蜂を放り込んで
どうにか落ち着きを取り戻して、
十六夜はゆっくりと呼吸する。
依然として蜂は暴れ回っていたが、
徐々に動きが鈍くなっていた。
もう数分も経てば、
やがて蜂は完全に力尽きる。
そうなればあとは簡単だ。
蜂を木箱に納めて、
どこか自然豊かな山中に埋めるだけ。
長い年月を経て、
木箱が朽ちる頃になったら、
蜂は別の命としてこの世に目覚める。
注釈を加えておくが、
これは決して蜂を退治している訳ではない。
千歳と蜂との対話により、
蜂の毒を解毒しているだけだ。
蜂がもがいているのは、
単に人間との対話を嫌がっているからだ。
さて、もうじきに蜂の力が尽きる。
そろそろ木箱の用意をしておくか───。
「……?」
和泉が立ち上がり、
部屋のダンボールの上に置かれた
木箱を取りに行こうとした時、
千歳は異変を感じた。
蜂が弱ってきているのは確かだが、
蜂はまだ一番大事な物を捨てていない。
「流歌君っ!まだ終わっていないっ!」
「っ!?」
人間との対話が余程嫌だったのか、
最後の力を振り絞って、
蜂は針を構えた。
そしてそれを勢いのままに、
十六夜の手のひらに刺した。
「──────!」
自然界にいる普通の蜂とは違う
妖神としての力を持つこの蜂の毒は、
普通の蜂の殺傷能力とは
比べ物にならない程の即効性と致死性があり、
同時に尋常ではない程の痛みが走る。
それに十六夜がこの蜂に刺されたのは二度目だ。
消えかけていた毒が復活し、
また新たな猛毒が十六夜の体を駆け巡る。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
「十六夜君っ!」
声にならない悲鳴をあげて、
十六夜の体は横に倒れる。
手のひらから腕を伝い、肘、肩、
首元まで尋常ではない速度で
毒に侵攻されていく。
もし、毒が脳や脊髄に届いたら、
仮に命を救えたとしても
大きな後遺症が残る可能性がある。
最悪の場合、生きる人形のように
話すことすら出来なくなるかもしれない。
「こうなったら仕方ないかっ。
流歌君!この子の為に死になさい!」
十六夜の手から落ちた蜂を
千歳は拾いあげると、
それをあろうことか
一瞬の迷いもなく和泉の口の中に押し込んだ。
その和泉も何の躊躇いもなく、
押し込まれた蜂を無理矢理に飲み込む。
そして瞬きをする間もないまま、
千歳は十六夜の体を抱き上げて
和泉の方へと放り投げた。
反射的に十六夜を受け取り、
和泉は十六夜の体を抱き締める。
毒に苦しむ十六夜だったが、
だんだんとその毒が
ジリジリと燃えるように消えていく。
始業式の日にやったことと同じだ。
目立った外傷はなく、
やがて十六夜の体は元に戻った。
しかし、毒が完全に消えた訳ではない。
これは、十六夜の体に入った毒を
和泉が肩代わりしただけに過ぎないのだから。
当然、和泉の体が無事な理由がない。
「…ん…っ…冷たい……?」
毒の影響で数分間だけ意識を失った十六夜が
激しい頭痛に襲われながら目を開けると、
すぐにある異変に気づいた。
服が濡れているのだ。
否、それだけではない。
目の前に水溜まりがあり、
そこに烏城高校の女子の制服が沈んでいた。
「あっ、鉄弥ちゃん。
もうすぐだからそこ退いてあげな。」
「……?」
千歳に言われた通りに
十六夜はその水溜まりから離れる。
キョロキョロと周囲を見渡すと、
和泉の姿がどこにもない。
和泉のことを千歳に聞こうとした時、
『その時』が訪れた。
「な、なんだ……?」
水溜まりから、ブクブクと泡が湧く。
水が少しずつ浮きあがり、
何かの形を創っているようだった。
眺めている内に、それが何の形なのか
分かってくるようになる。
「鳥……?」
頭があって、首があって、胴体がある。
やがて大きく羽を広げたかと思うと、
鳥の形が突如として崩れて、
人間の形を創り始めた。
それが高校生くらいの大きさになり、
頭の方から水が乾いていく。
「和泉…なのか……?」
十六夜にとってはもう見慣れた顔。
紛うことなき和泉である。
和泉の全身から水が乾くと、
和泉の意識は覚醒する。
「っ!?うわぁぁぁ────!」
ただそこに和泉がいただけなら、
別段どうということはなかった。
クラスメイト同士で再会し、
今回の件に関してお礼をする。
たったそれだけのことだ。
だが、十六夜は高らかな悲鳴をあげた。
廃工場に十六夜の悲鳴が響き渡り、
ガラスが軋む音がする。
制服の上からは想像できない程の
和泉の筋肉質な体は、
女の子にしては頼り甲斐がある。
意外と広い肩幅に、
綺麗に6ヶ所に割れた腹筋、
細く引き締まった脚筋。
彼女の全身を余すことなく視界に収め、
初めて見た女性の産まれたままの姿に
十六夜は思わず悲鳴をあげたのだった。
「一体何なんだよっ!?
和泉ってそういう趣味のある
変質者だったってことか!?」
十六夜は後ろを向き、
顔を手で覆う。
まるで熟れたトマトのように
耳まで顔を真っ赤にして、
脳裏に焼き付いた風景を思い出す。
「うんうん。これぞ健全な男子高生の反応。
もう驚きもしなくなった僕とは大違い。
それにしても、いつ見ても神秘的だねぇ。」
「私としては困るんだけどね……。」
その十六夜の後ろで、
和泉と千歳は雑談でもするように話す。
もうすでに失いつつある羞恥心を片手に、
和泉はびしょ濡れになった制服を拾う。
制服はもちろんだが、
下着まで水で重くなっている。
「も、もういいか……?」
「え?あぁ、いいわよ。」
しばらく待った後で、
確認するように十六夜は問う。
もちろん、振り返ってもいいかという
意味の他にない。
ただ、先に記した通り、
和泉の羞恥心というものは
もうすでに無いに等しいのだ。
これまでに幾度となく、
同じことを経験していたから。
これがどんな結果をもたらすのか、
想像できる人もいるだろう。
十六夜が振り返ると、
そこには和泉と千歳がいた。
いや、ただいただけではない。
ポーズを取っていた。
和泉は右手を額に当てて
左手を遥か天空へ掲げており、
和泉の股間と胸を隠すように
千歳がお盆を構えて膝をついていた。
それはまるで一つの芸術作品のようで、
このまま出品すれば
いくらかの値が付きそうだ。
その価値は決して計り知れない。
「お前ら、ふざけてるだろっ!」
あまりにも有り得ない光景に、
一瞬だけ思考が止まった十六夜だったが、
すぐにまた後ろを向くと
怒鳴るように叫んだ。
さすがに調子に乗りすぎたかと思い、
和泉は持参していたカバンから
代わりのジャージを引っ張り出した。
和泉はジャージを着ると、
窓から身を乗り出して濡れた服を絞った。
制服はあまり力を入れると
破れたりシワができるので、
軽く絞ってから何度か叩いたあとに
ハンガーに吊るして外に干す。
服の問題を片付けてから、
和泉は手頃な場所にあった椅子に座る。
「俺、もう帰ってもいいか?」
ようやく顔の熱も冷めた頃、
十六夜は疲れたように言った。
いや、実際のところで、
十六夜はかなり疲れているはずだ。
肉体的にも精神的にも、
妖神が及ぼす影響は
普通の人間が耐えられる範疇を超えている。
今回はまだ早期に対処した方だが、
それでも疲労は軽くない。
「……。」
「な、なんですか…?」
帰りたいと言う十六夜に、
千歳は意味ありげな視線を送る。
その視線があまりにも不審で
妙な熱を帯びていたため、
十六夜は警戒心を強くする。
「面白いね。鉄弥ちゃんは。」
千歳が言った言葉を
十六夜はすぐに理解できない。
ここに来て、理解できないことばかりだ。
自分のどこが面白いというのか、
十六夜には皆目見当もつかない。
十六夜が疑問に思っていると、
その答えはすぐに教えてくれた。
「ある日突然蜂に刺されて苦しんで。
病院に行っても治療されなかったのに、
流歌君に連れられて来てみれば、
僕みたいな変な人に
変な儀式と共に助けられて。
ここがどこかも分からないまま、
あの蜂が何だったのか不明なまま、
僕達の正体が何なのか謎のまま。
全てが未知で不思議なことなのに
何も聞かずに帰るだなんて、
本当に鉄弥ちゃんは面白いよ。」
それは、とても冷たい言い方だった。
川の向こう側にいるような、
離れた場所から一方的に告げられる。
接点すらない関係の人物が
ただ上辺だけのことを見て
感想を言っているかのようで、
冷めた空気を含んだ言い方だった。
だが、それが幸か不幸か、
十六夜の心には突き刺さった。
あぁ、そうか。自分は普通ではない。
普通の人間であれば、
自分の身に起こった事象のことくらい
誰かに聞いたりするものだ。
どうして、こんなにも冷めているのだろう。
そんな思考が十六夜の頭を巡り、
やっとのことで十六夜は言葉にした。
「あなたは、誰ですか?」




