十六夜鉄弥
廊下に出てしばらく歩く。
もう他の生徒は帰ったようで、
廊下には誰もいない。
グラウンドの方から
部活をしている声が響いてきて、
まだ春だというのに
暑苦しい空気がここまで届く。
和泉は嫌な気分になりながらも
どうにか気持ちを誤魔化す。
そして、階段を降りようと
廊下を曲がった瞬間、
和泉の喉元に冷たい刃が押し当たる。
「…止まれ。」
和泉は歩みを止めると、
その刃の本体を確認する。
だが、ひと目見てすぐに分かった。
先程和泉が自ら話題に出した人物で、
ティンカーベルでも棲んでいるのかという程に
キラキラと煌めく金髪を携えた男子生徒。
和泉を睨むその目は
獲物を狙う猛獣のようで、
その手に構えたカッターナイフは
さしずめ獲物を仕留めるための牙だ。
「薄い青色の髪をした、
性格の悪そうな目の女子生徒……。
やはりお前だったか、和泉。」
今日は学校を休んでいたはずだが、
十六夜鉄弥は確かにそこにいる。
こんな出会い方でなければ、
心配の一つでも言えたのに。
「お前だな?始業式の日に
廊下で倒れた俺を保健室まで
運んでくれたってのは。」
保健室で医務の先生に聞いたのだろう、
十六夜は確認するように和泉に言う。
だがしかし、人にモノを聞くのなら
そのカッターナイフはしまって欲しい。
「そうだけど、それがどうかした?
感謝しに来たって雰囲気ではなさそうだけど。」
カッターナイフに動揺する素振りもなく、
和泉は淡々と言ってみた。
正確には、他の生徒に担がせて
和泉自身は後ろについていただけなのだが。
ただ、その和泉の態度が気にいらないのか、
十六夜は押し当てていただけの
カッターナイフの刃を
和泉の喉に垂直に立てた。
喉に薄い筋が走り、
僅かな量の血液が垂れる。
頸動脈という血管を知らないのか、
下手に首を傷つけないで欲しい。
うっかり死んだらどうするつもりだ。
「俺の質問に答えろ。
お前、俺の体に何をした?」
十六夜のその質問の意味に、
和泉はすぐに気がついた。
彼の体を蝕む症状を抑えて、
体を楽にしてやったのが和泉だからだ。
もしあの時和泉がいなければ、
彼は死んでもおかしくなかった。
否、このまま放っておいたとしても、
そう遠くない内に十六夜は死ぬ。
和泉なら『それ』を治すことが可能で、
その全てを何と呼ぶのか、和泉は知っていた。
ただ『それ』をバカ正直に告げたとして、
十六夜は素直に受け入れるだろうか。
「何って言われたって、
私はただ、廊下で倒れてたあなたを
保健室まで運ばせただけよ。
変なことなんてしてないから安心して頂戴。」
「誤魔化すなっ!」
和泉の言葉に食い入るように、
十六夜は声を荒らげた。
瞳の鋭さに磨きが増し、
カッターナイフを持つ手に力が入る。
カタカタと刃が震えて、
怒りや恐怖のような感情が溢れ出している。
「あんなにも辛かったのに、
何事もなかったように『あれ』がなくなった。
保健室の先生に聞いても
何もしてないって言うし、
それに、倒れたすぐ後に
体が楽になった気がした……。
お前以外、ありえないんだよっ!」
どうやら十六夜には、
『それ』を治した人物が和泉だと
確証めいた記憶があるらしい。
ただ、それだけでは足りない。
記憶という曖昧な証拠だけで、
全てを語ることはできない。
しかし、和泉が言い逃れできなくなる言葉を
十六夜は知っていた。
「『妖神』…と呼ぶんだろ?
言い逃れなんてさせねぇ。
お前がその道を知っていること、
もう調べてあるんだからな。」
なるほど。大したことだ。
『妖神』のことだけでなく、
和泉がそれを知っていることまで調べたとは。
だとするなら、和泉の師匠のことも
調べているのだろう。
和泉の名前を知ろうとすれば、
あの人は避けて通れないはずだ。
いやしかし、そこまで知られていては、
もう逃げられそうにない。
ここは諦めて十六夜に従うとしよう。
「分かった、認めるわ。
確かに私はあなたの体に治療を施した。」
和泉が認めると、
震えていた十六夜の手は
落ち着きを取り戻したようだ。
安心したような表情を浮かべ、
力の入っていた全身が解れると、
十六夜はカッターナイフを下げた。
「でも勘違いしないで。
私がしたのはあくまでも応急処置。
このまま放っておけば、
あなたはまたあの苦しみに襲われて
1週間もしない間に死ぬことになる。」
和泉は真実のままを口にする。
十六夜の肩が大きく震えて、
瞳にじんわりと涙が滲んできた。
彼自身の体のことだ、
誰よりも自分の体の異変に気づく。
彼は和泉にお礼を言いに来た訳ではないのだ。
ならばなぜ、カッターナイフを突き立ててまで
和泉から言葉を出させたのか。
考えるまでもないことだ。
本来なら本人の口から直接
伝えて欲しいことではあるが、
ここは十六夜の泣き顔に免じて
大目に見てやるとしよう。
「死にたくないのなら、
黙って私についてきなさい。」
鞄を肩に担ぎ直して、
和泉は階段を降りていく。
十六夜の横を通り過ぎる時、
十六夜は微かに目を見開いた。
カッターナイフを突き立て、
確かにその喉元に傷をつけた。
なのに、和泉の喉に傷はなく、
床に滴れたはずの血液の痕もない。
……十六夜は、知らなかったのだ。
和泉は『妖神』を知る者だとしか、
教えられていなかったから。




