日山城、疑心暗鬼の砦 第3話:放たれた矢
作者のかつをです。
第二章の第3話、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回は、元就の謀略の核心となる「偽りの矢文」がついに放たれる瞬間を描きました。一本の矢に込められた恐るべき悪意。主人公・疾風の葛藤と共に、その緊張を感じていただければ幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
吉田郡山城に戻った翌日の夜。
俺、疾風は再び元就様の前に呼び出されていた。
元就様は、一本の矢とそれに結び付けられた小さな文を、俺の前に差し出した。
「これを、今宵、東の砦に射ち込んでこい」
その文は元就様が直々に書かれたものだった。俺はその内容を確認するよう許された。
差出人は、日山城の城主・三吉。
宛名は、大内軍の総大将。
そして、その内容はあまりにも衝撃的なものだった。
「――東の砦を囮とし、尼子の援軍が到着するまでの時間稼ぎとする。砦が落ちる頃合いを見計らい、我が本隊が貴殿らの背後を突く。その功により、我が三吉家の安芸国での安泰をお約束いただきたい」
つまり、日山城が東の砦を見捨てる、という内容の密書だ。もちろん、すべては真っ赤な嘘。
「な……なんという……」
俺は思わず言葉を失った。
人の心をここまで弄ぶことができるものか。
元就様は、そんな俺の様子を楽しむかのように見ていた。
「良いか、疾風。この矢は砦の誰の目にもつく場所に射ち込まれねばならん。じゃが、いかにも隠そうとした密書が、偶然見つかってしまったというように見せかけねばならん。わかるな?」
「……はっ。櫓の柱などにわざと浅く突き刺し、伝令が途中で落としてしまったかのように見せかける、と」
「うむ。それで良い」
俺はその偽りの矢文を固く握りしめ、闇夜の中へと駆け出した。
東の砦が見える崖の上。
眼下には松明の灯りが点々と揺れている。風はない。矢を射るには絶好の夜だった。
俺は弓を満月のように引き絞った。
狙うは、見張り櫓の太い柱。
この一本の矢が、固い絆で結ばれていたはずの二つの城を、血で血を洗う殺し合いへと導くことになる。
俺は、何という罪深い仕事をしているのだろう。
一瞬、迷いが心をよぎる。
だが、すぐに首を振った。
俺は元就様の影。道具だ。心を殺さねば、この仕事は務まらない。
俺は息を止めた。
そして、指を離した。
ヒュッと矢が夜空を切り裂く乾いた音がした。
矢は吸い込まれるように、闇の中へと消えていく。
やがて、遠く眼下の櫓で、カッと小さな硬い音がした。
見事に、柱に突き刺さったのだ。
俺は弓をゆっくりと下ろした。
矢は、放たれた。
もう、後戻りはできない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この「矢文」を使った謀略は、毛利元就の得意とした戦術の一つだったと言われています。最小限の力で最大限の効果を上げる。彼の合理的な思考がよく表れています。
さて、砦に突き刺さった一本の矢。それが翌朝、発見されることになります。
次回、「崩れゆく信頼」。
偽りの言葉が人の心を、静かに、しかし確実に蝕んでいきます。
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