅前に行って、サトミが来るまでベンチでウトウトしているほうがずっといいと思ったのだ。
しかし、そんなボクの目論見はアッサリ粉砕されてしまう。なぜなら、ボクが座って待とうと思っていたベンチに、サトミ本人が座っていたからだ。ボクでさえ30分以上早く着いたというのに、サトミは一体どれくらい前から来てたんだろう。
秋っぽいワンピースにカーディガン。こういうの、アンサンブルって言うんだっけ? 普段、見慣れた制服姿とは印象が全然違う。ひと言で言うと「かわいい」。もう少し言葉を足すと「めっちゃかわいい」。文芸部員にあるまじき語彙の貧困だが、そうなってしまうぐらいボクにとってサトミの私服姿が衝撃的だったのだ。
「早いね。待たせた?」
ちょっとドキドキしながら声を掛ける。
「ううん、ついさっき来たとこだよ」
朝日に照らされるサトミの笑顔がまぶしい。まぶしすぎる。これはボクの目が寝不足のせいでショボショボしているからだけではないはずだ。
「じゃ、じゃあ行こうか。ちょっと早いけど」
「そうだね」
二人で並んで歩きだす。電車の中で、目当てにしていた古書店で、休憩のために入ったちょっとオシャレなカフェで、ボクたちは話しまくった。文化祭の台本のこと、朗読劇のこと、普段の創作活動のこと、最近読んだ本や、今日買った本のこと……。睡眠不足からくるハイテンションのせいもあったとは思う。だけど、純粋に二人でいろいろと話せることがうれしくて、ボクは本当にほとんど休むことなく話し続けた。
楽しい時間というものは、文字通り瞬く間に過ぎていってしまうもの。あっという間に昼になり、オヤツの時間になり、太陽が傾いて夕暮れ時が迫ってきた。そろそろ帰らなきゃいけない時間だ。
じゃあ、そろそろ帰ろうか。そう言ってしまえば、楽しかった今日という時間に終止符を打つことになる。物事には必ず終わりがくるものなんだけど、できればそれを、ほんの少しでも後回しにしたい。もう少しだけ、もう少しだけ、二人きりのこの楽しい時間を長く味わいたい。そんな思いからボクは、ついあちこちへと目的もなく歩き回ってしまい、ふと気づくと繁華街の外れに差し掛かっていた。
目の前に並ぶのは、カラフルな外壁で飾られ、「ご休憩」とか「フリータイム」なんて看板を掲げた建物たち。うわっ、誰だよこんなところに来ちゃったのは、ってボクのせいだ。でもこれはあくまで事故であって、こんなところにこういうエリアがあるなんてまったく知らなかったし想定すらしていなかったし、そもそもボクたちまだ18歳未満だから入っちゃダメだよねってそれ以前にこんなとこ来ちゃったらそういうこと考えてたのかって思われちゃうだろうしうわああああああああああ。そういえばさっきから微妙にサトミの返事が上の空っぽかったというか、気まずい雰囲気になってたような気がするのってこれのせいだったのかうわああああああああああ。
慌ててボクは立ち止まって振り返った。
「ゴメン! 話に夢中で、道を間違っちゃったみたい! もう、そろそろ帰ろう!」
これまでずっと一本道を真っすぐ歩いてたんだから、間違いも何もあったもんじゃない。自分でも苦しい言い訳だと分かってはいたけど、そうとでも言ってごまかすしかなかったのだ。
ズンズンと駅に向かって、これまで歩いてきた道を戻っていく。何となく気まずくなってしまい、話も途切れがちのままボクたちは駅に着き、そのまま電車に乗り込んだのだった。
……あ。そういえば昨日、準備をしながらチラッと「サトミと手をつなげたらいいな」なんて考えてたんだっけ。でも、もう帰りの電車だし、変に気まずくなっちゃったし、それどころじゃないな。少し残念な気持ちを抱えながら電車のシートに深く腰を下ろす。
そこで、ボクの意識は途切れた。
寝不足。一日中歩いたことからの肉体疲労。ホテル街へ迷い込みそうになったことからの精神疲労。
ボクの背中を、腰を、太ももを、優しく包み込んだ座席の心地よさに、ボクは意識を保つことができなかったのだ。
そして、冒頭に戻る。
気が付いたら、ボクはサトミにもたれかかり、手はガッチリと恋人つなぎをしていたのだ。
どどどどどどうしよう。起き上がるのも、手を離すのも簡単だけど、それはしたくない。というかマジな話、この手はボクからつないだのか?「手をつなげたらいいな」と思っていたから、無意識のうちに? その可能性はゼロではないと思う。まあ、限りなくゼロに近いと思うけど。だけど、もしサトミのほうからつないできたんだとしたら? ボクから手を離してしまうのは、彼女の気持ちそのものを振り払ってしまうことになるんじゃないか?
とはいえ、こんなにすぐ近くにサトミの顔があって、体もぴったりくっついていたら、ボクがさっきから寝たふりをしながらドキドキしているのも伝わってしまってるんじゃないか? 少なくとも、手も体もさっきよりずっと熱くなってる気がするし、手汗だってにじんでる気がする。ボクがプルプル震えているのもサトミにバレてると思う。本当に、一体どうすりゃいいって言うんだよ!
そんな天国と地獄の真っただ中にいたボクを救い出してくれたのは、
「間もなく〇〇駅、〇〇駅。お出口は左側です」
という、無機質な車内放送だった。
ボクたちの下りる駅だ。ボクとサトミは反射的に起き上がり、どちらからともなく手を離すと、足元に置いていた自分たちのエコバッグを持ち上げた。本が何冊も入ったバッグは、ずしりと重い。手をつないだまま歩くなんて、とても無理な重さなのだ。ボクたちは二人とも「えっちらおっちら」という言葉が似合いそうな足取りでヨロヨロと電車を降りた。
すっかり暗くなった駅のホーム。夜の空気がヒンヤリと冷たい。その風の冷たさが、ボクに冷静さを取り戻させてくれた。
「重いね。ちょっと買いすぎちゃったかな」
「ヘヘ、そうだね」
そんなことを話しながら、改札を抜ける。ついさっきまでぴったり寄り添ってうたた寝していたなんて、そんなこと何もなかったかのように、いつも通りの調子だ。
「今日は楽しかったよ、ありがとね」
サトミはそう言って、スタスタ歩き始めた。
「……あ、うん、お疲れ様。またね」
今日という日がこんなにあっけなく終わってしまうなんて。
サトミの後ろ姿をしばらく眺めていたボクは、衝動的に彼女を追いかけていた。
「お、送るよ! もう暗いし!」
サトミは少し驚いたようだったが、ヘヘッと笑うとボクと肩を並べて歩き始めた。
他愛ない雑談をしながら10分ほど歩き、一軒の家の前で、サトミが言った。
「うち、ここだから。送ってくれてありがと。また、一緒にどこか行けるといいね」
「あ、うん。じゃあ、また明日、学校で」
ボクはそう言うと、手を振って帰り道を歩き始めた。
一度、大きく深呼吸。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
今日のお出かけ。これは打ち上げであって、やっぱりまだデートじゃない……はず。だけど、本当にそうだろうか。そもそも、デートかそうじゃないかなんて、もう、ボクたちの間では些細なことなんじゃないか。ちょっとした言葉の違いにこだわるばかりで、ボクは大切なことを見落としているんじゃないか。
こうして楽しい時間を共有できたのなら、それでよかったんじゃないか。
一人、静かな夜道を歩きながら、ボクの心は静かな決意に満たされていた。




